第26話 邂逅
キーボードに指を置いたところで、ぼくは固まってしまった。
図書館の検索端末だ。目の前のモニターには『タイトル』、『著者名』、『資料番号』などを入力するテキストボックスが表示されている。
昨日、我が家に
我が家の放任主義には距離を感じてきた。ぼくと両親とは決して解り合えない関係なのだと静かに絶望してきた。
一方で、それが両親の愛の形なのだと理解してもいた。ぼくはふたりを愛していた。愛してしまっていたから、ふたりに刃を突き付けられて、ぼくは逃げ場を失ってしまった。
それでも逃れたいという思いが消えてしまうわけではなかった。仮病を装い――あながち仮病ではないかもしれない――家に閉じこもっていると、どうにかしてこの状況を打開できないか、そんな考えばかりが頭に浮かんだ。やがて、それしか考えられなくなっていた。
わざわざ図書館までやって来たのは、その方法を探すためだった。
けれど、具体的に何を調べればいいのか解らない。
途方に暮れて天を仰いだ。テーマが明確でない以上は探しようもなかった。
水城叶愛から逃げられないという思いは、ここに来ていっそう強まってしまった。底に穴のあいた容れ物のように気力が失せてゆく。諦めてしまった方が楽だ、と心が言っている。
「ははは」
その時、ふたつ隣の検索ブースから小さな笑い声が聞こえた。見ると、定年過ぎくらいの男がモニターに釘付けになっていた。動画か何かを見ているようだ。家で見ればいいんじゃないかと思いもしたが、自宅で休みを堪能する父が、母から邪険に扱われる場面が思い出されて考えを改めた。男の横顔を見つめながら、家庭の様子を想像してみた。あるいは父がこうして密かに図書館通いするところを。
「……そうだ」
それは、ぼくに予期せぬ閃きをもたらした。
想像だ。相手がどんな人物かを想像してみればいいのではないか。
水城叶愛はどんな人間か。それは間違いなく手掛かりとなる。ぼくはあるワードを頭に思い浮かべ、それを即座にテキストボックスに打ちこんだ。
『サイコパス』と。
検索をかけてみると二十件以上の書籍がヒットした。
『内容紹介』の項目にそれぞれ目を通してみる。どうやら犯罪心理学や脳科学といった学問の視点からサイコパスを概説したものが多いようだ。中には凶悪犯罪者へのインタビューを収録したルポタージュや、サイコパス本人による自伝のようなものまで見つかった。
興味を惹かれるのはルポや自伝の方だった。しかしサイコパスとはそもそもどんな存在なのか、それは水城叶愛に当てはまるのか、それらを知る手掛かりになりそうなのは概説書の方だった。ひとまず一冊ピックアップして、ようやく端末から離れた。
目当ての本は心理学の棚にあった。
本に手を伸ばすと横合いから別の手が伸びてきた。あっと顔を上げると、眼鏡をかけた同い年くらいの少年と視線がぶつかった。
「どうぞ」
と少年は、ぼくに本を譲ってくれた。
にもかかわらず、ぼくは本を手にすることなく、その姿勢のまま固まってしまってた。
それに気付いた少年は怪訝そうに目を眇め、眼鏡のシルバーフレームを中指で押しあげた。
「えっと……なにか?」
そう言われても、ぼくはまだ固まったままだった。
ぼくは彼を知っていたのだ。
だが、それを彼に伝えるべきか迷っていた。
じっと動かないで見つめてくるぼくを、さすがに気味悪く感じたのか、少年がこの場を立ち去ろうとする気配を見せた。
もう二度と会えないかもしれないと思った。
ぼくは勇気を振り絞って、彼に訊ねた。
「つ、月山くんだよね?」
「えっ……」
少年が唖然とした顔つきで、ぼくを見返した。ぼくの頭から爪先までを素早く見やると、突然、身を翻して逃げだした。
「あっ、待って!」
ぼくは少年を追いかけた。
間違いない。彼は月山だ。道枝に――水城叶愛に目をつけられて不登校になったあの月山だ。
追いかける必要があるのかは解らなかった。解らなかったが、なぜか彼と話をしなければならないような気がした。
ここが図書館内でなければ、月山は全速力で逃げ出していたに違いなかった。しかし彼はまじめな性格らしく、館内でのマナーに配慮して、あくまで早歩きの体を維持していた。
「待って……!」
追い付いたぼくが肩を摑むと、月山は乱暴に振り払おうとはせず、ぴたっと足を止めた。
けれど、振り返ろうともしないし、声も発しなかった。
当然だ。いじめが原因で学校に来なくなったのに、突然、同じ学校の人間が現れて警戒しないはずがない。その証拠に、彼の体は震えていた。ぼくはゆっくりと摑んでいた手を放した。
「こわがらないで聞いてほしい。ぼくは、月山くんの敵じゃない」
月山がわずかに顔をあげ、上目遣いにぼくを見た。月山の上背は、ぼくよりも少し高いくらいだが、怯えた様子からその姿は小さいものに感じられた。
なんと言葉を続けるべきか。ぼくは迷った。
共通の話題ならある。道枝や水城叶愛に関するものだ。
口にすれば今度こそ全力で逃げられてしまうかもしれない。
それでも、言うべきだと思った。ぼくは月山に縋りたい気持ちになっていた。水城叶愛の恐怖を共有できる相手は彼しかいなかった。
「えっと……月山くんも水城叶愛が怖い?」
「……!」
相手の顔つきが明らかに変わった。月山は、半ば、ぼくの方に向き直るようにして、改めてぼくの姿を上から下までじっくりと眺めた。どうやら彼は、道枝の裏に水城叶愛がいたことを知っているようだった。
「失礼しますねぇ」
そこに満載のカートを押した女性の職員がやってきて、ぼくらを避けるように書架の間を進んでいった。
ぼくらは、まるで双子のように頭を下げて、職員の背中を見送った。
「えっと」
と先に言葉を発したのは、意外にも月山の方だった。
「きみの名前は?」
「あ、ごめん、塚地」
「塚地くんか。こっちこそ、ごめん。ずっと行ってないから解らなくて」
「そんなのいいよ。気にしないで」
「ありがとう。とりあえず、ここじゃなんだし。中庭にでも行こうか」
「う、うん」
話し出すと、月山の口調は淀みなかった。先に話しかけたぼくの方が緊張してしまっていた。
中庭は人気がなく静かだった。閲覧室からはガラス扉一枚分しか隔てられていないため、通りがかった人から目を向けられることはあるものの、鼻腔をくすぐる緑の匂いや微かな風を感じられるおかげか居心地は悪くなかった。
ぼくらは適当なベンチに並んで腰かけた。
月山は腰をねじってぼくの方に体を向けてくれた。それだけで、ぼくは彼に誠実な印象を抱いた。
「塚地くん、さっき犯罪心理学の本を取ろうとしてたよね」
「あ、うん」
「どうして?」
口調こそ柔らかいけれど、月山の目つきは鋭かった。これは重要な質問なのだと、ぼくは察した。ぼくも彼と誠実に向き合う必要を感じた。膝を突き合わせるようにして、ぼくは答えた。
「水城叶愛のことを知りたいんだ」
「きみも彼女に何かされたんだね?」
「月山くんと同じようなことを。でも、それだけじゃないかな」
ぼくは、するすると言葉がでてくる自分自身に戸惑った。月山と話すのは初めてなのに、早速、すべてを打ち明けてしまいそうになっていた。
落ち着け。彼を信用するには早い。
これ以上は言うまいと、ぼくは目を伏せ、この場を繕う言葉を探した。
月山はじっと待ってくれていたが、ぼくがいつまでも足下のタイルを睨んだままでいると、やがてぼくの肩にそっと手を置いてこう言った。
「無理に話さなくてもいい。どうせ俺にできることは限られてるし」
「で、でも……」
「いいんだ。塚地くんの気持ちは解る。俺だって、口にしようとするだけで胸を塞がれるような思いがするから」
「ありがとう、月山くん」
ぼくは月山の優しさに感謝する一方で、これで真実を打ち明ける機会は失われたのだと落胆してもいた。本当の自分を知られるわけにはいかないのに、ぼくは本当の自分を知られたがっているようだった。
「それより、塚地くんは水城叶愛がどんな奴かを知りたいんだよね?」
それなら協力できるよ、と月山は請け負った。ふと庭木を仰げば、遠くを見るように目を眇めた。
風が月山の前髪を揺らし、瞳を複雑に煌めかせた。
ぼくはその目の奥に形容しがたい気迫のようなものを感じた。思わず生唾を呑み込むと、月山の絞りだすような声がした。
「俺はこの一年間を、水城叶愛を知ることに捧げてきたんだ……」
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