雨が止まない

 日曜日は雨だった。


 布団の中でだらだらと何度も寝て起きてを繰り返し、重い体をようやく起こしたときにはもう十六時を回っていた。

 カーテンの隙間から覗いてみたら、どんよりと分厚い雲に覆われた鉛色の空。

 予報通り、昨日からずっと降り続いている。


「今週も何もできなかったな……」


 普段睡眠時間が短い分、週末に長く寝ることでどうにか生活が成り立っているという悲しい現実。張り切って早起きしたところで、特にやりたいこともないというところもまた虚しい。

 こうして、普段ならこのまま夜ご飯を食べお風呂に入って、私の週末は終わる。

 が、もう夕方にもかかわらず一応服を着替えてしまったのは、きっとあの約束が心に引っかかっているからだろう。


 行かなくていい、と七海は言った。

 あんたが行かなくてもそいつは悲しまない、とも。


 確かにその通りだと思った。

 偶然出会って、ちょっと言葉を交わして。その場のノリで誘ってくれただけ。なんなら、冗談だったということもあり得る。

 だって、考えれば考えるほど、出会ったばかりの私をお花見に誘う意味がよく分からないのだ。

 八重くんが時間なのだとしたら尚更、私に関わってくるその目的が読めなくて怪しい。

 七海の言葉には、私も思う所がある。


 せっかく咲いた桜の花を手折る姿。あの美しい微笑み。

 八重くんには何か危うさが漂っていた。それが、桜のようだった。


 しばらくそわそわと部屋の中を歩きまわっていたが、遂に羽織っていたパーカーを脱いでソファの背もたれへと放り投げ、腰を下ろした。

 約束の時間を過ぎてしまえば、諦めがつくかもしれない。

 だったら、このまま寝てしまえばいいのだ。

 次に起きた時には十九時を回っていて、今日の約束は永遠に果たされないまま終わる。


 それでいい。きっと——。











 目を閉じて、雨の音を聞いていた。











 夢の中だと気付くまでに、時間はかからなかった。


 周りの景色は何となく今と違っていて。

 高層ビルも無ければ、地面を走る線路もない。

 美しく弧を描いたレトロなデザインの橋の上を着物姿の人々が歩いていく様子を見て、いつかの教科書で見た昔の日本の景色を思い出す。


 優しい春の光が降り注ぐ、静かな朝だった。

 私はこの場所を知っている。


 脳がそう判断した瞬間、私の足はひとりで動いた。

 慎重に土手を下り、河原を進んで行く。

 その先に、満開の桜の木があった。あの八重桜だとすぐに分かった。


 木の傍には人影が二つ。

 微妙な距離感で佇む二人は、揃って桜の木を見上げていた。


「とても綺麗……」


 大輪の花に手を伸ばし、女性が呟いた。

 まだ十代にも見える、幼さの残る顔立ち。

 だがその立ち姿は優美で艶やかだ。


「この時期にもまだ咲いている桜があったなんて、知りませんでした」


 道沿いの桜はもう既に若葉が出始めている。

 新緑の季節へと向かう中、今なお鮮やかに濃い色を纏っているのはこの木だけだ。


「八重桜の開花時期は通常の桜より少し遅いですから。少しだけ長く春を楽しむことができます」


 男性は穏やかな声でそう答えた。

 丸いメガネの奥の優しい瞳が、愛おし気に細められる。

 それは桜の美しさに対するものではないことは明らかだった。


「今日は突然お誘いしてすみませんでした。でも、明日この街を離れると聞いて、その……ええと……」


 貴女と一緒に見たかった。

 その一言がどうしても言えないようで、見ているこっちがもどかしくなる。

 続きの言葉を待つ女性が不思議そうに首を傾げると、男性の頬が更に赤く染まった。

 頑張れ! 見知らぬ人の恋路だが、思わず心の中で応援してしまう。

 男性は暫くもじもじしていたけれど、やがて決心したようにぐっと拳を握り締めて、口を開いた。


「ずっと、貴女と一緒に見たいと思っていました……!」


 よっしゃ! よく言った! 

 ついつい感情移入をしてしまい、私はガッツポーズを決めた。


 貴女と一緒に見たかった。嫌いな相手に言う言葉ではない。

 その真剣な声色に、女性は少しだけ眼を見開いた。


 こ、答えは!? なんて返事するの!?

 お気に入りのドラマに夢中になるような気分で、私は両手を合わせて見守る。


 女性はふんわりと、まるで花咲くように唇をほころばせた。


「素敵なお誘いをして下さってありがとうございます。とても嬉しいです」


 ひどく遠回しなやり取りだった。

 だけど、二人の気持ちを知るには十分なものだった。


 心地よい春風が、二人の髪を、着物の袖を揺らす。


「桜の花言葉は精神の美、優美な女性……まるで、貴女のことのようです」

「まあ、お世辞がお上手ですね」

「い、いえっ! 決してお世辞などではなく、本気でそう思っています! ぼ、僕は、貴女を一目見た時から、……」

「……?」

「……っ、すみません、やっぱり、何でもありません……! 気にしないで下さい……」


 じれったい。でも惹きつけられる。

 古い少女漫画みたいなやり取りを、私はじっと見守る。


 このまま二人でずっと桜を眺めていることができたなら。

 いつか、想いを伝えることができるだろう。

 散らないでほしい。永く咲いていてほしい。

 女性の着物に咲いたお花みたいに、ずっとずっと鮮やかな姿を保ってくれたら——。

 そんな淡い願いを飲み込んでしまうように、灰色の雲が空に広がり始めていた。


「……明日から、しばらく雨が続くそうです」


 ぽつりと雫が零れ落ちるように、男性が呟いた。


「八重桜が散ってしまったら、いよいよ春も終わりですね」

「……はい、春の終わりは毎年悲しくなります。……ああでも、今年はこうして貴女と一緒に桜を見ることができて本当に良かった。僕の一生分の願いが叶った気分です……って、こんなことを言うとなんだか人生最後の春みたいですね」


 男性は照れたように笑って頭を掻いた。


「春は毎年やってきて、桜は何度でも咲きますから。もしよろしければ……また来年も、一緒に見に来ましょう」

「あの、私……!」


 女性は足元に散った花びらに目を落とし、思い切ったように顔を上げる。


「どうかしましたか?」

「……いえ、何でもありません……」


 再び俯いてしまった女性の口から、続きの言葉が出てくることはなかった。


 春の終わりは、いつも切ない。

 桜が散るまでの時間は短すぎて、二人を繋ぐには余りに心もとないものだった。


 沈黙を破るように、どこか遠くの方から時計の鐘の音が聞こえてくる。


「あら、もう……」

「ああっ! すみません、長い時間引き留めてしまって……!」

「そんな風に謝らないで下さい。とても素敵な時間でした。本当はもっと見ていたいけれど……でも、もうそろそろ行かなければなりません」

「送ることができなくでごめんなさい、僕が……」

「お気になさらないでください。私は大丈夫ですから……あ、」


 そっと着物の袖を抑えて手を伸ばし、白い指先が男性の髪に触れる。


「髪に桜の花びらがついていました」


 どこか儚げで、切なくなる様な微笑みだった。

 二人はきっと、もう会えない。なんとなくそう思った。


「また来年。私はここへ来ます」

「……っ! はい! お待ちしています」

「きっと待っていてくださいね」

「ええ、勿論です」

「桜流しが降る時までには、必ず来ますから」

「はい。僕はここでずっと待っています」


 ああ、この女性は嘘をついている。直感したのは、私も同じ女だからだろう。

 純粋で控えめな姿の裏に確固たる想いを隠して「必ず来ます」と嘘を吐いた。


「桜には、こんな花言葉もありますよね」


 その一言が、彼をこの先ずっと彼を縛り付けることを分かっているはずだ。

 二度と戻ることは無い。それでも待ってもらうことを望んで、この先ずっと果たされることのない約束をする。


「私を忘れないで」


 それを愛と呼ぶか、呪いと呼ぶか。

 私には、分からないけれど。


 彼は至極穏やかに微笑んで、ゆっくりと頷いた。











 目覚めた時には、既に辺りは真っ暗だった。


 時刻は十九時。まだ、雨は降り続いている。




 夢のことははっきりと覚えていた。


 結局、幾度の春が過ぎても彼女が戻ることは無かった。

 果たされることのない約束だったと、男も気付いていたはずだ。

 嘘をついて去って行った人のことなんて、さっさと忘れてしまえば良かったのに。

 降りしきる雨の中、最後のひと房が落ちるまで、ただひたすらに待ち続けた。

 やがて新緑が茂り、赤く色づいた葉が枯れ落ちて、静かに降り積もった雪が積もる頃には記憶も薄れてゆくのに——春はまた、巡ってくるから。

 死ぬまでずっと待ち続ける。


「私を忘れないで」


 桜流しにも色褪せない、その言葉を胸に抱いて。




 ソファから立ち上がり、パーカーを羽織って玄関へと向かう。

 約束の時間は過ぎてしまったが、今から向かえばまだ間に合うかもしれない。


 誰の物とも知れない思い出を、どうして私が夢に見たのかは全く分からない。

 ただ、この約束は果たさなければいけない。不思議とそんな気持ちになった。


 だから私は傘を手に取って、雨の中へと踏み出した。

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眠田ねねこは眠れない 日比 樹 @hibikitsuki

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