第29話 更生
頭の中が疑問符で埋め尽くされた。
心中で月山の言葉を復唱すると、突如、堰を切ったように笑いがこみ上げてきた。
「はっ! あっはははははは!」
ぼくは腹を抱えて笑った。涙まで流し、狂ったように哄笑した。店内の視線がぼくに集中するのが解った。それでも笑いを押し殺すことはできなかった。
「これは冗談じゃないよ」
神妙な面持ちで月山は言った。それがまた可笑しくて、ぼくは笑った。笑いの波が治まるまで長い時間が必要だった。
ひとしきり笑い終えると、ぼくは涙を拭って月山を見た。その顔つきが変わらないのを見て、苛立ちを覚えた。彼の誠実さを信じていた。なのに、こんなバカバカしいことを言い出すなんて、とんだ裏切りだ。
「月山くんの言うことだから期待したよ。でも、さすがに信じられない」
「それは凶悪な犯罪を犯す人は、反省もしないし変化もしないという偏見だ」
「偏見? 経験だよ。ぼくは水城叶愛と一緒に行動してきたんだ。きみだって彼女のことを知ってるはずだろ? なのに、どうして彼女が更生するなんてバカげた考えを信じられるんだ」
「人間の人格は可塑的なものなんだよ。変化の帰結として今の人格が存在する。水城叶愛がサイコパスだとしても、それが彼女の邪悪な人格を形作るすべてってわけじゃない。サイコパスであることは邪悪さの要因のひとつでしかないんだ」
ぼくはすぐにも反論しようとしたが、ふいに水城叶愛と交わした会話が思い出されて、言葉を呑み込んだ。
『彼らは厄介な存在には違いないけど、必ずしも反社会的な振る舞いをするわけじゃない――』
あれは嘘ではなく真実だったのだろうか。
いや、信じるな。
彼女の言葉なんて嘘に決まっている。
「それが何なんだ? きみが言ってるのは過去のことだろ。水城叶愛が経験してきたことだろ。そんなの関係ないじゃないか。時を遡って教育しなおすことなんかできないんだから」
「確かに、子どもの頃の体験は人格形成に大きく影響する。でも、ある年齢を過ぎたら人格が固定されるなんてはない。これからも変化し続けるんだよ」
「水城叶愛も変化し続ける。それはそうだろう。でも、だからって更生させられる根拠になんかなるのか?」
「凶悪だから更生の望みがないという考えは、現代においては間違った神話だ」
そう言われても納得はできなかったが、ぼくはぐっと反発心を抑えこんだ。直感的に、成熟した人でも人格が変化し続けるという理屈は理解できるし、こうまで力説する以上は相応の根拠があるのかもしれないと感じた。月山が犯罪に関して豊富な知識をもっていることまで疑うつもりはなかった。
月山は自分もヒートアップしていたのを自覚したのか、一度、咳払いをした。薄いメロンソーダに口をつけると、彼は「聞いてくれるかい?」と、わざわざ確認を求めてきた。ぼくもコーラを飲んで心の昂りをリセットした。
「お願いするよ」
月山は頬を綻ばせると、説明を始めた。
「学問というのは、これまで蓄積されてきた知識を継承し発展してきたものだ。当然、犯罪学も例外じゃない。紆余曲折を経ながらも確実に発展し続けている。その中で、俺が重要だと感じたのは、カナダの研究者たちが提唱したセントラルエイトというものだった」
「セントラルエイト?」
「犯罪と相関性が高いとされる八つの要因のことだよ。具体的には、犯罪歴、不良交友、反社会的認知、反社会的パーソナリティ・パターン、夫婦・親子の問題、学校・仕事上の問題、物質乱用、不健全な余暇活動――これらがセントラルエイトだ」
月山はメモを見るでもなく、それらをすらすらと口にしてみせた。ぼくはそれを復唱するように頼み、改めてそれら八つを理解しようとして唸った。
「べつに、ここですべて理解してもらう必要はないよ」
月山の言葉に、ぼくはホッと胸をなで下ろした。
「重要なのは犯罪歴以外の七つだ。それらは外部から正しく介入することで改善可能な要因なんだ。そういう変更可能な要因は動的要因と呼ばれる。逆に、犯罪歴のような変更不能な要因は静的要因だ。ここまでは大丈夫そう?」
「それくらいなら、なんとか憶えられそうだけど……」
すこし見栄を張ると、月山は素直に笑みを覗かせた。
「さて、ここからが更生の話だ。これまでの更生プログラムは、科学的根拠のない経験則的な方法が主流だった。でも今は科学的根拠のある方法を用いることが必須だとされている。何故なら、動的要因に集中した治療では再犯率が低下するのに対して、動的要因を対象としない治療では、かえって再犯率を上昇させるという結果が出ているんだ」
「更生を目的にとられていたアプローチが、逆に再犯率をあげる要因になってたってこと?」
「そう。そして今は、昔と違って犯罪者に対する正しいアプローチが確立されてきている。水城叶愛の改善が必要な動的要因を分析し、それに集中した治療を施すことで、彼女のような人間も更生させられる望みがあるんだよ」
ぼくは中央に寄った眉を揉みほぐした。次々と聞き慣れない言葉がでてくるせいか疲労を感じた。水城叶愛のように、煙に巻かれている感じがしないでもなかったが、彼女の軽薄げな目つきとは対照的に、月山の眼差しは真剣そのものだった。
「いま日本では大掛かりな刑務所改革がなされようとしてる。懲役刑・禁錮刑をなくして拘禁刑に一本化するってやつ」
「なんか聞いたことあるかも」
「あれの根幹にあるのは受刑者を更生させる、再犯を防止して安心・安全な社会を作るってことだ。法務省のホームページって見たことある?」
愚問だ。ぼくは肩をすくめた。犯罪に注目したことのない人間が法務省のホームページに辿り着くはずがなかった。
月山はスマホから法務省のホームページにアクセスすると、テーブルから身を乗りだして画面を共有してくれた。
「受刑者に対する更生プログラムの概要が載ってる。ここに『「RNR原則」にのっとった処遇を実施するため――』ってあるだろ? このRNR原則っていうのは、ここにも注釈があるけど、要するに、その人の改善可能なところを、その人にあった方法で治療しようって考え方なんだ」
「えっと、つまり、さっきのセントラルエイトに当てはまったところに焦点を当てて治療するみたいなこと?」
「そう考えてもらっていい。アセスメントツールというものを用いて、セントラルエイトのような要因を特定した後、その情報に基づいて、その人に適切な治療が施される。少年鑑別所の場合には
月山が指し示した箇所には、MJCAを構成する九つの要因がコンパクトにまとめられている。項目例も並列してあるため、各要因がどのようなケースを表しているのか解りやすい。
「『保護者との関係性』と書いてあるのは、さっきのセントラルエイトの中に登場した夫婦・親子の関係に当てはまるね。『逸脱親和性』は反社会的認知に近いかな。こんな風に、セントラルエイトとは多少異なるけれど、問題のある要因を特定し、それに集中した治療や教育が実施されている。犯罪学の知識は、ちゃんと現場に活かされつつあるんだよ」
ぼくはホームページの内容に目を走らせながら、手中に熱いエネルギーの塊のようなものが膨れ上がってゆくのを感じた。確実に、犯罪に関する状況は良くなっている。水城叶愛もあるいは――。
「……つつある」
しかしエネルギーの塊は間もなく萎んでいった。月山の前に置かれたメロンソーダが、一瞬、色を失くしたように見えた。知りたくないと思いながらも、ぼくは月山に確認しないわけにはいかなかった。
「まだ対策が十全に行き渡っているとは言えないんだよね?」
「それは……」
饒舌だった月山が途端にいきおいを失くした。彼は、うそや誤魔化しとは無縁の男だった。
「道半ばであることは否定できない」
「両親の命が懸かってる。絶対確実な方法じゃないとダメなんだ……」
月山を責めているようで心が痛んだ。
しかし不確実な方法に頼るわけにはいかなかった。
諦めちゃダメだ、と月山は、ぼくの手を握った。
「塚地くんの言いたいことは解る。切羽詰まった状況にあることも理解してるよ。でも現状維持は危険だ。水城叶愛の行動は、ますますエスカレートするだろう。きみはその片棒を担がされることになる」
月山は真摯だった。その眼差しは真っ直ぐで濁りがなかった。
ぼくには、それが眩しかった。眩しすぎた。
炭酸が抜けてウーロン茶のようになったコーラに目を落とすと、泣き笑いの表情を浮かべたぼくが、そこに映っていた。未だ手つかずのピザからは濃厚なチーズの香りが漂い続けていて、胸がムカムカした。吐きだそうだった。
月山は沈黙を恐れるように説得を続けた。
「塚地くんの言うとおり確実な方法がないのは事実だ。でも、それは何事においても同じだよ。絶対完璧というものはこの世にない」
「じゃあ、両親のことを忘れて通報すべきなのかな……?」
「えっと、安易には決められないな……。でも安心して欲しい。俺は、きみの決断を待たずに通報したりなんかしない。一緒に考えていこう。俺にできることは何だってするから」
ぼくは嗚咽なのか吐き気なのか解らないものを、かろうじて堪えていた。
月山の誠実さが忌々しかった。ぼくは責められたかった。罵倒されたかった。なんてバカな奴だ、なんて気持ちの悪い奴だ、と。その上で、警察に突きだして欲しかった。
楽になりたかった。そう思ってしまう自分が呪わしかった。忌々しいと感じる一方で、月山に感謝してもいた。ぼくは、ぐちゃぐちゃだった。
――その後、月山とどんなやり取りをしたか、あまり覚えていない。
気付くと、ぼくは自室のベッドの上にいた。いまが何時かも解らなかった。カーテンの向こうが真っ暗で、だから夜であることだけは解った。水を吸ったスポンジのように体が重かった。抵抗したいのにできない。何か見えない大きな力に全身を押さえつけられているような感じがした。
思えば、ぼくはずっと自分以外の何かに支配され続けてきた。水城叶愛のことではない。彼女すら内包する、もっと大きな何か。運命とでも言うべきものに翻弄され続けてきたような気がするのだ。
運命は知っていた。ぼくが取るべき行動を。
ぼく自身も解っていた。
本当は水城叶愛を止める手段があることを。
ずっとそれに気付かないフリをしてきた。他の手段があるはずだと信じ続けてきた。しかし、ついに他の手段は見つからなかった。ぼくは運命という支配の軛から逃れることができなかったのだ。
だから、ぼくは水城叶愛を止める唯一の手段を実行するために、残る時間を費やすことに決めた。
月山は約束を守った。
一日が過ぎ、二日が経っても、突然、家に警察が押しかけてくるようなことはなかった。
おかげで準備が捗った。無情に過ぎ行く時間の中で、ぼくは臆病な自分をひとり、またひとりと殺していったのだ。
そして、運命の日はやって来た。
水城叶愛の実家を訪ねる――十月二十一日が。
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