第17話 不在

 濡れ鼠になって帰ってきたぼくを母は質問攻めにした。

 どうしたの、大丈夫、びしょ濡れじゃない、遅かったじゃない、と。

 ぼくは被写体を探していたら遅くなったといい加減な嘘をついた。ぼくの首には、もうカメラなんてないのに。


「とりあえず、体拭かないと! 風邪ひくといけないから」


 何かあったと母は感づいたはずだった。ぼくの頭をタオルでもみくちゃにする手つきはぎこちなく、不自然な沈黙は長く続いた。直接、手を差し伸べたいけれど、この子の自尊心を傷つけてしまうかもしれない――そんな葛藤の声が聞こえてくるような気がした。

 やがて母は直接ぼくの頭を撫でると、それまで閉ざしていた口をようやく開いた。


「お風呂に入ってきなさい。もう沸かしてあるから」


 この時も母は、ぼくに判断を委ねるのだった。

 ぼくは母の優しさに感謝した。Tシャツの下に隠された痣を見られずに済んだから。一方で、心の片隅にはむなしさが残った。


 温かいシャワーを浴びているうちに幼い頃の記憶が蘇ってきた。

 祖父母の家の小さな庭で、セミを捕まえた記憶だった。

 けたたましい声で鳴くセミをめつすがめつしたぼくは、セミに土をかけ、上から石を落として殺してしまったのだった。

 セミがどうなったか確認しようとして、被せた土を払っている時だった。母の足音が近づいてきた。

 ぼくは、とっさに土ごとセミを踏みつけて隠そうとした。

 ところが、それが裏目にでた。母の注意を引いてしまったのだ。母の目は、はっきりとぼくの足下を見ていた。

 恐るおそる自分の足下を見下ろすと、サンダルからセミの翅がはみ出しているのが見えた。

 怒られる……!

 ぼくは肩を強張らせて、きつく目を瞑った。

 短い沈黙の後に母はこう言った。


『おばあちゃんがスイカ切ってくれたわよ。いらっしゃい』


 母は何も見なかったとばかりに、その場から立ち去って行った。

 ぼくはしばらくの間、立ち尽くしていた。何が起きたのか理解できなかった。

 やがて、セミを踏んでいたのを思い出し、慌てて足をどけた。死骸はいっそう無残に砕けてしまっていた。翅は折れ曲がり、肢は千切れ、頭はぱっくり割れていた。

 胸の中がどんよりと曇ってゆくのを感じた。ぼくはセミの亡骸を埋め直しながら、理不尽に母を恨んだ。どうして、ぼくを叱ってくれなかったんだ、と。


――今の安堵と空虚は、あの時の気持ちにどこか似ていた。


 入浴を終えてリビングへ行くと、母が先に夕食をとっていた。ぼくの顔を見るなり、自分の食事を中断して、ハンバーグとコーンスープ、それに粒の立ったほかほかのご飯を用意してくれた。


「今日は写真撮りに行けなかったのね」


 母の声は優しく穏やかだった。

 けれど母の言葉に、ぼくは違和感を覚えた。

 ぼくは写真を撮りに行けなかったとは言わなかった。被写体を探していたら――と言ったのだ。ぼくがカメラを持っていなかったから、そう解釈したのだろうか。

 母の目に自分がどう映っているのか、ぼくには解らなかった。ぼくは、もそもそとご飯を咀嚼するだけで何も言い返す気になれなかった。


「明日は晴れるんだって。良いものが撮りに行けるといいわね」

「うん」


 母は決して核心的なところには触れなかった。あくまで、ぼくの方から話し出すのを待ってくれているようだった。

 生憎あいにく、ぼくにその気はなかった。母のことを信用していないわけではない。話せば、きっと力になってくれるとは思っている。

 でも、それで何が変わる? 学校に抗議をしたり、道枝に謝罪を求めたりしたところで何も変わりはしない。むしろ、そうすることで、ぼくの立場が危うくなるのは目に見えている。

 ぼくを救ってくれる人は、我が家にはいないのだ。

 

『世の中には死んだ方がいい人間だっているんだよ』


 ぼくには水城叶愛がいる。

 彼女なら、社会では成し得ない正義を執行してくれる。

 ハンバーグに添えられたウインナーに、ぼくは箸を突きたてた。プチっと皮が弾けて肉汁が溢れでた。そこに道枝の姿が重なり頬が緩んだ。


「……っ」


 慌てて口元を手で覆った。

 向かいの席を見ると、母はもうぼくの方なんて見ていなかった。テレビに釘付けになっていた。芸能人がドッキリにかけられて狼狽した様子を見せると、手を叩いて愉快そうに笑った。




――




 翌日から学校は再開したが、ぼくは家にいた。

 水城叶愛から明日は学校を休むようにと言われていたからだ。

 死にたくないでしょと彼女は言ってくれた。その通りだった。彼女だけが、ぼくの心を理解してくれていた。

 どのみち、学校には行けそうになかった。体が冷えたせいか、熱っぽく体が重かった。

 ところが、次の朝にはすっかりよくなった。もしかしたら全部わるい夢だったんじゃないか。そう思えるほど寝覚めの好い朝だった。ベッドから起き上がる、その時までは。


「いぃ、つぅ……」


 半身を起こそうとした途端、全身がミチミチと痛みを訴えた。パジャマの中を覗きこむと、いたる所に青痣が残っていた。電流のように記憶がよみがえり、奥歯がガタガタと鳴りだした。

 それでも、この日は学校へ行くつもりだった。いつまでも休んでいるわけにはいかないし、水城叶愛に会いたかった。魂の一部とも言えたカメラが失われた今、彼女の声や言葉が、ぼくの魂の一部になりつつあった。

 登校する間も震えはしきりに込み上げてきた。ぼくは彼女の言葉を反芻することで、それを押さえ込もうと試みた。


『私が、キミの死神になってあげる』


 ところが、あまり効果はなかった。彼女がぼくに休むよう言ったのは、その一日の間に道枝を処分するためだと、ぼくは解釈していた。だが、その解釈が正しいとは限らないし、本当に彼女がそのつもりだったとしても実行できるかはまた別の問題だった。


 まだ道枝が生きているとしたら……?


 また殺されるような目に遭うかもしれなかった。 

 それなのに、ぼくは、ずるずると歩みを進めていった。一歩ふみ出すたびに引き返そうという思いが膨れ上がった。それに反して、ぼくの足は動き続けた。あたかも自分以外の何かに操られているかのように。


 やがて、学校が見えてきた。


 その時には恐怖よりも喜びが勝っていた。

 水城叶愛に会える。やっと会える。

 すぐ傍に歩く横顔を、追い越してゆく背中を、ひたすら目で追った。

 しかし彼女は見当たらなかった。


「あれ……?」


 教室に行っても彼女の姿はなかった。普段ならぼくより早く登校しているはずなのに。彼女の席には荷物もない。

 まさか今日は来ないのか?

 そう思ったら体がふらついて近くの机に手をついていた。読書中の男子生徒がぎょっとぼくを見上げた。ぼくは曖昧に笑い返して自分の席に向かった。倒れこむように机へと突っ伏した。そうして彼女の明るい挨拶が聞こえてくるのを祈った。しかし、ついに彼女の声を聞くことのないままホームルームが始まった。


「出席とるぞー」


 担任が淡々と生徒の名前を読み上げてゆく。塚地ぃ、と呼ばれて呻くように返事をしたが、担任は特段気にした様子もなく点呼を続けた。ぼくの次には手越の名前が呼ばれた。月山を呼ぶのは、もうやめたようだった。


「道枝ぁ、あ? 珍しいな休みか。じゃあ水城ぃ、あら? こっちも休み?」


 来てませーん、とよく彼女と一緒にいる女子生徒が声を上げた。

 それとほぼ同時だった。

 突然、廊下からドタドタドタッと足音が轟きだしたのは。


「なんだッ!」


 と担任が廊下の方に目を向けると、一拍の間を置いた後、女子生徒が駆け込んできた。


「おはようございます! 遅刻? ギリセーフ? どう?」


 水城叶愛だった。

 担任は彼女を呆れた目で見ながら、手にしていたタブレットでぽんとその頭を叩いた。


「セーフでもないし、廊下も走るな」

「うぇー、すいましぇーん」


 ゼェゼェと息をしながら、水城叶愛がぼくの傍らを通り過ぎていった。

 ぼくらが校内で気安く言葉を交わすことはない。だが、それでよかった。彼女の声を聞けたこと、彼女の存在を感じられたことで、ぼくは満たされていた。


「……っ」


 だから後ろから肩を叩かれた時、ぼくは跳び上がらんばかりだった。ふり返るべきか迷った。いま水城叶愛の姿を直視してしまったら泣き出してしまいそうで怖かった。

 けれど、彼女を無視するわけにもいかなかった。

 深呼吸をして、ぼくは振り向いた。


「やっほー」


 水城叶愛は、まっすぐにぼくの目を覗き込んできた。ふだんと何ら変わりない微笑が、そこにあった。ぼくは全身の毛穴がくわっと開かれるような興奮に包まれた。


「ねぇねぇ、一限って何だっけ?」

「……数学」


 ぼくは胸の高鳴りを抑えながら、日常的なやり取りを演じた。

 次に彼女が何をするのか。ぼくに何を伝えるつもりなのか期待した。

 彼女はすぐにも行動を起こした。


「あっ!」


 突然、床の物を拾う素振りを見せたのだ。

 消しゴム落ちたよと彼女は、それをぼくの手に握らせてきた。当然、それは消しゴムなどではなく四つに折られたノートの切れ端だった。


「ありがとう」


 どくんと胸が打つ音を聞きながら、ぼくは平静を装いつづけた。

 前に向き直ると、さっそく紙切れを拡げた。そこには水城叶愛の直筆と思しき丸っこい文字で、こう書かれていた。

 

『ミッチー捕まえたよ! 今夜1時でてこられる? いつもの場所で待ってるね♡』

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