第19話 捕縛
彼女が口にした「気持ちをぶつける」の意味は明らかだった。彼女はぼくに復讐しろと言っているのだ。
道枝の目と口にはガムテープが貼られ、手足には結束バンドが巻かれている。
そして、復讐には誂え向きなロープが、道枝の首にはぶら下がっていた。
ぼくは、両手をぎゅっと握りしめた。首筋の皮膚がちりちりと粟立ってゆくのを感じながら。
苦悶する白猫の姿が蘇り、それが目の前の道枝と融合した。
滂沱のごとく涙を流し、苦しみに喘ぎながらロープを掻きむしる道枝の姿――。
それはあっという間に、ぼくの頭の中を占拠していった。
「そ、そんなの……!」
無理だ、と口にしかけたその時だった。
突然、水城叶愛が何かを投げて寄越した。
とっさの事に、ぼくは両手をばたばたさせながら、なんとかそれをキャッチした。
ずしりと重かった。
なんだこれ、と明かりの方にかざしてみて血の気が引いた。
スタンガンだった。
「こ、これ……」
「安心して。大丈夫だから。それなら適度に苦痛を与えられる。キミの味わった苦しみのほんの一部なら味わわせることができるよ」
不穏な会話は、当然、道枝の耳にも届いている。椅子がガタガタと音をたて、そこに不明瞭な呻き声が重なった。水城叶愛は怯える道枝のこめかみをするりと撫でると、目元を覆うガムテープの端を摘まんだ。
「ごめんね、ミッチー。なにも見えなくて不安だよね。いま見えるようにしてあげるねっ」
宥めるような口調とは裏腹に、彼女はガムテープを一息に引っぺがした。バリッと紙が破けるような音がした。
「ンンゥ……!」
道枝がおおきく仰け反るのを見て、ぼくはきつく瞼を閉じた。
そこに、大丈夫だいじょうぶと子どもをあやすような声がする。
大丈夫だなんて、とても思えなかった。これから何が始まるのか想像もしたくなかった。なのに水城叶愛の甘やかな声は、不思議とぼくの瞼を開かせる力をもっていた。
「痛かったよね、ミッチー。ごめんね?」
水城叶愛は、こちらに意味深な視線を寄越すと、睫毛がびっしりとこびりついたガムテープを放って、悶絶する道枝が倒れてしまわないよう肩を押さえつけた。
「ンっ! ンぅ……?」
道枝は目をしばたたかせながら、きょろきょろと辺りを見回した。
水城叶愛は、すぐさま道枝の目を両手で覆い、かろうじて聞き取れる小さな声で囁いた。
「だぁれだっ?」
ここが学校で拘束もされていなければ、道枝は大喜びしたに違いなかった。
しかし現状は最悪だった。
道枝はくぐもった叫びをあげながら椅子の上で身を捩った。
「もー、あんまり暴れちゃダーメ」
水城叶愛の爪が道枝の肩に食いこんだ。道枝は痛みに身を強張らせ、自分の立場を理解したのか大人しくなった。
「えらいよ、ミッチー」
今度は口元のガムテープに白い指が伸びてゆく。
水城叶愛が、また視線を寄越す。スタンガンを一瞥する。
道枝が暴れたら、これでどうにかしろということか。そんなのごめんだと、ぼくは思った。けれど拒否権はなかった。道枝に人を呼ばれるわけにはいかなかった。ぼくは、おずおずと道枝に歩み寄った。
視界をとり戻した道枝は、そこでようやく目の前の人物が何者かに気付いたようだった。目を
「ダメって言ったよね?」
またぞろ水城叶愛に肩をつかまれると、次第に震えは鎮まっていったが、カッと見開かれた両目に宿る恐怖はそのままだった。
今度はやさしくゆっくりとテープが剝がされた。道枝は叫ばなかった。しかし震える声や体からは極限的な恐怖が発散されていた。
「ふ、復讐のつもりか……!」
「……」
ぼくは何も答えなかった。
目の前にいるのは傷つけたいと殺してやりたいと思った相手だった。だからこそ、ぼくは水城叶愛に助けを求めたのだった。彼女ならば道枝を断罪してくれるに違いない、と。
けれど、道枝はまだ生きていて、手中のスタンガンは次第に重みを増してゆく。
これはぼくの望んだ状況ではなかった。ぼくは道枝の死体を対面するつもりでいたのだ。
「そりゃ俺のこと憎いだろうよ。ぶちのめしたいって思うだろうよ。で、でも、こんなことして、タダで済むと思ってんのか?」
道枝の目に怒りの火が灯った。
それを目の当たりにした途端、恐怖に竦んだ胸の奥からドロドロとしたものが烈しく噴きあがった。
「そっちこそ、タダで済むと思ってたのか?」
道枝は一瞬ぐっと言葉を詰まらせたが、それでも負けじと反論してきた。
「やり方ってもんがあるだろうが。殴られてムカついたら、殴り返すのがスジってもんじゃねぇのかよ」
血液がカッと熱を帯びた。
殴り返すのがスジ?
川で殴られた時、ぼくはその通りにした。やり返したのだ。だが、その結果、どうなった? 殺されかけた。抵抗する気力もなくなるほど、さんざんに痛めつけられたのだ。
そもそも、ぼくはなぜ殴られなければならなかった? 始まりは? 原因は? そこに正当な理由はあったのか?
ぼくは一歩まえに踏み出した。あれほど重かったスタンガンが羽毛のように軽く感じられた。つと道枝の背後に目がいった。
水城叶愛。ぼくの死神。
その瞳は明かりを受けて妖しく輝いていた。許されている、とぼくは思った。道枝を傷つけること、苦しめることを。次の瞬間、手元に青い雷弧が閃いた。
「ンイィぃ……ッ!」
豚のような悲鳴とともに、道枝の体がのけ反った。
ぼくは跳ねるように後退った。
ドクドク、ドクドク、音がした。耳の中に心臓があるかのように。
やった? ぼくがやったのか?
自分のしでかしたことが信じられなかった。
「……」
痙攣が治まると、道枝はぴくりともしなくなった。
まさか……。
スタンガンを見下ろして、ぼくは怖じ気づいた。
水城叶愛が宥めるように言った。
「死んだりしないよ」
彼女は道枝の頭をうしろから小突いた。上向いた顔が、前にがくんと落ちた。道枝は身動ぎひとつしないが、その肩はわずかに上下をくり返していた。
「ねぇミッチー、どんな気分かな?」
道枝の耳もとで、水城叶愛はクスクスと笑った。
すると、道枝の顎がかすかに上向いた。
「お前、ら……なんで一緒に……」
「友達が一緒にいるのはフツーでしょ」
「今まで、一緒にいるところ……見たこと、ねぇぞ」
「それよりミッチー、質問に答えてよ。どんな気持ちなの? ムカついてる? 泣いちゃいそ? それとも反省してるのかな?」
「反省……? なんでだよ。なんで、お前がそんなことッ!」
突然、道枝が声を荒げた。唇をめくれ上がらせ、耳の先まで真っ赤に染めながら。
水城叶愛は微笑を浮かべながらも、道枝を冷徹な目つきで見下ろした。
「状況をよく理解すべきだよ、ミッチー?」
「うるせぇッ! そもそも月山だってお前が――うエ、ェッ!」
道枝が言い終えるより早く、水城叶愛の手が動いた。道枝の首にかかったロープを引いたのだ。
「う、ェ……がァ」
道枝の顔色は見る見るうちに蒼褪めていった。
それを見て、ぼくは急激な渇きを覚えた。
目の前で人が殺されようとしている恐怖心。
それだけではない何かが胸に渦巻いていた。
道枝はいま何を言おうとした?
とても重大な何かを言おうとしていなかったか?
生憎、それを冷静に分析できる状況ではなかった。
ぼくは腹の底からかすれた叫びを絞りだした。
「やめろ……ッ」
「はぁい」
水城叶愛は、あっさりとロープから手を離した。
道枝が激しくむせ返り、そこにジーッと水音が交じって聞こえた。アンモニアの臭いが小屋の中に充満していった。
「水城……お前、だれかにやらされてんだろ……?」
道枝が項垂れたまま涙声を発した。それは背後の少女に対する問いというよりも、そう信じたい彼自身の願いのように聞こえた。
ぼくは道枝の思いに共感した。
水城叶愛はあっけらかんとした少女で、クラスのムードメーカーだ。教室の端っこで影と同化しているようなぼくとは違う。そう誰もが信じている。すこし前までは、ぼく自身もそう思っていた。
しかし真実とは、個人の思いとは関係なく存在する。これまで見てきたものが真実を裏付ける証拠になるとは限らない。
人の心は目には見えなず、本当は誰も隣人の素顔など知らない。ぼくらが認識する相手とは、ぼくらが見たいように彩った下手くそな似顔絵でしかないのだ。
「ミッチーは純粋だねぇ」
水城叶愛は、あたかも子どもを相手どったかのように笑った。道枝の正面に回りこめば、その目をじいっと覗き込んだ。眼差しで刺すように、抉りこむように。
「社会とか常識とか、そんなもの幻だよ? みんなさぁ、唯一無二の尊い個人とかなんとか言うくせに、相手をすぐパターンの中に入れたがる。紙の上に描かれたきれいな枠の中にね。でも、絵具はどんどん紙に滲んでゆくんだよ。多かれ少なかれ枠からはみ出すの。枠の中を見つめてばかりじゃ、相手のホントの姿なんて見えっこない」
「じゃあ、俺が見てきた水城叶愛は一体だれだったんだよ?」
「ふふっ、さあね」
「ほんとうのお前は、どこにいるんだよ……?」
「それはこれからのお楽しみだよ」
そう言うと水城叶愛は、道枝の耳元にそっと頬を寄せた。艶やかな唇から
「今夜はいっぱい楽しもうね、ミッチー?」
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