第9話 理由

 九月五日、昼休み。


 トイレの個室の外では、男子たちが下品な話題で盛り上がっていた。クラスメイトの誰が一番おおきな胸をしているかとか、大人のアソコの平均の長さがどうとか――。

 普段のぼくなら軽蔑して顔をしかめるところだ。しかし今、そんなことに構っている余裕はない。生ぬるい便座の上で、ぼくは独りごちる。


「できるわけない……殺すなんて」


 昨日の水城みずき叶愛とあとのやり取りが、耳の奥にこびりついて離れてくれなかった。午前中の授業は、おかげでちっとも集中できなくて、日野にホワイトボードの問題を解くよう求められても、うまく答えられなかった。その後、ぼそりと嫌みのような言葉を言われた気もしたが、それも聞こえなかった。どうでもよかった。


『あんがい殺人を犯す素質って〝普通〟の人の方にあるのかもしれないよね』


 猫を轢き殺す前のぼくなら、むしろあの言葉に勇気づけられたかもしれない。

 だが今、あの言葉は、ぼくという存在を揺るがす脅威だ。貧乏ゆすりが止まらない。そのせいで時折、便座がカタカタと音をたてる。

 その音は次第に地面を掻きむしる音へと変わってゆく。猫が咆哮する。泡を吹く。嬉々として命を奪う水城叶愛の姿が、自分自身の姿へと変貌する――そこにチャイムの音が重なった。


「ヤバッ」


 突然、現実へと引き戻されて、ぼくは個室をとび出した。

 すると、トイレにたむろしていた連中が一斉にぼくへと振り向いた。そのほとんどは、すぐに興味を失くしたようだった。

 ところが、その中に一人だけ、ぼくに冷たい視線を投げつづける生徒がいた。

 ニキビをぽりぽりと掻くマッシュルームヘアーの人物――道枝だった。

 目が合った途端、道枝は喜色をあらわにした。


 まずい。


 昨日の一件が脳裏を過ぎった。

 冷たい汗が背筋に伝った。

 ぼくは目を伏せてドアに直行した。


「おーっとぉ?」


 案の定、道枝は、ぼくを見逃してはくれなかった。行く手を阻まれて、ぼくは相手の胸にひたいをぶつけた。その瞬間、今まで動いていたのが嘘のように、両足が固まってぴくりともしなくなる。耳元で、甘ったるい声がする。


「塚地くぅん、ダメじゃん。ちゃんと手くらい洗わないとさ」


 ぼくは頭を摑まれて、無理やり道枝のほうを向かされた。

 道枝はニヤニヤと笑っていた。

 周りの連中は、互いに目配せし合って様子を窺っていた。けれど、道枝と目を見交わすと何かを了解したように笑った。


「ほら、早くしないとぉ」


 道枝が蛇口をひねった。

 たったそれだけのことで、足下から無数の針が立ち昇ってくるような恐怖を覚えた。水を満たした洗面台に頭を突っ込まれる――そんなイメージが、頭の中を埋めつくしていった。


「うわっ!」


 次の瞬間、ぼくは顔面に大量の水を浴びていた。

 道枝が蛇口を手のひらで塞ぎ、流水をカッターのように鋭くほとばしらせたのだ。

 呆然と立ち尽くすぼくを、道枝たちはケラケラと嘲笑った。

 ぼくは濡れた顔面を袖で拭って、ゆっくりと床を見下ろした。前髪からしたたった水滴が、濡れた床をさらに汚した。

 道枝たちは、俺にも水がかかったとか何とか楽しげに悪態をつきながら、さっさとトイレから出て行った。


「……」


 独り残されたぼくは蛇口に栓をした。

 目を上げると、ずぶ濡れになったぼくが鏡に映りこんでいた。濡れた前髪が額にはり付いて、あごの先に溜まった水滴がポタポタと滴り落ちてゆく。髪をしぼり、ハンカチで拭った。ハンカチはすぐにびしょ濡れになって、前髪はおかしな具合に固まってしまった。胸の周りには水のしみこんだ黒っぽいシミが残った。


 これだけ?


 拍子抜けして、ぼくは嗤った。道枝たちをくだらない連中だと嗤った。

 目の前で猫を絞め殺した水城叶愛のことを思い出すと、しょうもない連中だとしか思えなかった。

 なのに、ぼくの心境は穏やかではなかった。じめじめとした感触は、頭から胸元にまで下りてきて、その場に居座り続けた。道枝たちを下に見れば見るほど不快感は増していった。


 教室に戻ると、クラスメイトから突き刺さるような視線を一斉に浴びせかけられた。

 濡れねずみのぼくを見て、教師は目を見開いた。どうしたと訊ねる声には、ぼくを慮る意思が滲んで感じられた。

 一瞬、ぼくは全てを打ち明けてしまおうかと考えた。

 けれど、道枝の視線を感じると、言葉は腹の底にまで落ちて、もう上がってきてはくれなかった。


「……遅れました、すみません」


 結局、それだけ口にして、そそくさと教壇の前を横切った。

 席につく直前、水城叶愛と目が合った。

 こんな姿を見られたくない。

 そう思う一方で、優しい彼女なら同情してくれるのだろうなとも思った。

 ところが、彼女の透き通るような目は、すぐにノートの上へと戻っていった。

 ドンと胸を殴られたような心地がした。

 ぼくはその場に立ち尽くしてしまった。


「どうした塚地? やっぱり何かあったのか?」


 教師の声で我に返った。

 なんでもありません、と席に着いた。

 ふいに自虐的な笑みが零れた。

 ぼくはバカだ。とんだ思い違いをしていた。

 いつの間にか、ぼくは水城叶愛を友達だと誤解していたのだった。




――




 放課後、カメラを手に河川敷を訪れると水城叶愛が待っていた。

 彼女はぼくの姿を認めるなり笑顔になって、ぶんぶんと手を振ってきた。学校での態度が嘘のようだった。

 けれど、あれも仕方なかったのだと今ならば思えた。

 学校は小さな村に似ている。良し悪しを問わず、噂がもち上がればすぐに広まってしまうのだ。ぼくのような底辺の冴えない男子と仲良くしているところを見られたら、水城叶愛の立場が危うくなるのは目に見えている。ぼくの立場だって、さらに悪くなる恐れがあった。


 いまの関係が最善なのだ。

 ぼくは水城叶愛に手をふり返した。

 学校で友達のように振る舞うことができなくても、ぼくらには、この時間があった。

 ぼくらは、放課後の撮影会を共有できているのだ。


「ほら、ここ座んなー」


 水城叶愛が開けてくれた場所に屈んで、ぼくは昨日より無惨に荒れ果てた死骸を見下ろした。口や鼻をびっしりとウジに覆われた、それはそれはひどい眺めだった。後足や臀部のあたりには、カラスに啄まれた痕があり、そこにもウジが群がっていた。


 ぼくは陶然としながらカメラを構えた。

 惨たらしい刹那を丁寧に切り取っていった。


 胃がひりつくような凄惨さ。

 諸行無常の寛容さ。

 死骸は音もなく、緩慢に消えてゆく。


「――運が悪かったよねぇ、この子たち」


 水城叶愛の声がすると、ぼくはファインダーから顔を上げた。

 哀れむような言葉とは裏腹に、二匹の死骸を見下ろす彼女の口元には微笑が浮かんでいた。


「片方は事故で、もう片方は私と出会ったばかりに死んじゃった」


 殺したとは言わなかった。まるで己の意思の及ばぬ力が、猫の命を奪っていったかのような口ぶりだった。恍惚と猫を絞めていたように見えたが、彼女には彼女なりの罪悪感があるのかもしれなかった。


「カワイソウだよね」

「うん」

「でも仮にさ、ここに横たわってるのが、どうしようもないクズだったら? こんな風には思わないんだろうね。死刑囚に刑が執行されたら、人権がどうこうって言う人もいるけど、大半の人たちは、むしろ胸をなで下ろしてるんじゃないかな」


 同意を求めるように、水城叶愛がぼくを見る。

 なぜか胸を鷲摑みにされるような心地がした。


「この世の中には、死を望まれない命と、そうでない命がある」

「……」

「ミッチーのは、どっちの命かな?」


 問いかけられた瞬間、鷲摑みにされた心臓が悲鳴をあげた。

 ミッチーというのは道枝のあだ名だった。

 意表を衝かれたぼくの頭は真っ白になっていた。

 水城叶愛は、畳みかけるように言葉を重ねた。


「失われていい命なんてない。みんなそう言うよね。でも、理由を訊ねられると上手く答えられない。どうしてか。人が死んじゃいけない理由を説明できないから? 違う。みんな一度はからだよ」


 頭の中の空白に、鏡に映った自分自身の姿がフラッシュバックする。

 前髪から滴る雫。

 胸元のシミに、透けたシャツ。

 殴られ痛めつけられたわけでもない、なのに惨めな、あの姿――。


「だからね、キミは間違ってないんだよ」


 水城叶愛の吐息が、ぼくの耳朶じだにかかる。

 快楽のような、安堵のような感覚が胸に込み上げる。


「ミッチーのこと、殺したいんだよね?」

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