第14話 傀儡

 日野の死が取り上げられたのは、週明け月曜日。

 九月三十日のことだった。

 朝食をとりながらニュース番組を見ていた母が、突然テレビ画面に箸を向けたのである。


「ちょっと、これあんたの学校じゃない?」


 ついに来たかというのが、ぼくの感想だった。

 あの遺体は本当に日野だったんだとか、とんでもないことをしでかしてしまったとか、そういった意識は不思議と湧いてこなかった。

 日野のアパートに侵入したあの日から、ぼくの心は凪いでいた。後ろめたさをまったく感じないわけではないものの、死に対する身がすくむような思いを感じることは、ほとんどなくなっていた。


「知ってる人か?」


 母の隣で新聞を広げた父が、ぼくの顔を覗きこんできた。

 テレビを見ると日野の名前が表示されていた。

 ぼくは「数学の先生」とだけ答えて、ぼんやりシジミのみそ汁を啜った。


 すると両親がふたりして目を見開き、互いに顔を見合わせたのが解った。

 しまった、とぼくは過ちに気付いた。

 仮にも身近な人間が死んだのだ。こんなにも無関心で冷静な態度をしているのは不自然きわまりない。

 ウーロン茶の入ったコップを呷る。異様に喉が渇いた。

 なんとかして、この場を取り繕わなければならなかった。まだ眠気の残った頭をフル回転させ、言い訳の言葉を探した。


「えっと……」


 母が口の中でもごもごと何かを言った。

 先ほどの態度について何か言われるのではないかと、ぼくは身構えた。

 やがて、母はこう続けた。


「先生って、大変な職業なんでしょうねぇ……」


 特にいまの先生はなぁ、と父がすかさず母に追従した。

 早くも日野のニュースは終わり、次のトピックへと移っていった。ふたりの話題もそれきり途切れ、食器と箸とが触れ合うカチャカチャという音だけが食卓に響いた。

 ぼくはホッと胸をなで下ろした。

 そうだ、ぼくの両親は昔からこうだった。意図して過度な干渉を避けるようなところがあるのだ。基本的にぼくのしたいようにやらせてくれ、考えや態度についても尊重してくれていた。小学生の頃には、友達によく羨ましがられた。俺の父ちゃんも母ちゃんも、お前の家みたいならよかったのに、と。


 本当にそうなんだろうか、と今にして疑問が湧き上がってきた。もちろん両親に不満があるわけではなかった。ふたりの接し方が、ぼくへの優しさであることも十分に理解しているつもりだった。

 なのに、テーブルを挟んだふたりとの距離は、ぼくが成長するにつれて遠く隔たってゆくような気がしていた。

 凪いでいたはずの心が、次第に波を立て始めた。

 ねぇ、とぼくは心の声で、ふたりに呼びかけた。


 お母さん、ぼくは日野先生が死んでるのを知ってたよ。

 お父さん、ぼくはその死体を撮ってきたんだよ。


 ぼくは両親の顔を穴が開くほど見つめた。

 けれど、ふたりの注意は、すでに朝食や紙面の方に戻っていた。

 ぼくもシジミのみそ汁に向き直らざるを得なかった。自分から声をかけることはできなかった。それができる人間だったなら、ぼくらの距離は、とっくに縮まっているはずだった。

 ふいに水城みずき叶愛とあの穏やかな微笑みを無性に恋しく感じた。

 残ったみそ汁を飲み干すとき、奥歯にザリと砂の挟まる感触がした。




――




 日野が死んでも授業は通常どおり行われた。

 普段と違っていたのは、朝のホームルームで日野の死が伝えられ黙祷の時間が設けられたことと、クラスメイトたちの話題が日野に集中したことだった。


「日野、マジで死んじまったな」


 そんな声があちこちで聞かれ、その度にみんな曖昧に笑った。日野が死んであからさまに喜ぶような生徒はいなかったが、ことさら悲しむ生徒もいなかった。今週の数学はどうなるのか――そんな現実的な憂いを口にする生徒も少なくなかった。


 おかげで、ぼくは後ろめたい気持ちにならずに済んだ。

 それどころか、おかしな優越感に包まれていた。

 ぼくと水城叶愛の他に日野の本性を知る者はいないのだ、と。

 それが、ただ秘密を独占していることに対する優越感なのか、水城叶愛と秘密を共有できていることに対する優越感なのかは解らなかった。解らなかったが、ぼくの心が以前の自分とは違う何かになりつつあるという実感を強く感じていた。


「あれ……?」


 放課後、異様な昂りを覚えたまま、いつもの河川敷に向かうと、そこに水城叶愛の姿はなかった。それどころか、二匹の猫の死骸まで消えてなくなっていた。高架下をふき抜ける風は、ひょうひょうと虚しい音を鳴らしていた。

 呆然と立ち尽くしているうちに怒りがこみ上げてくるのを感じた。猫の死骸が見つかれば撤去されるのは至極当然のことだ。それなのに腹が立って仕方がなかった。以前、道枝たちに蹴られた鳩尾がふいに疼きだした。ぼくは落書き塗れの橋脚に、思いきり拳を叩きつけた。皮膚が裂けた。何にこんなに憤慨しているのか、自分でもよく解らなかった。

 怒りが静まるまでの間、水城叶愛を待ち続けた。ところが、ついに彼女は現れなかった。

 その日はもう帰ることにした。適当に写真を撮る気力もなかった。いつの間にか、死体以外のものに、すっかり魅力を感じなくなっていた。


「……ただいま」


 家に帰っても、やりたいことは何もなく、父も母も仕事中で家にはぼく独りしかいなかった。

 死体の写真は自室のパソコンに取り込んであるが、万が一がないように、両親がいる間は見ないようにしていた。いまは鑑賞するのに、うってつけの状況だった。

 けれど、ぼくはリビングのソファに身を投げ出した。いまは死体の写真を眺めても虚しい思いをするだけだと解っていたからだ。


 いまのぼくに必要なのは気分転換だ。普段は食事中にしか観ないテレビを点けてみた。地方のアナウンサーが至福の表情でスイーツを頬張っているところだった。興味なし。チャンネルを変えた。スイーツだった。またチャンネルを変えてみたが、そこもスイーツだった。どこもかしこもスイーツばかり。テレビ業界のスイーツ汚染が深刻だった。

 NHKでは幼児向けのアニメがやっていた。なんとなくそのまま眺めていると、デフォルメされた恐竜が脈絡もなく突然うたって踊りだした。得も言われぬ不安がこみ上げてきて、結局、テレビを消した。


「はぁ……」


 ソファに寝転がってスマホを見た。以前なら、こういう時は廃墟スポットを探していたが、もう撮らないのだから必要なかった。

 適当にネットニュースを眺めることにした。政治家の裏金問題、海外の戦争の趨勢、インバウンドの効果、芸能人や政治家の不倫――どれもこれも興味のないものばかりで、次第に瞼が重くなってきた。もうこのまま寝てしまおうかと思った矢先、その記事が目に飛び込んできた。


『【急展開】死亡した教師宅からスマホ 廃校で発見された高校生のものか』


 ぼくは鞭で打たれたかのように飛び起きて、ニュースの見出しを読み返した。

 死亡した教師。スマホ。廃校。高校生。

 心臓が鼓膜へ近づいているみたいに、ドッドッと脈を打つ音が大きくなってゆく。

 関係ない。関係あるはずがない。

 そう思いつつも無視はできない。恐るおそる記事をタップする。一瞬、画面が真っ白になったかと思うと、いきなり文面が表示された。




『O市の廃校で女子高生の変死体が見つかった事件に進展が見られた。


 本件は9月1日、O市山中にある廃校でE市内の高校に通うさん(17)が首を絞められるなどして殺害された事件で――(中略)――折原さんのスマートフォンの行方がわからなくなっていた。


 ところが今朝、死亡しているのが発見されたさん(29)のアパートで、警察が室内を調査していたところ、折原さんのものと思われるスマートフォンが見つかった――』




 ぼくは熱いものを投げ出すみたいに、ソファの上にスマホを放った。無意識に止めていた息をブハッと吐きだし、ひたいを押さえて、きつく目をつむった。疑問符が泡のように現れては消え、現れては消え、やがて渦を巻き始めて、気分が悪くなってきた。


 わけがわからない。

 どうして日野の家で、折原おりはら寧子ねいこのスマホが見つかるんだ?


 女子高生の折原寧子と、少女たちを餌食にしていた日野との間に接点があった可能性は否定できない。しかし日野は強姦魔ではあっても殺人鬼ではなかったはずだ。それとも、ぼくがそう思い込んでいただけなのか? 日野は、最初から強姦魔でありながら殺人鬼でもあったのか?


 その時、ふと水城叶愛はこのことを知っていたのだろうかと疑問に思った。

 それは、ほとんど同時に、ぼくにある閃きをもたらした。


「まさか……」


 一度は身を起こしたソファに、ぼくはふたたび倒れこんだ。両肩を抱くようにして小刻みに震えながら。

 あり得ないあり得ない――と、ぼくの自分の推測を否定した。しかし、そうやって否定すればするほど、ぼくは丸まり小さくなってゆくのだった。

 いくら蛹のように縮こまっていても震えの波は去ってくれず、ぼくの瞼の裏側には、断続的にひらめく稲光のように、死体の眠るアパートで微笑む水城叶愛のすがたが明滅していた。


 彼女は、日野を脅してコントロールしていた。

 そして、自殺にまで追いやった。

 そこまでのことができたなら――、


「人を殺させることだって、できたんじゃないのか……?」

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