第11話 疑念

 待ち合わせ場所は、いつもの河川敷だった。

 高架が落とす影の中に水城みずき叶愛とあのすがたを認めたぼくは、こめかみに流れる汗を肩でぬぐい、喘ぐような吐息をつきながら彼女のもとへ近づいて行った。


「灼熱地獄……」


 連日の猛暑。地球温暖化の影響が深刻だ。今月中は、熱中症警戒アラートが発表されていない日を見たことがなかった。

 家にいても冷房の涼気が相殺されるような暑さだが、この辺りは特に殺人的だった。近くに河川が流れているだけあって、空気はたっぷりと湿気を含んで重く、肌にまとわりついて離れてくれなかった。

 さすがの水城叶愛も珍しくぐったりした様子で、ペットボトルをしきりに呷っていた。


「お待たせ。暑さヤバいね」

「イカロスもびっくりの灼熱」


 暑さでおかしくなっているのか、解るような解らないような返事がかえってきた。あるいは単に何も考えていないのか。彼女の目はひどく虚ろだった。


「蝋の翼じゃなくても融けそうだ」


 一応、相手の調子に合わせて返事をすると、水城叶愛は満足した様子で、ぼくを見返した。


「早めに済ませちゃおう。臭いがし始めたら大変だしね」


 彼女は普段よりだらしなく笑うと、さっそく歩き出した。暑さに参って、珍しく猫背になっていた。首の後ろではフードが揺れている。

 いつもの制服姿ではなく私服だ。黒の半袖パーカーに桜色のフリルスカートという出で立ちである。この猛烈な日射しの下で黒のパーカーとは希死念慮にでも囚われているのかもしれない。ぼくは彼女のことが少し心配になった。

 とはいえ、かく言うぼくも紺のポロシャツにチノパンだ。正気ではない。ファッションに興味はなくとも、季節感にくらいは気を配るべきだと今さら学習させられた。


 ふたりして暑いあついと呻きつつ、自販機を見つければ飛びつき、清涼飲料水を浴びるように飲んで歩いた。

 目的地までは二十分ほどだった。古民家風のカフェやカラオケボックス、謎めいた看板の連なる商業ビルなんかがひしめく雑多な通りから、ひとつ脇道へ逸れたところに、それはあった。


 何の変哲もないアパートだ。玄関側には屋根付きの駐輪場があって、ママチャリのカゴの中では猫が寝ていた。

 猫を見て水城叶愛が足を止めたので、ぼくは身構えた。さいわい彼女の視線はすぐに猫を離れた。


「あそこだよ」


 と彼女が指し示した先には、隣家の塀しか見て取れなかった。近づいてみても、アパートと塀との間に、かろうじて人が通れそうな隙間があるだけだ。

 まさか、あの隙間の奥になにか倒れているのだろうか。だとしたら、今回は殺害の一部始終を見なくても済みそうだ。そう思うと気が楽だった。


「ちょっと待ってね……」


 ところが、一番奥のドアの前で水城叶愛は足を止めてしまった。背負っていたリュックを下ろし中身をあさり始める。


「何してるの?」

「ん、これ。一応ね」


 と、なんの説明もなく押しつけられた。

 軍手とマスク、それにビニールの――シャワーハット?


「なにこれ……?」


 わけが分からず当惑するぼくに、水城叶愛は宥めるような笑みで応じた。


「念のためだよ。指紋、唾液、毛髪……証拠は残さない方がいいでしょ」

「指紋? 証拠?」

「言ったでしょ、だって」


 水城叶愛は、ぼくに渡したのと同じ物をみずから身に着けながら言った。

 たちまち全身の血液が鉛のように重くなってゆくのを感じた。ポロシャツの黒ずみから急速に熱が引いていった。


 を殺したのか……?


 ぼくの目は、傍らのドアと水城叶愛の横顔とを忙しなく往復した。彼女の顔つきは涼しげで、とても人を殺したようには見えなかった。

 けれど、そこに余裕を見て取るほどに、却って確信は強まってゆくようだった。

 このまま一緒にいていいのか、と今更ながら警戒心が湧き上がった。

 一方で、長らく眠りについていた心の炉が息を吹き返すのを感じもした。

 それは廃校で出会った死体かのじょ――折原おりはら寧子ねいこを写真におさめた際の昂りだった。


「撮りたいでしょ?」


 水城叶愛の唇が誘惑の音色を奏でた。

 それでも、ぼくにはまだ逡巡があった。

 彼女はぼくの決断を待たなかった。さっさと先に行こうとした。

 ぼくは慌てて身支度を整えた。


 水城叶愛はドアレバーに手をかけると、ぼくを見てゆっくりと頷いた。

 ぼくは生唾を呑み込んで改めて自問した。

 本当にこの先に行ってしまっていいのか、と。

 彼女の頷きは、ほんの合図に過ぎなかった。またしても、ぼくの了解など待たずに、すんなりとドアを開けてしまったのだ。ドアに鍵はかかっていなかった。

 なぜ? 解らなかった。彼女がドアの向こうに行ってしまうと、ぼくもドアの間に体を滑りこませざるを得なかった。


 とたんに、こもった熱がむっと押し寄せてきた。

 中はうす暗く、ドアが閉まると闇はいっそう深さを増した。


 水城叶愛は放るように靴を脱いで、あたかも自分の家であるかのように廊下を進んでいった。ぼくは律儀に脱いだ靴をそろえ一足遅れてリビングに踏み入った。

 閉じたカーテンの隙間からは一条の光が射していた。家具や調度品の輪郭がおぼろげに浮き上がっている。特筆すべきものは特に見当たらない。骸の影など、どこにもなかった。


 それでも、はっきりと解った。

 ここに死体がある、と。

 耳元で唸る羽音が、ところ構わず突進してくる黒々とした虫の残影が、それを物語っている。いや、それよりも。ここはひどい悪臭に満ちている。


 水城叶愛が、そっとぼくの腕に触れてきた。

 闇よりなお濃い真っ黒な瞳を、ぼくは見返した。

 彼女の目が愉悦の形に細められた。


「あそこだよ」


 闇に沁みるような囁きとともに、水城叶愛は、それを指し示した。

 壁面に備えつけられたクローゼット。その中にはハンガーに吊るされた衣服が並んでいて――。


「わ、ッ」


 衣服の間にぶら下がったものを見て、ぼくはたまらず息を止めた。


「電気つけるよー」


 水城叶愛が暢気そうに言って照明を点けた。

 部屋がパッと明るくなった。眩しさで、すぐには状況が解らなかった。

 けれど、次第に目が慣れてくると、クローゼットの中にぶら下がっているのが首を吊った死体だとはっきり解った。

 胃が、ぎゅっと縮こまるのを感じた。

 いまさら人の死体を前にして怖じ気づいたわけではなかった。


 ぼくは、その死体をのだ。


 顔面は赤くパンパンに腫れ上がっているし、眼球は飛び出さんばかり、舌は根元まで露出しているんじゃないかと思うほど長くながく垂れさがっている。それでも、わずかに面影が残っている。

 恐るおそる隣の水城叶愛を見る。

 そして、擦れた声でこう訊ねた。


「……どうして、がここにいるんだ?」

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