第33話 友達
ぼくは足下のゴミを投げつけるのと同時に、床を蹴った。
「はは! ノーコン!」
ぼくは後ろに溜めた拳を思い切り振りかぶる。
いつか彼女が教えてくれたテクニックだ。相手を非人間化することで、人は罪の意識を軽く感じる――。
「い、ッ……!」
水城叶愛はピンとロープを張って、ぼくの拳を受けた。拳が逸れて、指の皮がずるりと剝けた。
そこにローキックが飛んできた。太腿に鈍い痛みが走った。
奥歯を嚙みしめ痛みに耐えた。そして大きく前へと踏みこんだ。相手の股に自分の足をさし込み、すかさず、それを手前に引き寄せた。
「わぁ!」
水城叶愛は呆気なく足を掬われ、体勢を崩した。ところが、素早くロープを放り、ぼくの襟首に摑みかかってきた。ぼくは彼女に巻き込まれる形で倒れこんだ。
「はは!」
水城叶愛は後頭部を床に打ち付けても怯まなかった。何度もぼくの側頭部を殴りつけてきた。
だが、大した威力はなかった。
ぼくは彼女の手首を摑んで床に押さえつけた。
「カっ……!」
その時、肺の空気を吐きだされ、視界がぐらりと揺れた。脇腹を膝でえぐられたような鋭い一撃だった。水城叶愛は手応えを得たのか、続けざまに二発三発と膝蹴りを叩き込んできた。
このままでは逃げられる。
ぼくはとっさに拳を振り下ろした。
「大人しく、しろっ……!」
拳は彼女の頬を打ち、唇をぱっくりと割った。鮮烈な赤い傷口は、ぼくを怯ませた。だが、ここで退くわけにはいかない。ぼくはぼく自身に
こんな化け物が生きていても世の中のためになんかならない。
水城叶愛は抵抗を続けたが、ぼくは相手の意思を砕くために何度も拳を振り下ろした。殴るたびに、自分の心まで砕けてゆくような思いを味わいながら。
ぼくは彼女のようにはなれなかった。
折原寧子の真相を追究していた時の冷静なぼくは、早くも姿を
「グエ……ェ!」
突然、水城叶愛の細い喉から潰れたカエルのような声が上がった。
いつの間にか、ぼくの両手が彼女の首を絞めつけていた。
指先に相手の脈を感じて、ひび割れた心から血が噴き上がった。
たまらず手を放してしまいそうになる。指先から感覚が失せ、体温が零れ落ちてゆく。
このままじゃ殺せない。
とっさに両親の笑顔を思い描いた。
怯える月山の様子を思い出した。
嬉々として折原寧子を蹂躙する、水城叶愛の姿を想像した。
萎えかけた指先に、微かに熱が蘇った。
「ウゥ、ア、ぁ……ッ!」
水城叶愛は、ぼくの腕を遮二無二かきむしった。もはや余裕の笑みもなく、ただただ苦悶に顔を歪めながら。
肌が裂ける痛みよりも、心が裂ける痛みの方がずっと耐え難かった。それでも耐えなければならなかった。
ぼくは己を強いてぐっと身を乗りだした。ぼくの体重が首を圧し潰し、彼女の体が弓なりに反りかえった。赤黒く変色した両目からだらだらと涙があふれ出て、血を含んだ粘ついた唾液がどくどくとゴミの上に注がれていった。
「頼むっ、はやく! はやく、死んでくれ……ェ!」
ぼくは水城叶愛に懇願した。
あるいは神にだろうか。
解放されたかった。この苦しみから。
涙があふれて止まらなかった。
彼女の死を肯定する理由を探した。そんなもの、いくらでも見つかった。
それなのに、彼女と過ごした思い出ばかりが、ぼくの胸を焼いてゆく。
放課後が待ち遠しかった。
河川敷に彼女の姿を見つけると嬉しかった。
学校で目を背けられた時は悲しく。
仲が良かったと言った月山に嫉妬した。
この期に及んで、ぼくは自分の本心に気付いた。
ぼくらの辞書はさほど違ってはいなかった。
水城叶愛が、ぼくと友達になろうとしたように。
ぼくも彼女と友達になりたがっていたのだ――。
「ゲホッ! ゴホッ、ガッ、ボ……ォ!」
気付けば、水城叶愛が反りかえりながら咳きこんでいた。
ぼくはついに手を放してしまったのだ。
「ごめん」
彼女は涙を流し、えずき、ついには嘔吐した。ぼくは彼女が窒息してしまわないように体の向きを変えてやり、顔面にかかった吐瀉物をTシャツの裾で拭ってやった。
残りを吐きだす背中を見つめながら、なにをしているんだろうと思った。彼女を生かすということは、彼女に殺されることを意味していた。ぼくの両親の命さえ危うくさせることだった。
「できない……。ぼくは、きみを殺したくない」
水城叶愛は起き上がろうとして、吐瀉物の上にぐしゃりと崩れ落ちた。一瞬、死んでしまったのかと思ったが、彼女はゼェゼェと呼吸を繰り返していた。
外が光り、雷鳴がした。また外が明滅し、やがて遠雷の音が聞こえた。
彼女はゴミの上を転がって仰向けになり、充血した目でぼくを一瞥して、どこでもないどこかを睨み付けた。
「……バカなの」
「そうかも」
「言ったよね。中途半端ならいらないって」
水城叶愛は目元を腕で覆った。
ぼくは彼女から離れて壁にもたれかかった。
雨音だけがしていた。
やがて、疲れ果てたように彼女が言った。
「どいつもこいつも、みーんな中途半端」
「みんな?」
「表では善良なフリしながら、裏では悪いことばっかしてる。悪いことしてる連中を仕方ないって放置してる。なのに、罪悪感とか良心の呵責なんかに苦しんだりする」
「……そうだね」
腕の覆いを払って、水城叶愛がぼくを見た。ぼくも彼女を見返した。
初めて見る顔がそこにあった。不安をあらわにした子どものような。
ああ――ぼくは思った。薄笑いの仮面の下に、こんなか弱い素顔が隠されていたんだ、と。
そこに、ねぇ、と水城叶愛の声がした。
「どうして、私のこと殺さなかったの?」
「うまく言えない。ただ殺したくなかった。たぶん人を殺すのが無理なんじゃなくて、きみを殺すが無理だと思った」
「全然わかんない。このわけ分かんない家を見て同情でもしたわけ?」
「悲しくはなった。きみの生い立ちが、ちょっと見えた気がして」
水城叶愛はあからさまに軽蔑した眼でぼくを睨んだ。
「見えるわけでしょ。誰にも見えないから、こんなになってるんだもん」
「ごめん」
項垂れるしかなかった。水城叶愛の人生を想像したら。
これまで、ぼくは水城叶愛という少女を特別視してきた。ぼくの中の彼女は、悲しみや苦しみとは無縁の存在だった。しかし、それは違った。見えないだけで、あるいは真剣に見ようとしてこなかっただけで、彼女にもきっと脆くて弱い心があるのだ。
ぼくは、その心に触れてみたいと思った。そのためには、彼女と言葉を交わす必要があった。
「……そういえば、月山くんに会ったよ」
「ふうん」
気のない返事ではあったけれど、拒絶されたわけではないようだった。彼女の目は、ぼくを見ていた。
「月山くんに協力してもらって、いろいろ調べたんだ。どんな人が悪いことに手を染めるのかとか、サイコパスってどんな人なのかとか」
「それで、なにか解ったの?」
「きみが生まれついての悪とは限らないんじゃないかって感じた」
「どうして?」
「前に言ってたよね。すべてのサイコパスが犯罪をおかすわけじゃないって」
水城叶愛はよろよろ起き上がると、ぼくと同じように壁にもたれかかった。そして、わずかに顎をひいてみせた。ぼくはそれを首肯と解釈した。
「昔はサイコパスみたいな生まれついた特性が、その人のパーソナリティを決定づけるって考えが主流だったんだってね」
「生物学的運命決定論ね」
「でも、いまは違う。生物学的特性や環境との相互作用が、その人のパーソナリティを形作るって考えが主流なんだ。サイコパスも例外じゃない。向社会的な環境では犯罪をおかさずに生活できる可能性が高まるし、反社会的な環境では犯罪をおかすリスクが高まるって具合に」
「この家で育ったから、私はこうなったって言いたいの?」
「そうとも言えるけど、きみが最初から悪人だったって、ぼくが信じたくないみたいな感じかな」
そう、と水城叶愛は天を仰いだ。
それから暫くの間、またトコトコと窓をたたく雨音だけがしていた。
「……実はさ」
ふいに水城叶愛が口を開いた。
彼女の目は虚空に向けられ、どこか遠くを見つめていた。
「……私が人を殺したのって、
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