第20話 拷問
道枝はしくしくと泣きだした。死にたくないと連呼しながら。
その憐れな姿を前に、ぼくは自分の胸を掻き毟りたくなるような衝動に襲われた。
今すぐ道枝の拘束を解き逃がしてやるべきだった。そうしなければ、間違いなく道枝は殺される。ぼくの願いを完遂しようとする
「……」
しかし、ぼくは動けなかった。
いや、動かなかった。
道枝を逃がすことは、同時にぼくの未来の終わりを意味しているからだ。これまでやって来たことを世間に知られるわけにはいかなかった。
「ごめんなさい……許してください……」
道枝の哀願は無視され、口元にガムテープが貼り直された。
ぼくは俯いて、道枝のすがたを視界から切り離した。あいつはもう存在しないんだ、と自分自身に言い聞かせた。
だが、そんな甘い態度を水城叶愛は許さなかった。
「アルバート・フィッシュって知ってる?」
その名を耳にして、ぼくは胃の中に氷柱を突っ込まれたような恐怖に襲われた。
道枝は聞こえているのかいないのか、ただただ
ところが、ぼくは知っていた。他でもない水城叶愛の口から聞かされたことがあったからだ。
「やっぱりミッチーは知らないよね。彼は大勢を手にかけた殺人鬼なんだよ。本人が言うには四百人以上の子どもを殺したんだって。たぶん嘘だけどね。まあ、それはいいや。面白いのはそこじゃないの。彼はね、相手を拷問したり、解体したり、シチューにして食べたりしたんだよ。ヤバいよね」
火でもつけられたように道枝が暴れだした。
ぼくは、すっかりおかしくなっていた。条件反射的に静かにさせなければならないと、スタンガンを突き出していたのだ。
「あ」
ところが、瞬いた電流が道枝に触れることはなかった。
突如、ぼくの視界がガクンと落下して、スタンガンは手中からこぼれ落ちていた。
「あ、あ、あぁ……っ!」
ぼくはその場にくずおれていた。膝が砕け、ガクガクと震え、力が入らなかった。それはきっと道枝の恐慌状態に似ていた。
ぼくは縋るように水城叶愛へと目を向けた。彼女はぼくを見返してニィと口角をあげた。そして、道枝の耳朶にそっと息を吹きかけた。
「安心しなって。私はアルバート・フィッシュじゃないよ? ミッチーのこと解体したりしないし、シチューにして食べたりもしないから」
水城叶愛の声音は童女じみて屈託がなかった。一方で、暴れる道枝の肩をつかんだ指は、ミチミチと音がしそうなほど肉に深く食いこんでいた。
「でも、大人しくできないなら邪魔な手足は切り落とさなくちゃいけないよ? うるさくするなら喉笛も。あっ、知ってる? 喉笛を切っただけじゃ人って死なないんだよ。ミッチーはさぁ、死ぬこともできずに苦しみたい? 声を出そうとするたびに、ひゅうひゅう空気の抜ける音がするの聞いてみたいかな?」
白く透けるような指先が、ゆっくりと道枝の喉を這い上がってゆく。
くぐもった悲鳴。その後の静寂。荒い息に交じって、また失禁の音がする。
「イヤだよね?」
道枝の首が、ぶんぶんと音がしそうなほど激しく上下に揺れ動いた。
「えらいえらい」
水城叶愛は優しくマッシュルームヘアーを撫でた。視線を依然ぼくに絡みつかせたまま、シリアルキラーの講義を再開する。
「アルバート・フィッシュは多くの特性を持ってたことでも有名なの。彼は同性愛者で小児性愛者でもあった上に、おしっこを飲んだり、うんちを食べたりするのも好きだったんだって。人を拷問して殺すくらいだから異常なサディストでもあった。興味深いのは同時にマゾヒストでもあったこと。それも尋常じゃないんだよ」
水城叶愛は一息に言いきった。
ぼくは今すぐ耳を塞いでしまいたかった。この場から逃げ出したかった。改めて聞いていても胸が悪くなった。同じ人間の所業とは思えなかった。
幸いアルバート・フィッシュはもうこの世にいない。
しかし、それについて語る少女は、確かに目の前に存在する。
彼女の話が一体どこに行き着くのか想像がつかない。このまま聞いていてはいけないという予感だけがある。
だが、耳を塞ぐことはできない。両腕がだらりと下がったまま動いてくれない。膝の震えも一向に治まる気配がない。
アルバート・フィッシュの物語だけが着実に終わりへと近づいていった。
「逮捕された時、彼の陰嚢からは二十九本も針が見つかった。誰かにやられたわけじゃないよ。自分で刺してたの。油をしみ込ませた綿をお尻に入れて火をつけたりもしてた。それが彼なりの自慰行為だった。でも、そんな彼でも耐えられなかった行為があったの。なんだと思う?」
答えられない相手に、水城叶愛は問う。
たっぷりと沈黙を堪能した後、彼女はおもむろにピルケースのような物をとり出した。道枝を昏倒させた薬でも入っているのかと思ったが、その蓋を開けた瞬間、違うと解った。
「……おい」
小学生の頃の記憶が去来し、潮のように血の気が引いた。
あれは――裁縫針を収めたクリアケースだ。
水城叶愛は道枝に顔を近づけ、ケースから一本針を抜いた。その銀色が室内にともった明かりをするどく弾いた。
「答えは意外と簡単なんだよ。拷問の定番だね」
拷問と聞いて、道枝の肩がびくんと跳ねあがる。
止めなくちゃ――!
ぼくの胸に強い衝動が湧きあがった。
それでも体に力が入らない。立ち上がることさえできなかった。
「やめろ!」
水城叶愛はふふっと笑い、ぼくの制止の声をつまらない冗談のように聞き流した。上品な仕草でスカートを折りながら、道枝の背後に屈みこむ。そうして結束バンドに縛られた手をとり、胸の前まで引き寄せて――。
「やめろぉ……!」
唸るように、乞うように、そして願うように。
ぼくは叫んだ。
しかし水城叶愛は天使ではなかった。
天使の顔をした悪魔だったのだ。
「ンンゥ! ウウゥンンンンンッ!」
次の瞬間、道枝がカッと目を見開き、海老反りになった。その目からみるみる涙があふれだし、地面に落ちてボタボタと音をたてた。悪魔は興奮に声を上擦らせるでもなく淡々と言った。
「正解は指と爪の間でしたぁ。どうミッチー、意識はある? もうしばらく我慢してね。まだ一本目だから」
ぼくは固く目をつむった。ようやく腕に力が戻り、両手を押し付けて耳を塞いだ。この地獄をなかったことにしたかった。
「ンブゥ、ッ! ンンウウウウウァ!」
しかし、どれだけきつく手のひらを押しつけても絶叫は耳の中に雪崩れ込んできた。なかったことになどできるはずがなかった。
「やめろ……もうやめてくれ……ェ!」
ぼくは懇願した。
水城叶愛という悪魔に向けて。
「……」
すると、ぱったり悲鳴が途絶えた。
恐るおそる目を開けると、
「やめたよ」
眼前に、水城叶愛の顔があった。じっとぼくの顔を覗き込んでいた。薄笑いを浮かべながら。
ぼくは悲鳴を押し殺した。声を出したら魂をぬき取られると本気で思った。本当の悪魔にしか思えなかった。
「キミは優しいね。ミッチーみたいな相手でも苦しんで欲しくないなんて」
悪魔は慰めるようにそう言うと、ぼくの腕を摑んだ。
振り払おうとすると、皮膚に爪が食い込んだ。
悪魔がぐっと顔を近づけた。互いの鼻が触れ合うほどの距離にまで。
「でも逃げちゃダメだよ。ミッチーのこと可哀想だって思うなら、なおさら。キミが終わらせてあげなくちゃ」
そう言って悪魔は、ぼくの手に何かを握らせた。今度はスタンガンではなかった。乾き、ささくれた感触はロープのそれだった。
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