第4話『因果方程式と春』
彼女こと“朝比奈由紀”は、文字で世界を表す小説家になりたかった──。
だがそれも、所謂過去の話。
イカロスの翼が太陽に焼かれた事を知る鳥は、自らの翼を折ってまでして、あの蒼穹の大空を飛びたくはなかったらしい。
そんな由紀であるが、何の因果かこの“春風高校”へと進学を果たし、そして今に至る。
聞くところによると、元々“春風高校”は、様々な芸術家や文豪を輩出した、知る人ぞ知る名門校だったらしい。確か数年前に死んだ画家も、此処の高校の出身だそうだ。
しかし、昨今の少子化、または文化人が時代遅れとなったためか、今は普通の進学校へと様変わりを果たしている。
だが、由紀自身にはあまり関係のない話だった──。
何か、希望や願望が、由紀の中にある訳ではない。
日々を繰り返す。
日々を繰り返す。
日々を、これでもかと、毎日毎日当たり障りのない日常を、カレンダーを眺めるようにして意味もなく生きるのだった。
「──はぁっ。何か面白い事ありませんかね……」
でも果たして、意味がない事が罪なのか──。
確かにこの世に存在する物々には、意味がある。──例えばそれは、日々を豊かにするための道具だったり、色鮮やかに彩るための娯楽だったり。
しかして、この世に存在する物々には、意味はない。──例えばそれは、人間という人生が何の変哲もなく終わりを告げるように。
──そして、春比奈由紀の何の変哲もない日常は、案外日常的な一コマにて、簡単に崩れ去るのだった。
『──おい! 早く見せろよ』
『──あちょっと!? それ、人に見せれるようなものじゃないから!』
「──はぁっ」
溜息をつきたくなる気分だ。
非日常を求めているとはいえ、由紀は別に男女が乳繰り合っているような、色欲めいたやり取りを望んでいる訳ではない。
むしろ、こうさらりとした青春風味を味わいたかったものだ。
具体的には、青春ラブコメ風味な、透き通るような蒼──。
しかして現実とは基本残酷で、中にいるであろう二人の声からは、そのような青春を感じる事は出来そうもなかった。
「(──けど、みすみす見逃す事はないですよね。……──はぁっ。私自身の偽善にも飽き飽きします)」
けれど由紀は、先ほど声を聞こえた教室へと歩みを進める。
別に理由があった訳ではない。
むしろ、精神的な調和を図るために助けるのであって、その彼女を助けたい訳ではないのだ。
「──此処は、“美術室”、ですか?」
そして由紀がたどり着いたのは、美術室との古びた白いプレートに書かれた教室であった──。
鼻に付く、特有な絵具の匂い。
立て付けの悪い古びた扉のガラスが、風に吹かれてカタカタと揺れる。
あまりにも普通な日常の一コマ──。
到底、此処から先ほどの男女のやり取りが聞こえてきたとは思えないほど、あまりにもそこは違和感が存在していなかった。
けどそれは、同時に唐突もなく入って行ったところで、違和感の類が発生しない事でもあるのだ。
「──あの。すみません……」
「──え゛っ!? こんな時間に誰か来たの!」
「──ん? 誰か来たのか?」
立て付けの悪い扉を唐突もなく開けた由紀の目の前に広がっているのは、予想していたものと違う。
赤っぽい髪色をした男子生徒と、これまだ黒髪の男子生徒が、何やら一枚の絵を見ていたのだ。
別に、空き教室で男女が乳繰り合っていた訳ではない。
それどころか、疑問にも思ってしまうのだが、男子生徒二人だけの空間だった。
「(……あれ? もしかして、私の勘違いでしょうか?)」
まだ朝方は肌寒い早春の季節だというのに、由紀は自らでも自覚するほどに冷や汗をかく。
勘違いしているなんて、思いもしなかった──。
しかして現実は非情で──いやむしろ有情とでも言うべきだろうか。ただただ、その二人の男子生徒は、何かの話題で盛り上がっているようだった。
「……」
「……」
「……」
「……あの、すみませーん。間違えました」
「──ちょっと待ってくれ!」
そそくさと退散しようとする由紀。
しかし、その由紀の背中に掛けられた黒髪な男性学生の力強い声。こうして間近で見ていると、如何やら黒縁な眼鏡を装着しているらしい。
そしてその心的状況に対して力強い声は、由紀のしおらしい心臓を驚かせるのには、十分過ぎるほどの威力を秘めていた。
「──びっくりしました!?」
「あぁ、ごめん。でも唐突に現れた君だからこそ、見て欲しいんだ」
「と言いますと?」
「実はそこの彼が描いた絵を見せて貰ってな。その絵を見て俺はとても素晴らしい物だと思ったんだ。──おい、勝手に逃げるんじゃねぇぞ」
へー。
とても素晴らしい絵であれば、見てみたい気もする。
だが、この話はそう簡単に終わる訳ではないようだ。
「けどコイツ、“自分の絵はそんな素晴らしい物ではない”と言いだすんだ」
「……謙遜という奴ですか?」
「まぁ俺も言ったんだけどな。それでも認めないらしくて。──そして、そんな時に現れた君。──あぁ自己紹介を忘れたけど、俺の名は“鈴木哲郎”って言うんだ」
「これはどうもご丁寧に、私の名前は朝比奈由紀です」
確かに、ここまでの怒涛の展開で、由紀自身も礼儀である自己紹介を忘れていた。
その黒髪の男子生徒──鈴木哲郎が名乗り出てくれて、正直助かっているという話である。
「──それで。その絵というのは」
「あぁ勿論これだよ」
そう言って哲郎が指したのは、目の前にある件の板状──いやここまでの話で分かるのだが、それはキャンバスである。
キャンバスとは、大麻や綿や合成繊維などを主に木の板や厚紙に接着されたものを言うらしい。
らしいと言うのは、由紀自身があまり絵画などに詳しくがないためだ。
勿論、そこら辺にでも置いてある絵画で使われるような道具の数々の名前なんて、一つだって思いつかない。
「──っ!?」
──櫻の世界が、額一面に色彩を放つ。
圧倒されるほどの情景。
色彩の爆発を連想させる、桃色一面な春。
枝に付けた花々は、はらはらと風に乗るよえにして、背景を踊る。
『櫻』──その一文字に込められた意味とは、果たして何なのだろうか。
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「──ふぅ。まさか、あんな凄い作品を描く人がうちの学校にいたなんて。何で私は、その事に気付かなかったんでしょうか?」
千歳と呼ばれた彼が逃げ出した後、そんな彼を追いかけるべく走り出した哲郎と名乗った彼──。
そんな光景を後目に、由紀はその場を後にする事にした。
だが、その場に散乱する、画材などなど。
それについて由紀は、お礼にと片付けようと申し出たところ、哲郎は別に良いのだと答えた。
『──多分アイツは、どうせみんながいなくなってから帰ってくるから。だから俺たちも、さっさと此処を去ろうか』
なるほど。
気が回らなかったのは、如何やら由紀自身だったらしい──。
確かに、芸術肌の人たちという人種は、色々と神経質で自分自身というやつを持っているものだ。
故に、下手に片付けてパフォーマンスを落とすよりも、そのままにしておいた方が案外お礼になるらしい。
そう、哲郎の弁だった──。
♢♦♢♦♢
「おーい。飯を食い終わったんなら、さっさと片付けろー。俺が食器を洗い終えるのが、遅くなるじゃねぇか!?」
「あ、すみません。少し考え事をしていました」
ついつい考え事に耽るのは、由紀自身の悪い癖だ。
そして、言葉遣いは悪いけれども、由紀の兄である“朝比奈冬夜”。
何でも、今時儲かりそうにない雑貨品の貿易商をやっていて、ある程度決まった期間にしか帰ってこない。如何やら案外、儲かっているらしいのだ。
そして、冬夜は趣味としての料理は自他共に認めるほどの卓越した腕を持っていて、こうして彼が実家に帰ってきた際には料理を作ってもらっている。
勿論、少しだけ悪いとは思っている。
だが、案外冬夜もいやいややらされている訳では──いやむしろ好きでやっている上に、あれだけ料理が美味しいのだから、頼みたいと思うのはしょうがない話なのだ。
「……」
しかし、そんな風に由紀自身が悪いとは思っていても、コレもまたしょうがない話である──。
手にしたスマホの画面に映るは、昼間に見た絵画。
櫻がひらひらと舞う、強く情景として残る、そんな強烈な一枚。
何度見たり行ったりしても飽きないものというものが存在すると聞くが、由紀にとってはこの櫻の絵画が正しくそれと言える。
「……何見てんだ?」
「
「あぁ悪い。さっきから気にしているようだったから、つい気になってな」
いつの間にか洗い物を終えていた冬夜と一蹴する、由紀であった。
しかし、そこでとある事実を思い出す。
確か由紀の兄である冬夜は、それなりに美術関係に詳しかった筈。仕事で扱う商品を見せて貰った際に、滅茶苦茶長く話していた事を思い出したためだ。
“個人は、共通認識欲求により、集団となる”──。
この思いを誰かしらにでも伝えたい由紀としては、目の前で不貞腐れている冬夜は、実の兄である点を除けば所謂優良物件である。
ならば、多少目を瞑る事も吝かではない。
「あの、兄。──ちょっとこれを見てくれませんか?」
「……なんだなんだ?」
意を決して見せる。
すらすらと、すらすらと。
ついこの前までは慣れていなかったのに、今は慣れた手つきで由紀はアルバムから、その画像を見せつけた。
『あの櫻の世界観を──』
「──っ!?」
「……──どう、ですかね?」
その櫻の絵画の画像を見て、当の冬夜は固まる──。
動きはない、反応もない。
ただただ、その櫻の絵画に魅了されたように、冬夜は視線を逸らす事なく見続けるのだった。
「う~ん。そうだな」
開口一番。
先ほどまでの真剣そうな雰囲気は何処へ行ったのやら、冬夜はあっけらかんと口の開くのだ。
「確かにコイツは、所謂名作というやつだな」
「そうなのですね!?」
「……知らなかったのかよ。《《何処かで見た事がある気がするんだが。それはそれとして、見る人が見れば相当高い評価を付ける作品だぞ」
美術品にも目利きの才がある、冬夜がそこまで言うのだ。
しかし、そんな予想外の反応に、由紀は驚愕を覚える。
確かに、ベクトルは違えど、これは所謂心を揺さぶる作品。名作が名作たらんとする所以であるのだ。
だが由紀としては、近くの市民美術館に飾られるものと思っていたのが、まさかの名館としての美術館に飾られるほどの作品とは、恥ずかしながら思ってもみなかった。
「──しっかし。こんな作品何処で見つけた。確かお前、美術館などには行く趣味なかった筈だろ?」
「……兄、それは失礼と言うものです」
「だが事実だろ?」
「確かに私は、美術館などに行く趣味はないんですけど。でも、美術に関しては、それ相応の興味はあります」
「へぇっ、よく言うぜ。お前が美術館で暇になって、隣の公園で遊んでいた事があったよな」
「──それは数十年の前の話でしょう!?」
言葉の応酬は、兄である冬夜の勝ちで終わった。
兄に勝る妹はいないというが、確かに小さい頃を一方的に知っている兄の方が強いというのは当たり前の話である。
さて、由紀は一方的に劣等感を抱く現状──。
しかして当の冬夜はというと、そんな由紀の思いなぞつゆ知れず、ただただ今も彼の意識は画面の中の櫻の絵画へと注がれていた。
「──ところで話は戻るけどよ。こんな作品、一体何処で見つけた?」
「……ウチの学校の美術室」
「なんてー?」
「──だから。私の通っている春風学園の学生に描いていた作品を、こうして見せて貰ったのです!」
「はぁっ!? そんな事あるかよ!」
「でも事実です。そもそも、最初に私が美術館などに行く筈ないと言ったのは、兄が先でしょ」
「我ながら──いやこれは他人事か。それはそれとして、まさかそんな偶然があるとはな」
本当に、偶然的だ。
あるいは、運命的とでも呼ぶべきだろうか。
いやはたまた、因果とでも呼ぶのだろうか。
「──今度、俺にも紹介してくれよ」
「機会がありましたら。──もしかしたら、不審者案件で捕まるかもしれませんが」
「うーん。俺は困るだろうが、それくらいの罪を払ってまでしても、この櫻の絵画を描いた作者に会いたいと思う人が他にも現れるだろうな。──精々、気にかけてやれなー」
「……はいはい」
分かる気がする。
自分自身の認識──いや世界と呼ぶべきその価値観が、がらりと変わるような世界変革に似た衝撃。
あの時由紀自身が感じたは、創生の律。
嗚呼あるいは、櫻の花散る頃の春に訪れた、因果方程式なのかもしれない──。
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お疲れ様です。
感想やレビューなどなど。お待ちしております。
すみません。
哲郎と千歳との関係を、見ず知らずの同じ高校の学生同士から、ある程度の関係なおさな馴染み的な知人と、そう変更しました。
この度は、ご迷惑をお掛けしました。
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