第18話 生存
深夜、ぼくは家を抜けだした。月の見えない夜だった。町は濃い闇の中にあった。家という家の灯りは落ちていて、黙然と頭を垂らした街灯だけが無機質に地面を濡らしていた。
真夜中にひとり家を出るのは、これが初めてだった。小学一年生の登校初日を思い出す。親の付き添いもなく初めて自分ひとりだけで家を出た、大冒険に乗りだすようなあの興奮と不安。いまの心境は、それとよく似ていた。
足取り軽く田畑の近くを歩いていると、虫やカエルといった小さな生き物たちが夜更けの音頭を取っていた。ぼくはそれに合わせてステップを踏むように歩いた。小学生の頃と異なるのは、興奮と不安に加えて喜びもあることだった。
本当の
河川敷が近づくにつれ、ぼくの歩調は跳ねるようなそれに変わっていった。堤防道路へ上がる坂道もちっとも苦ではなかった。むしろ、水城叶愛へ近づいてゆく実感とともに力が漲るのを感じた。
堤防道路の上に立つと、融けた鋼のような闇がどんよりと拡がっていた。夜をたっぷりと吸いこんだ川。日中のそれよりも容赦なく力強く見えた。
土手を下りる階段の方に目を向ければ、その中ほどに腰を下ろした人影を見つけた。ぼくの視線を感じ取ったのか、突然、その頭がぐるりとこちらを向いた。月も見えない真っ暗な夜なのに両眼がギラリと光って見えた。
それは本能的とも言うべき恐怖を呼び起こした。ぼくは一度、ぶるっと身を震わせた。あの影を水城叶愛だと確信していたのにもかかわらず。あんなにも会うのを楽しみにしていたのに、浮き立った気持ちは徐々に萎んでいった。
そんなぼくとは対照的に、水城叶愛の足取りは軽かった。彼女は小動物じみた動きで階段を駆けあがると、あっという間に目の前までやって来たのだった。
「さすがに、この時間は暗いねぇ」
腰の後ろで手を組んで、水城叶愛が言った。
その時、どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。ぼくはビクッと肩を震わせたが、彼女は声のした方に首を回しただけで平然としていた。
「えっと、待たせちゃった?」
「べつに塚地くんは悪くないよ。私が早めに来ただけだから」
「そっか。待ってる間、怖くなかった?」
「なんで?」
「なんでって……夜中に女の子ひとりだろ。こういう所って変な連中が来たりするかもしれないじゃん」
ぼくは橋脚の壁面に卑猥な落書きがされていたのを覚えていたが、水城叶愛はそういうこともあるのかといった顔つきで、ぼくを見返してきた。
「まあ、暗いから見つからないでしょ。それより行こう。おしゃべりしてたら夜が明けちゃうよ」
そう言い終えると同時に彼女は歩き出した。その足取りは軽く、あたかも遊園地を行く子どものようだった。
その後を追いながら、ぼくは以前の彼女の発言に疑問を抱いていた。
『――罪悪感だって、ちゃんと感じるよ』
彼女はぼくの望みどおり道枝を殺害したはずだった。
それなのに、こんなにも浮き立った様子でいられるものなのだろうか。
彼女は本当に罪悪感を感じているのだろうか。良心があるのだろうか。
ついさっき階段で待っていた彼女に恐怖を覚えたのは、彼女のことをあまりに異質に感じたからかもしれなかった。
「あれだよ」
そんなことを考えているうちに、目的地に着いた。
それは新興住宅やマンションなどが立ち並ぶ中に、ぽつんと佇むプレハブ小屋だった。長らく放置されてきたのか、その屋根は傾いており、闇に圧し潰されまいと必死に耐えているように見えた。
こんなところ入って大丈夫なのか?
ぼくは水城叶愛の横顔に目を向けたが、彼女はぼくを一瞥することもなく、いきなり丸っこいドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。そんなところに人の死体を? 信じられなかった。
啞然とするぼくを、水城叶愛は手招いた。おいでの形に唇が動いた。その毅然というより弛緩した態度を見ているうちに、ぼくの心配はじつは杞憂に過ぎないのではないかと思えてきた。
人の死体と対面するのは、これでもう三度目なのだ。
水城叶愛は戸口で足を止め、ぼくが決断するのを待ってくれていた。
ゆっくりと彼女に頷いて、ぼくもようやく小屋の中に足を踏み入れた。
ぼくが後ろ手にドアを閉めると、いきなり懐中電灯のあかりが灯った。ぼくは驚き目をすがめ、危うく大声をだしてしまいそうになった。彼女はそんなぼくの姿を見て失笑すると、懐中電灯を床に立てた。リュックから取り出したぼんぼりのような囲いで明かりが覆われると、幾分、目の刺激もやわらぎ、ぼくはパチパチ瞬きながら小屋の様子を確認した。
両側の壁に段ボールが山と積まれていた。天井に届くほどの高さで、窓は完全に塞がれていた。床には農具や釣り竿、剝き出しのエンジンのようなものまで転がっているものの、物が多いという印象はあまり受けなかった。小屋の奥行きも意外に深く、奥の方はあまり見えない。
「ッ!」
それでも、小屋の奥に人影があるのは見てとれた。
パイプ椅子の上で、それは項垂れるように座っていた。
「来たよ、ミッチー」
水城叶愛が囁くと、パイプ椅子の影はぴくりと動いた。
ぼくは思わず叫びだしそうになった。
生きてる?
どういうことだと、ぼくは目線で訴えかけた。
すると彼女は芝居がかった仕草で肩をすくめて、にっこりと笑った。
「ミッチーだって理由が知りたいんじゃないかと思ってさ」
「理由?」
「こんな目に遭う理由だよ」
水城叶愛は道枝の背後に回りこむと、その両肩にそっと手を置いた。道枝がぶるっと震えた。彼女はくすくすと笑ったが、その目は道枝ではなくぼくを見つめていた。ねっとりと重い眼差しで。
「憎いよね? 恨んでるよね? なら、その気持ちをぶつけちゃおうよ」
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