第16話 懇願

 ぼくはすぐさま身を翻した。

 なんであいつらが? 解らない。

 怒鳴り声がぼくの背中を叩きつけてくる。


「おい待て!」

「逃げんじゃねぇ!」


 ぼくは河川敷を横切り、急斜面の堤を駆けおりた。あんな土砂降りの後なのに、河川の水位はちっとも上がっていなかった。辺りに露出した石や砂利に躓かないようにしながら、ぼくは向こう岸を目指して走っていった。


「待ちやがれぇ!」


 声はしつこく追ってきた。待てと言われて待つわけがなかった。

 しかし、ズボンの裾が水を吸って足は重さを増してゆく。腿を上げるたびに血が澱むような感覚に襲われる。ぬるぬるした石を踏めば体が傾ぎ、猛烈な不安にとらわれた。

 まずい……捕まるっ。

 そんなの初めから解っていた。それなのに、向こう岸までの距離を目の当たりにすると涙がこみ上げた。捕まりたくなかった。ぼくはただ水城みずき叶愛とあに会いたかっただけなのに――。


「はいはい、逃げない逃げない!」

「つーかまえたっ!」


 あえなく、ぼくは捕まった。羽交い絞めにされ、川縁まで引きずっていかれた。そこに道枝が待っていた。腕を組み、嗜虐的に笑いながら。


「遊ぼうって言ってるだけなのに、ひでぇじゃん」


 道枝に肩を引き寄せられて、ぼくは呻いた。全身の肌が粟立つのを感じた。公園で受けたリンチの苦痛が蘇った。こうなったら、もう嵐が去るまで耐えるしかなかった。心の中を空っぽにする必要があった。


「あーれぇ?」


 と、道枝がぼくの胸元を見下ろした。その時まで、ぼくはそこにある物の存在を失念していた。

 カメラ。ずっとぼくと一緒にいてくれた一眼レフカメラだ。

 たちまち血の気が引いた。目の前が真っ暗になった。

 次の瞬間、ぼくは体に火をつけられたように暴れだした。


「うぉ、あっぶねぇ!」


 道枝は跳び退って距離をとると、暴れるぼくを眺めながらスゥと目を細めた。


「お前、カメラ好きなんだなぁ。なんか高そうじゃん。売ったらいくらくらいなんの?」


 売る……?

 胃の腑が凍りつき、こめかみが灼けるような熱を発した。

 突如、足下でダンと鈍い音がした。


「「うわ!」」


 ぼくの肩を摑んでいたふたりが、突然、前へ踏みこんだぼくに引っ張られてよろめいた。自分でも信じられないような力がでた。奥歯が軋んで口中に血の味が拡がった。


「おー、こわ」


 それでも、固く握りこんだ拳は道枝に届かなかった。残るふたりの取り巻きにまで押さえ込まれて、今度こそぼくは身動きがとれなくなった。

  

「お前らしっかり押さえとけよ」

「放せェ! 放せよッ!」

「うるせぇ、なっ!」

「が、ぁふ……ッ」


 鳩尾を殴られて、一瞬、目の前が真っ白に染まった。

 項垂れたぼくの首からカメラが奪いとられるのが解った。喉が震えて、涙が滲んだ。半身をねじ切られるような痛みを覚えた。


「イイ顔するじゃん、塚地ぃ」


 道枝が、ぼくの顔にレンズを近づけ、ひきつれた笑い声をあげた。それにつられて取り巻きたちも笑った。

 ぼくの鼻先から涙が零れ落ちるのが見えた。なのに、ぼくの体はどこからか水分を吸い上げているかのように重さを増していった。頭の中がぼんやりしてきて、自分が何を感じているかも曖昧になってくる。

 カメラのレンズが、ぼくを見ている。反射した自分の顔が映りこんでいる。無気力に泣いている。惨めに泣いている。惨めに? どうして、ぼくが。


『世の中には死んだ方がいい人間だっているんだよ』


 その時、暗闇を照らす火花のように、水城叶愛の言葉が蘇った。

 たちまち、こめかみが脈打ち、血が煮え立って憤怒と化した。


「殺してやる……」


 ぼくは、いきなり後ろに頭を振り抜いた。

 取り巻きの鼻がベキと嫌な音をたてた。


「ふ、ご……ぉ!」


 豚っ鼻のような悲鳴がするのと同時に、ぼくを羽交い絞めにした力が緩んだ。ぼくは足下の丸石を摑んで振り向き、目についた取り巻きの頭に丸石を思い切り叩きつけた。


「うが、ぁ! ああ、ぁあああ……!」


 さらに手を振りかぶると、残るふたりのうち一方が後退り、もう一方が果敢に飛び掛かってきた。

 ぼくは躊躇なく殴りかかった。石は相手の肩をしたたかに打ちつけた。

 相手は顔を歪ませこそしたものの、怯むことなく、ぼくの空いた腕を摑んだ。

 ぼくは力任せに引き寄せられ、その勢いのまま腹に膝蹴りを受けた。


「あッ、ぐ……!」


 胃の裏返るような激痛が走り、ぼくはその場にうずくまった。そこに後ろから蹴りが飛んできて、頭から地面に打ち付けられた。額が裂けた。さらに腹を蹴られて裏返しにされた。痛みに呻きながら見上げると、道枝が吊り上がった目でぼくを見下ろしていた。


「なにしてんだ、てめぇ」


 こっちの台詞だった。ぼくは道枝を睨み返した。

 すると道枝は、ぼくの上に馬乗りになって頭突きでもするように額をかち合わせてきた。


「調子のんなよ、クソ。ぶっ殺してやる」


 ぶっ殺す? できるわけがない。

 ぼくは道枝を嘲笑い、その顔に唾を吐きかけた。ぼくは道枝を侮っていた。こいつは水城叶愛のような本物ではない、有象無象のクズに過ぎない、と。


 しかし、この後に待っていたのは地獄だった。


 ぼくは川にまで引きずっていかれ、身構える間もなく水の中に頭を押し込まれた。耳の中にボゴっと水が雪崩れ込んできて、たちまちパニックに襲われた。両手を振り乱しながら空気を求めて顔を上げると、すかさず取り巻きたちの蹴りが飛んできた。そうして空気を絞りだされ、またぞろ川に頭を突っ込まれた。


 殺されると思った。

 死にたくないと思った。


 けれど、そう思えたのは最初だけだった。

 同じことが何度も何度も何度も繰り返されると、次第に恐怖は薄れていった。殺意なんて瞬く間に消火され、最後まで残ったのは苦しみだけだった。殺してやると何度も脅された。いっそ殺して欲しかった。


「――お、おえ、ぇ……ッ」


 拷問じみた時間が、いつ終わったのかは解らなかった。

 気付くと、ぼくは川辺に横たわってえずいていた。道枝たちの姿はすでになく、しとしとと雨が降っていて、辺りには吐瀉物の饐えた臭いがした。


「……」


 やがて、吐き気が治まった頃、ぼくは仰向けに転がって目を閉じた。雨に打たれながら願った。と願った。信じたこともない神にひたすらに縋った。

 すると、そこに砂利を踏む音が聞こえてきた。

 足音はすぐ傍で止まった。

 瞼を押し上げると、鈍色にびいろの空に淡いピンクの傘が重なって見えた。

 傘の持ち主が、ぼくを見下ろしていた。何も言わなかった。ただ見下ろしているだけだった。ぼくも何も口にしなかった。傘をたたく雨音だけを聞いていた。


 どのくらいの間、そうしていたのだろうか。

 ふいに喉が痙攣したみたいに嗚咽があふれ出てきた。

 恥ずかしさが、悔しさがこみ上げてきて、たまらなかった。道枝たちをくだらない人間だと、つまらない人間だと思えば思うほど、自分が惨めになってゆくのが解った。

 やがて、ぼくは乞うた。ひび割れ、擦れた声で。


「……たすけて」


 と。

 傘の持ち主――水城叶愛はにっこりと微笑み返した。そして、ぼくのびしょ濡れの髪に触れ、優しく頭を撫でてくれた。


「私が、キミの死神になってあげる」


 果たして願いは届いたのだ。

 ぼくの神様に。

 殺してくれという、願いが。

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