第30話 覚悟
空は鈍色。今にも降り出しそうな雨模様。
その家は、色とりどりの屋根が連なる住宅街の街並みを高台から見下ろしていた。
横に長い二階建てのモダンハウスだ。手前にはガレージ付きの駐車スペースと、それと地続きになった前庭が設けられている。
「ここが……水城家」
ぼくは恐るおそる、水城家と外界とを隔てる鉄扉に触れた。把手に浮きあがった錆、その感触を捉えただけでゾッと肌が粟立った。
帰りたい。ぼくには無理だ。
途端に、これまでの弱気なぼくが顔を覗かせた。
「……無理じゃない」
今のぼくは、そう簡単に、かつてのぼくへと手綱を譲ってはやらなかった。
ぎゅっと目を瞑って衝動の波が去るのを待つ。
すると、次第に暗闇の中から両親や月山の顔が浮かびあがってきた。
自分がここにいる理由を問い、月山との会話を反芻した。
こうする他ないのだ、と自分自身に言い聞かせた。それが今のぼくを衝き動かす原動力だった。
ぼくはカッと目を見開き、鉄扉を押した。鉄扉はギィと軋みながら意外にも抵抗なく開いた。
ぼくは、ゆっくりと水城家の敷地を踏んだ。
広い。玄関までは十数メートルほども距離があった。
前庭を横切る間、ぼくは違和感に襲われた。空き家でもないはずなのに、庭の荒れようが凄まじかったからだ。
樹木の類いはなく、生えっ放しの雑草がそこここで風に揺れている。中には茎が硬化して灌木のように成長したものまであった。元々、ここは何の空間だったのだろう。まさか芝生でも生えていたのだろうか?
「――いや」
そんなことはいい、とぼくは頭を振って玄関前のポーチを上がった。玄関のドアレバーに手をかけると、またしても全く抵抗を感じなかった。玄関にも鍵がかけられていない。本当に空き家なんじゃないかと不安に思いながらドアを開けた、その瞬間、
「うっ……」
吐き気をもよおす強烈な臭気があふれ出てきた。
それもそのはずで玄関はゴミに埋もれていた。
いや、奥の廊下にもゴミの山は続いていた。衣類、瓶、生ゴミ――ありとあらゆるゴミが家中に詰めこまれていた。
「なんだこれ」
何が来ても驚くまいと覚悟していたつもりが、さっそく虚を衝かれた。水城叶愛のイメージとの甚だしい乖離に、ぼくは呆然と立ち尽くしてしまった。
彼女は校内のマドンナ的存在ではなかったか。美人で、明るく、清潔感のある印象を誰もが持っているはずだ。
ところが、この家の様相は――それらとは似ても似つかない。
こんなゴミ屋敷で一体どんな生活を――?
想像しようとしてみたけれど無駄だった。
どうしても水城叶愛とこのゴミ屋敷とが結びついてくれなかった。
ところが、ふいにある事が思い出された。
それは彼女がまとっていた匂いだった。彼女からは、いつもきつい香水のかおりがしていたのだ。
まさかあれは、この悪臭を隠すためだったのか?
毎朝、執拗に香水を振りかける彼女の姿が脳裏に浮かんだ。いたたまれない気持ちになった。もしかしたら、彼女が高校に通えているのは奇跡なのかもしれないと感じた。
……関係ない。
ぼくは頭を振って、雑念を追い払った。
水城叶愛の境遇に思いを馳せてどうする。ぼくの目的は、彼女に同情することなどでは決してない。
目の前のゴミ山に向き直る。注意して見てみれば、通り道と思しき空間がわずかに設けられているのが解る。かろうじて床面が露出した箇所もある。ワックスが剝げて黒ずんではいるものの、床は床だ。ぼくは土足のまま床面へと踏みだし、ひとまず目の前の廊下を進んでゆくことにした。
ゴミを押しのけながら、時折、開けっ放しの部屋の中を覗いた。どこもかしこもゴミだらけで肥えたハエがブンブンと唸っていた。
角の部屋は、リビングだろうか。
そこだけが他の部屋より一回りほど大きかった。入ってすぐ左手にダイニングキッチン――水垢のこびりついたシンクに食器がうずたかく積まれている。もはや汚物としか形容しようのない代物が大量に付着しているのを見て、あやうく胃の中のものをぶちまけてしまいそうになった。
「うぶ……っ」
キッチンから目を背け、吐き気が収まるまでゆっくりと呼吸をくり返した。臭いにも慣れてきたのか、思いの外はやく吐き気は引いていった。
顔を上げ、あらためて部屋全体を眺めてみた時だった。
鳩尾の辺りがすぅーっと冷たくなってゆくのを感じた。
最初、目にした時には広い部屋くらいにしか感じなかった。もちろん部屋の様子が変化したわけでもない。なのに、今こうして眺めてみると薄ら寒い心地になる。
なんだ? この感じ?
ぼくは考え――、
「……そうか」
やがて、その正体に気付いた。
ぼくはダイニングキッチンを見て、ここをリビングだと認識した。
ところが、この場所からはリビングらしさをまるで感じないのだ。
家具らしきものがひとつも見当たらないのである。
リビングと言ったら家族が集まって団欒する場所のはずだ。なのに、ここにはテーブルもなければソファもない。当然テレビなどあるはずもない。
今まで、たくさんの廃墟を巡ってきた。それらには、かつて人が存在していた〝歴史の気配〟とでも言うべきものが確かにあった。しかし、この家からは人が生活してきた温もりを微塵も感じない。ゴミという時間があるだけだった。
ますます水城叶愛に同情的になるのが嫌で、ぼくは踵を返した。
すると、二階へ延びた階段に目が留まった。
たちまち頭の中でバチバチっと火花が爆ぜた。
階段の壁面に、コピー用紙が幾つも貼りつけられていたからだ。そこには赤い矢印がでかでかとプリントされ、いずれも斜め上をさし示していた。
これまで気配ひとつ感じなかった水城叶愛の存在を猛烈に意識させられた。こっちだよ、と呼ぶ声が耳もとに迫ってくるような気がして、ぼくはたまらず背後に振り返った。
当然、そこには何もいない。
ぼくは生唾をごくりと呑み込んで階段へと向き直った。
恐れるな。
ぼくは彼女と会うためにここまで来たのだ。
そろそろと一歩目を踏みだした。脇に積まれたゴミ袋が音をたて、足下の段がたゆんだ。矢印の紙は進行方向に沿って微妙に向きを変えていた。二階の廊下に出ても、矢印はまだ続いていた。
廊下は長かった。ドアが四つも見てとれた。ひとつ以外は開け放たれていて、ゆいいつ閉ざされた突き当たりのドアの前で矢印は途切れていた。
ぼくは拳をかたく握りこみながら進んだ。
一番手前はトイレだった。ぼくはその惨状を一瞥するだけで先を急いだ。まともに見たら、今度こそ吐きだすと確信したからだ。
次の部屋は、おそらく水城叶愛の母親のものだった。おびただしい数の女性ものの洋服や下着が放り出されていた。かろうじてテレビやベッドなどが顔を覗かせているが、いずれも古いもののようだ。母親が今もこの家で生活しているとは、とても思えなかった。
三つ目は父親の部屋だろう。母親の部屋と同様、テレビとベッドの他に目立つものは見当たらなかった。散乱したガラクタの中に数冊の本が投げ出されているのを見つけ、ざっと表題に目を通してみた。すぐに見なければよかったと後悔した。どれも夜の営みに関する指南本だった。
「はぁ……落ち着け」
最後のドアの前に立ち、そっとレバーに手をかけた時、ぼくの手はひどく震えていた。
水城叶愛に対する恐怖心。
もちろん、それもあった。
だが、それだけではなかった。
ぼくは覚悟を決めて、ここに来たのだ。水城叶愛を止めるためには、両親の命を守るためには、もはや手段を選んではいられなかった。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
心の中で両親に詫びた。届かないとは解っていたけれど。
そして、ぼくは最後のドアを開けた。
水城叶愛を殺すために。
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