第10話 熱源
「……殺したくなんてない」
それが
本心かどうかは定かではなかった。頭の中は白く染まったままで考えるのが怖かったのだ。だから、ぼくは別れの一言も告げずに、彼女の前から逃げだしたのだった。
――今日は九月二七日。あれから、およそ三週間が経っていた。
「うっ、ぐ……」
ぼくは口中の砂を吐き捨て、うずく脇腹を押さえながら、今はどうだろうと考えている。
五つの人影がぼくを見下ろしている。その後ろからは血のように赤い夕日が射していて、どの影も表情は見えない。しかし中央の影の瞳だけは鈍く光っているように感じられた。その影の頭部は、マッシュルームのように丸っこかった。
「なんだぁ、その目」
マッシュルームの影――道枝が凄んだ。
こんな事態になってから、もう数十分は経っているはずだ。けれど、誰か助けがやってくる気配は一向に感じられない。
ここは四方を住宅に囲まれた公園――その隅に設けられた砂場だ。隣に建った東屋や伸び放題の雑草、それに公園をとり囲む樹木が重なり合って、ぼくらの姿はすっぽりと隠されてしまっていた。
「文句あんのか? 言いたいことあんなら言ってみろよ」
髪を摑まれ、無理やり顔を上げさせられた。頭皮がぴんと張りつめて鋭く痛んだ。
そんな状況にもかかわらず、さほど恐ろしくはなかった。むしろ、道枝の頭の形は亀頭のようだと滑稽にさえ感じていた。
ところが、それは間もなく憎しみに塗り潰された。相手を取るに足らない小物だと思えば思うほど、苛立ちがチリチリと頭の中に増殖していった。
「……ないよ」
だから、つい吐き捨てるような口調になった。
無論、それは相手の怒りを買った。
ぼくを突き飛ばした道枝は、顎をしゃくって取り巻きたちをけしかけてきたのである。
「う、ッ! ぐ、ふ……!」
無数の爪先が、ぼくの体にめり込んだ。
痛い、痛い、痛い――。
けれど、手加減されていると解った。本気で蹴飛ばしたら殺してしまうんじゃないか。そんな恐れが伝わってくるような気がした。
それが、ますますぼくを苛立たせた。
こいつらは本当に恐ろしい人間というものを知らないのだ。自分より上の存在がいることを理解していないのだ。
でも、ぼくは違う。ぼくは知っている。
躊躇うどころか嬉々として命を摘み取る水城叶愛という死神を。
思い知らせてやりたいと思った。
その時、視界の端に光るものが見えた。
襲いくる蹴りの
それは砂の中から僅かに顔をだしていた。
ガラス片だ。
ぼくは、その威力を想像した。
水城叶愛との会話を反芻しながら。
人を殺せるのは何者か?
サイコパスのような〝特別〟か?
それとも〝普通〟の人間か?
もしも、〝普通〟のほうに人殺しの素質があるのなら、ぼくにできない理由はない。それを成し遂げる力が、あれだ。あとは一歩。ハードルを越える一歩さえあればいい。
ぼくは、さらに狂気の深みへと潜ってゆく。
道枝を殺して、罪悪感を抱く必要なんてどこにある?
月山は、道枝の犠牲になった。何かの拍子に、ぼくがターゲットでなくなったとしても、また別の誰かが犠牲になるだけなのだ。
そんな人間が社会の何に役立つ?
生かしておく価値なんてどこにある?
そもそも、こいつは人間なのか?
違う。
これはクズだ。社会に害をなす虫けらだ。
そんな奴は殺してしまった方がいい。
「う、わぁ……ッ!」
ひたいを蹴られて、目の前がかすんだ。
ぼくは光のほうに手を伸ばした。
指先にちくりと痛みが走った。ぼくは構わずそれを摑んだ。今度は鋭い痛みが手中を裂いた。痛みは激しい熱と化して、理性を燃やした。
「こらーッ!」
その時、どこからか声がして、ぴたりと暴力が止んだ。
ぼくもハッと我に返って、振り上げようとした手を止めた。
「あんたたち何してんのぉ!」
続けざまに女性の怒鳴り声がひびき渡った。
「ヤッベッ!」
道枝たちは、弾かれたように公園から逃げ出していった。
「わぁ……っ!」
独りのこされたぼくは、熱いものを投げ出すようにガラス片を放った。こんなものを持っているところを見られるのはまずいと思った。だが、それよりも何よりも否定したかったのは、道枝を殺すつもりでいた自分自身だった。
理性を焼いた熱源は、いまや悪寒に変わっていた。指先から滲みでた血液が、一滴のこらず砂の中に吸い尽くされてゆく心地がした。
違う、ちがう。
ぼくは、殺そうとなんて――。
砂に顔を埋めるように、ひたすら頭を振った。
そこに、ぷんときつい香水の匂いがした。
顔を上げるのと同時に、頭にぽんと手を置かれた。
「だいじょーぶ?」
「水城さん……?」
目の前に水城叶愛がいた。その口元には微笑が浮かんでいた。普段と同じ見慣れた表情のはずなのに、今はとても優しげに感じられた。
「ミッチーたち、もう行っちゃったねー。ちょっと大きな声だしてみただけなのに」
嘲るような口調で言った、彼女の姿は頼もしかった。
道枝たちを追い払ってくれたこと以上に、ぼくの凶行を阻止してくれたことに、ぼくは感謝していた。
「ところで、明日は土曜だね」
早くも水城叶愛の関心は、道枝たちから離れようだった。ぼくを気遣ったのも最初だけで、彼女はさっと立ち上がると背を向けてしまった。手くらい差し伸べてくれても――と思いつつ、ぼくは自力で立ち上がった。
「用事ある?」
「え、べつにないけど」
ぼくは服についた砂を払いながら、水城叶愛に問いかけるような目を向けた。
すると、彼女は小首を傾げて、こう言った。
「実は、面白いもの見つけちゃったんだよね」
なにを、と口にしかけて呑みこんだ。
香水の匂いの中に、死臭のようなものを感じ取ったからだった。
それが本当の臭いなのか、錯覚なのかは解らなかった。
どちらでも構わなかった。
前のめりに、ぼくは答えた。
「興味ある」
期待に胸が膨らんでゆくのを感じた。
水城叶愛に面白いと言わせる被写体とはなんだろう、次はどんな写真を撮れるだろう、と。
虫けらどもから受けた苦痛も、自分の本性を垣間見てしまった恐怖も忘れて。
ぼくの意識は想像の中へと飛翔をはじめた。
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