第21話 逃避
針を刺すような恐怖が全身を伝い、ぼくは
しかし悪魔の手は離れなかった。むしろ抵抗すればするほど、皮膚に突きたてられた爪は深く食いこみ、痛みは増していった。
「放せよッ!」
ぼくは泡を食って叫んだ。悪魔は
「人を殺すのが怖い? なら、それを払拭する方法を教えてあげる」
「そんなの知りたくない!」
ロープを投げつけようとすると、手ごとロープを摑まれた。悪魔はもう一方の手にも摑みかかり、ぼくの指の間に自分の指を滑りこませてきた。
互いに両手を摑み合った状態。だが、これは好機だった。単純な力比べなら、ぼくの方に分があった。
「いぃ、ッ……で!」
ところが、相手を押し返そうとした途端、思いきり脛を蹴られた。怯んだ隙に押し込まれ、逆にぼくの方が地面に組み伏せられる。
「あッ、ぐ……!」
頭を打って、一瞬、目の前が白く染まった。
その視界に悪魔の双眼だけが爛々と輝いて見えた。悪魔はまた余計なことをべらべらと喋りだした。
「神経科学者のマーティン・ライマンとフィリップ・ジンバルドーは、人が悪事をなす時、没個性化と非人間化という過程が最も重要だと考えた。没個性化は自分をひとりの人間として考えるのをやめて、集団の一部だと認識すること。非人間化は相手を人間以外のものとして扱うこと。ナチスがユダヤ人を劣等人種扱いしたみたいに、相手を自分より劣ったものとして認識することだよ」
うるさい、とぼくは声を荒げた。
無論、悪魔は聞く耳をもたない。
「難しく考えなくていいんだよ。ミッチーはキミを苦しめてきたよね。いや、キミだけじゃない。月山くんだってひどい目に遭ったんだ。ミッチーは生きてるだけで周りを不幸にしてくんだよ。社会が忌み嫌う害虫ってわけ。解るでしょ?」
言葉が深く突き刺さる。胸の奥のおくにまで。あるいは頭の芯にまで。思考が麻痺する。道枝への憎しみがかき立てられる。彼を殺すことこそが社会正義なのだと思えてしまう。
「黙れよ……!」
それでも、ぼくは抵抗をやめなかった。
ぼくは誰も殺したくなかった。苦しめたくなかった。
たとえ、それらが上っ面の薄っぺらい感情に過ぎなかったとしても、水城叶愛に従いたいとはもう思えなかった。
ぼくは相手の脇腹に膝を叩きつけた。
「う、ッ」
拘束が緩んだ。ぼくは悪魔を突き飛ばし、小屋の入口まで這って逃れた。そこでようやく立ち上がって彼女と向かい合った。
「失敗だねぇ」
と、水城叶愛は壁に手をついて立ち上がった。
「どうして、ぼくに殺させようとするんだ」
「友達とは同じ楽しみを共有したくなるものでしょ?」
まるで知識の確認のように彼女は言った。本で読んだんだけど合ってるよね、そんな声が聞こえてくるような気がした。
「きみはおかしいよ……」
「誰だって客観的にはおかしく見えるよ」
「もう付いていけない。こんなこと、すぐにやめるんだ」
逆光のせいで水城叶愛の表情は見えない。けれど、はっきりと嗤ったのが解った。
「わかってるなら、どうして猫のときは止めなかったのかな? 人の命も、猫の命も等価値のはずなのにさ」
水城叶愛はそう言って忍び笑いを漏らした。
眉間にちからが入るのを感じた。頭に血がのぼってゆくのがわかった。
惑わされるな。
ぼくは、努めて冷静になるよう自分自身に言い聞かせた。彼女のペースに呑まれてはいけない。冷静さを欠けば、彼女の思う壺だ。
「いつまで、こんなことを続けるつもりなんだ」
「塚地くんは、こんなことやめて欲しいんだよね。優しいもんね。解るよ。でも、キミは本気で私のことを止めるつもりはないみたい」
「そんなことない」
「じゃあ、どうしてさっさと警察に通報しないのかな?」
うっと呻いてしまった。心臓を鷲摑みにされた心地がした。
「私が捕まっちゃえば、それでめでたしめでたしじゃない? なのに、キミはそうしない。なぜか。ふふ、考えるまでもないよね」
水城叶愛がゆっくりと距離を詰めてくる。
ぼくは後ずさりして、ドアにぴったりと背中を押し付けた。
それ以上言うな、とぼくは念じた。彼女はきっと、そんなぼくの思いさえ知っていた。
「キミと私は一蓮托生。私が捕まれば、キミも捕まる。それがイヤだから、私をどうにか説得しようとしてるんでしょ?」
「そんなんじゃ……!」
「ないって言えるなら、今この場で通報しなよ。止めないからさ」
水城叶愛が両手をあげ一歩二歩と後ずさる。挑発的に首をかしげ、早くしろと言わんばかりに顎をしゃくってみせた。
「わ、わかったよ」
心臓がバクバクと音をたてていた。余計なことを考えだす前に、ポケットに手を突っ込んだ。スマホを取り出し、噴きだす汗をズボンで拭いた。そして画面を見下ろした。
ロックを解除――できない。
スワイプしようとする手が震えて画面を小刻みに叩いてしまう。
もう一方の手で震えを押さえこむ。やっとのことでロックを解除した。
あとは番号を打ちこむだけ。三つの数字を打ち込むだけ。
最初の『1』をタップした。
その瞬間、堰を切ったように様々なことが脳裏をよぎり始めた。
寡黙な父がカメラをくれたこと。インフルエンザに罹ったぼくを母が看病してくれたこと。
ワイドショーを席巻する殺人事件、ネットに氾濫する殺人犯への怨嗟、カメラの前で泣き崩れる加害者の両親――。
次の『1』をタップする。画面にふたつの数字が並ぶ。
呼吸がどんどん浅くなる。
あと一回ですべてが終わる。
最後の『0』が、ぼくらの運命を決定づけていた。
「おい……ちくしょう……!」
ところが、そこでぼくの指は動きを止めてしまった。
たった一回、画面を叩くだけなのに。
動け、動けとぼくは念じた。
だが、どれだけ念じたところで、ぼくの手は金縛りにあったように動かない。首を絞められ、苦しみに喘ぐ猫のすがたを思い出そうと、道枝の絶叫を反芻しようと、ぴくりともしない。胸は張り裂けそうに痛むのに、ただそれだけ。
「それがキミの本性だよ」
水城叶愛がトドメの一撃を発した。茨でも呑まされたみたいに、ぼくの内側はズタズタになった。そこに甘いあまい飴を差し出すのもまた彼女の手管だった。
「でも大丈夫。誰だって同じ判断をするよ。みんな自分が可愛いんだもん。善いことのために、いつも善い判断ができるとは限らない、それが人間ってものでしょ?」
そう同意を求めながら、水城叶愛が道枝のもとへと戻ってゆく。
「だけど人間って、正しいことのために、正しいことをするのは得意だよ。だからキミも正しいことをすればいい」
いつの間に拾っていたのか、彼女の手にはロープが握られていた。彼女は、それを道枝の首に巻き直した。
懐中電灯のあかりは、もはや水城叶愛の表情を隠しはしなかった。人の命を奪おうとしているにもかかわらず、彼女の口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「クソ……ォ!」
ぼくは身を翻して、小屋をとび出した。
耐えられなかった。もう無理だった。
道枝の苦しみ悶える姿を見るのも、水城叶愛と一緒にいるのも――自分自身と向き合うことさえも。
「ハァ……! ハァ……!」
誰も追いかけてこなかった。
それでも、ぼくは夜の街を全速力で駆け抜けた。
家の灯りはどこも消えていて人の気配など感じなかった。ぼくは圧倒的に独りだった。世界を独り占めにしたようなあの興奮は、もう訪れてはくれなかった。あるのはただ恐怖だった。恐怖以外には何もなかった。
気付くと家の中にいた。
いつどうやって帰ってきたのかも思い出せなかった。
毛布にくるまり声を殺して泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。
車の通る音がした。遠くで火の用心のサイレンが鳴っていた。救急車が近くを通りかかり、どこへと去ってゆく気配がした。
やがて鳥が鳴きだし、外が明るみ、朝がやって来た。
それでも最後の番号を、ぼくはついに押せないままでいた。
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