第25話 人質

 河原での苦しみがフラッシュバックする。

 動悸がして、呼吸が浅くなってゆく。

 どうして、こいつは笑っていられるんだ?

 ぼくは自分の胸を鷲摑みにした。そうしていないと、水城叶愛この女を殴り殺してしまいそうだった。


「……道枝がぼくを狙っては、やっぱりきみが指図したからなんだな」

「指図っていうか条件を提示しただけだよ。ミッチーがデートして欲しいなんて言うからさ。じゃあ私の言うこと聞いてって」

「同じことだろッ!」


 自分でも驚くほど大きなえるような声がでた。

 それでも水城みずき叶愛とあは涼しい顔つきを崩さない。それにまたはらわたが煮えくり返るような怒りを覚えた。


「怒鳴らないでよ。たしかに私が悪かったからさ。ごめんね? でも、塚地くんと友達でいたいし、いっぱい頼って欲しかったからやったことなんだよ?」

「もう黙れよ。いつも嘘ばっかりだ。きみの言葉なんか聞きたくない」

「冷たいこと言わないで。私、ホントに嬉しかったの。やっと心から分かり合える友達ができたんだって」

「お前が友達なはずないだろうがッ!」


 ぼくは自分を抑えることができなかった。こんなだから、ぼくは操られてきたのだと思った。

 水城叶愛は、じっとぼくを見つめていた。

 その目が次第に潤んでゆくのを見て、ぼくは目を疑った。

 けれど、すぐに思い直した。

 彼女は嘘をつく天才だ。これも演技に決まっている、と。

 ぼくは水城叶愛に背を向けて、部屋の鍵を解いた。

 すると、ぼくの胸に白い腕が巻き付いてきた。ぎゅっと抱きしめられて呆然とするぼくの耳元で、水城叶愛の囁く声がした。


「ねぇ、独りにしないでよ。仲直りさせてよ。怒らせちゃったなら、ちゃんと謝るから。そうだ、塚地くんも私のお家に遊びに来てよ。ちゃんと招待する。私の部屋きれいにしとく。そこで仲直りしてさ、これからのことを話すの。お願い、いいでしょ?」


 ドクドクと心臓が早鐘を打っていた。

 水城叶愛の手には光るものが握られていた。

 十徳ナイフだ。

 その刃先は、ぼくの胸に突きつけられ、鈍い輝きを放っていた。


「イヤって言ったら、わかるよね? 塚地くんだけじゃない。お母さんも殺すし、お父さんも殺すよ」

「わ、わかった。わかったから、落ち着いてくれ」

「ホントはこんなことしたくないの。わかってくれるよね?」

「わかってる、わかってるよ。だからナイフを下ろして」


 水城叶愛が抱擁を解いた。

 ぼくはたまらずドアに手をついて体を支えた。今にも腰が抜けそうだった。


「よかったぁ。殺さずに済んで」


 水城叶愛はそう言って屈託なく笑った。


「あ、もしかして、これでもう仲直りなのかな?」

「も、もちろん……!」

「やったっ! やっぱり塚地くんって優しいね」


 パンと顔の前で打ち合わせた手には、まだ十徳ナイフが握られたままだった。水城叶愛もそれに気付いたようで、しまおうとして逆に飛び出す無数の刃としばし格闘した後、ようやくそれをスカートに突っ込んだ。


「じゃ、そろそろ帰ろっかな」


 願ってもない言葉だった。ぼくは胸を撫でおろしながら、小刻みに震える手でドアを開けた。

 水城叶愛がありがとうと八重歯を覗かせたのに、ぼくは引きつった笑みを返した。

 だが、彼女が先に部屋をでてしまったのに気付いて焦りがこみ上げた。母親に何かされるかもしれない。萎えた足を強いて、ぼくは彼女の見送りに出向いた。

 階段を下りると、さいわい水城叶愛はすぐ玄関の方に向かっていった。ところがホッとしたのも束の間、ローファーの折れた踵を直しながら彼女の背中がこう訊ねてきた。


「私が出てった後に通報とかしないよね?」


 辺りの温度がすうっと下がったような気がした。

 心を読まれたのかと思った。家に押しかけられ、家族諸共殺すと脅された以上、もはや全てを打ち明けるより他に選択肢はなかった。部屋を出た時点で、ぼくは覚悟を決めたつもりでいた。押せなかった最後の番号を今なら押せる――いや押すしかない、と。


「そのつもりなら、よく考えた方がいいよ」


 水城叶愛は爪先をトントンと鳴らしながら、肩越しにぼくを見つめた。微笑がはり付いたいつもの顔で。


「私が捕まっても、それで終わりになんてならないから。何年かけてでもキミを見つけ出すよ。キミの両親も。見つけて、必ず、生まれてきたのを後悔させてから、殺す」


 最後に、じゃあねと手を振って、水城叶愛は髪をなびかせ出ていった。

 玄関のドアが閉じた瞬間、ぼくはその場にくずおれた。

 彼女の言葉は信用ならない。嘘ばかりだ。

 最後の言葉もただの脅し、実行するはずなんてない――とは、とても思えなかった。あれは明らかに本気だった。逃げられないのだと、ぼくは悟った。


「……はは」


 おかしな笑いがこみ上げてきた。

 通報すれば、ぼくの将来は潰える。ずっと、そう考えてきた。水城叶愛がのっぴきならない状況に陥れば、ぼくの存在を告白するに違いないから、と。

 だが違った。そんな生易しいものではなかった。

 ぼくの人生は、とっくに終わっていたのだ。


 水城叶愛に出会った時からだろうか?

 それとも死体を撮った時からだろうか?

 あるいは無許可で廃墟を撮り始めた時からだろうか?


 考えたところで意味はなかった。

 何もかもがもう手遅れだった。

 ぼくらは一蓮托生の仲などではなかった。

 少なくともこれからは。

 ぼくは、水城叶愛の奴隷だ。

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