第2話『桃色ガラスな櫻の世界』
「……」
風が心地いい──。
まだ薄っすらと肌寒い朝方ではあるが、陽が差し込む櫻の樹の下は特有の心地を覚えるものだ。
人は広すぎると落ち着かなくなり、ある程度周囲に壁などがあると落ち着くと聞くが、案外それを櫻の樹の下というものは体現しているのかもしれない。
「……」
その櫻の樹の下に、一人の男性がいた──。
染物のような麻赤の髪は、肩口辺りで切られているが、寝ているためにその全体の形状を図る事は難しい。ただし、その耳の手前から垂れる編み込んだ髪は、特徴的とでも言うべきか。
そしてその瞳は、黒曜を思わせるもの。
身長については、可もなく不可もなく。──強いて言えば、それはあまりにも女性的であった。
「──おや。こんなところで寝ていると、風邪引くぞ」
「……別に風邪引かないし。それよりも“梓沙”姉こそ、今日の授業の準備をしないと不味いんじゃないの」
「──こらっ“千歳”!? 学校では梓沙姉じゃなくて、津木野先生と呼びなさいと言っているでしょうが!」
梓沙姉と呼ばれた彼女は怒ると、櫻の樹の下で横になっている千歳と呼ばれた彼女は、そのまま気にしない振りをしつつ再度横になるのだった。
“津木野梓沙”──。
案外杜撰な性格だけを除けば、きっと男女共から嫉妬と羨望の眼差しで見られるほどの、圧倒的なまでのモデルスタイル。
だが、れっきとしたこの“春風高校”の一教師であり、先ほどからどうしようもない者を見ているような視線の先にいる千歳の担任の先生でもあるのだ。
櫻の花びらが舞うたびに、その黒髪の一房に纏めた髪が風に踊る。黒鉛のようなくすんだ髪色と特有の髪艶が、両立しているという稀有な例。
しかして、当の千歳からすれば、ただの口煩い義姉であるのだ。
「──相変わらず、男性に見えない顔だな。もう少し恋とかでも経験してみたらどうだ?」
「ほっとけ。俺は別に恋に何かしらの期待をしている訳ではないし。それに、相変わらず男性に見えぬ顔は元からだ」
「まぁ、そこら辺はそう簡単に変わらないよな」
相変わらずの掛け合い──。
特段その千歳自身と梓沙との掛け合いに意味はなく、ある意味コミュニケーションじみたやり取りであった。
「──それで、俺に一体何の用です。特に問題を起こしてませんが」
「まぁな。勉学運動共に優秀。それに期間内に提出物を忘れたためしがないという、一見優等生な立ち回りだ、千歳」
「……一見は余計です」
「まぁ、話の続きを聞けって。──最近月代本家に客が来るから、彼女に対してもてなしをして欲しいんだ」
月代本家と言えば、千歳の祖父が前まで仕切っていた、家系の名前だ。
もっとも、その孫である千歳はある程度の関係があるのだけど、実の父母については事実上絶縁状態に近い状態。
おかげ様で、ざまぁとは言うつもりはあまりないが、死した白阿の遺産を碌に受け取っていなかったりする。
まぁ、千歳自身も碌に交流を持っている訳ではないので、個人的には他人事に近い感覚だったりしているのだ。
「──それで。その客人というのは何時家に来るんです?」
「それに関して言えば、大体午後の六時頃。今日の授業は午前で終わるから、別に寄り道をせずに帰ってこいとまでは言わない。けど、その時間の少し前には帰っていて欲しいんだ」
その言葉で千歳は思い出したのだが、丁度今日は懇談会か何かで午前だけの授業構成となっている。
確か、千歳自身は早めの時間を予約していたのだから。
そこから計算をして、おおよそ午後2時ぐらいには学校を出る事が可能な筈だ。
たとえ寄り道などをしたとしても、千歳が家に6時までに帰る事は、
「──じゃ、あとはよろしくねー!」
「……」
「あっ! そろそろ授業が始まるから、さっさと教室に戻って席に着いていてねー」
「……はぁーい」
適当に返事をしつつ、千歳はそのまま再度二度寝──いや三度寝をする。
勿論、授業開始時間を頭に入れつつ三度寝をするつもりだ。
故に、学校に来ているというのに遅刻をするという、何とも恥ずかしい事にはならないだろう、多分。
「──“櫻の道を私は歩く。
──揺れて動くは桃色ガラス玉。
──きっとそれは私の現象。
──四季移ろいで行く、
そう、ふと千歳は口に零してしまうのだが。
はてさて、一体誰の言葉だったか。
けれど、何処かしらで耳に染み付くほど、千歳自身は聞き続けた気がするのだ。
“違和感或いは花歌”。
草笛にも似た言葉の羅列は、蒼穹へと消えていくのだ──。
/2
授業は、刻々と流れていく──。
別に特出するべきもない単語の羅列な、はて意味があるのか分からない講義の声。
これが勉学に疎い学生の独白ならば、まだ話は簡単だったのだろう。
けれども、千歳という勉学に秀でた学生が独白するのだから、たちの悪いとしか言いようがなかった。
とはいえ、千歳とて勉強はしているつもりだ。
テストの点数が悪くて補習なんて、それこそこうしてつまらない授業を真面目に受けるよりか最悪である。
故に千歳は、損得勘定により勉強をしているという、一般学生としては当たり前な学生風景の一部と化しているのだ──。
「……──はぁ、暇です」
けれども、暇は暇なのだ──。
それは、損得勘定とはまた別な、感情的なもの。
暇を暇と思わないようにする方法があると、千歳は何処かで聞いた事あるが、もしかしたらそう考える事自体がむしろ暇でなくしているのかもしれない。
とはいえ千歳も、今だ学生の身。
適当に授業を過ごしていた事によって、内申点を落としたくはない。
けれども、真面目に授業をこなすのは何かと癪なので、精々頑張るとしましょうか。
──キンコンカンコーン♪
終わりを告げるチャイムが鳴った。
そして、他生徒たちも授業を退屈に思っていたのか、彼等はチャイムが鳴るのと同時にまばらに散っていく。
放課後をどう過ごすかは、それ人それぞれ──。
青春の華と例えられる部活に勤しむものや、将来を気にして大学受験のために勉学に励む者、それと男女間の恋愛に励む者など。
例えばそれは、田舎町の“春風高校”──。
意外と言うべきか、案外と言うべきか。──いそいそと帰る準備をしているような千歳みたいな意味のない帰宅部というものは、案外少なかったりするのだ。
「──あっ!?」
そんな時の事だ──。
階段を下る千歳の体が、後ろから走ってきた誰かの体と接触する。
相手も誤ったのだから、別に気にしていないのもまた事実。
しかして、そんな帰宅部な千歳として予想外だったのが、手にしていた鞄が彼女自身の腕から零れだしてしまった事だ。
そして千歳の鞄は、彼女が手を伸ばすも虚空を切り、そのまま重力と運動性によって階段の踊り場へと落下していくのだった。
「……」
溜息をつきたくなる。
とはいえ、誰かしらに当たる必要もなければ、そんな都合の良い相手もいない。
故に千歳は、落ちた鞄を取りに行くべくその階段を下るのだが、その彼女自身の手が件の鞄に触れる事はなかったのだ。
「──ほら、もう落とすんじゃねぇぞ」
千歳へと手渡しされる鞄──。
その当人は、さも興味なさげに千歳へとその鞄を渡すのだった。
「ありがとうございます……」
「おっと。別に貸し借りとかに興味はないんだが、今回はお礼をして欲しいんだわ」
「……」
「警戒しなくてもいいぜ。別に金払えとか危険な事を、お前にさせるつもりじゃねぇ。──てか、金払うからやって欲しい事があるんだ」
しかし、千歳の手は虚空を切った。
それは目の前にいる、鞄を拾った眼鏡を掛けた黒髪の彼が、手にしていた鞄を動かしたに過ぎない。
彼の名前は、“鈴木哲郎”──。
あまり幼馴染とか同年代の人たちと触れ合ってこなかった千歳にとって、数少ない知人であった。
しかし、それだけの間柄。
別に一緒に遊びに行ったりする訳ではなく、精々こうして話す程度の関係だったりする。
さてそれは、眼鏡黒髪な彼の意思──要求によるもの。
特段なくしたら困る物は入っていないのだが、このまま持ち帰られたりでもしようものなら、明日からの数日間は授業で苦労しそうだ。
故に、最悪碌でもない要求だったら即座に突っぱねるつもりだが、その要求の内容を聞いてみようと思うのだ。
「──お前には、今オレが受けている美術の授業の課題である、桜の絵を描いてほしいんだ!」
/3
別に、数時間以上を掛けた大作ではなく、一時間程度の作品で良いらしい──。
もっとも、そこら辺の加減は、白いキャンバスの前に立ちつくす千歳自身に任された。……白色だ。
正直言って、月代千歳は絵を描かなくなった──筆を折った者側にいる人間だ。
故に本来は、彼の矜持にも賭けて千歳はこの要求を飲むつもりなんて、更々なかったりもした。
でも、これは機会だ──。
辛いかもしれない。
意味がないのかもしれない。
けれど、最後に画家を目指していた千歳自身としては、ごく当たり前な結末を以ってして、人生という劇の幕は下りる事が正解なのだろう──。
「(嫌な取引だったけど、こうして考えてみればこれが最後の作品、か。俺の使っていた画材もないし、特定の抽象表現を必要としない、俺自身が描き表す世界。──俺の作品は、今日この日にてごくごく自然な一枚で終わるのか)」
筆に手を取る──。
気持ち悪いほどの質感。
千歳自身が絵画から離れたのも一つの理由であったのだが、彼が手にした筆はおそらくというかある程度の目利きから、ある程度安物の筆だと、そう察する事ができる。もっとも、一普通高校の美術教材に対して、何期待をしているんだという話ではあるが。
でも月代千歳は、あの日筆を折ったとはいえ画家だ──。
移ろいを何も描かれていないキャンバスの上に乗せる、世界を描き映す者の名前だ。
黒鉛が、しっとりと世界を創り上げる。
絵具特有の匂いが、教室の窓から吹く風によって鼻腔をくすぐる。
踊る筆は、色彩を染め上げる。
それはきっと千歳の色。
嗚呼、美しきかな素晴らしき世界──。
春の陽気に照らされた櫻は、満開もの花をその枝に宿らせる。
ごくごくありふれた櫻であるが、そこに鎮座するは櫻の世界。
銘は、『櫻』その一文字のみにて──。
その瞬間、櫻の世界は、確かにそこに顕現した。
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お疲れ様です。
感想やレビューなどなど。お待ちしております。
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