第34話 終幕

 不思議と驚きはなかった。妙に腑に落ちるような感じさえした。

 水城叶愛は、雨の音に熱心に聴き入るかのように目を細め、やがて過去の殺人について語りだした。


「十歳くらいの頃かな。弟を殺したんだ。べつに殺すつもりはなかったんだけど、好奇心っていうか……」

「好奇心」

「えっと、弟はまだ産まれたばっかりの赤ちゃんで、なんかエイリアンみたいだったの。頭の形が。知ってるでしょ? リドリー・スコットが監督の」

「わかるよ」

「要するに同じ人間に思えなかったの。だから実験してみようと思って。私と同じように痛みを感じるかの実験ね。そしたら、ビィビィ泣きだしちゃうじゃん。私焦っちゃって。泣かせたのバレたらヤバい、親になにされるかわかんない。そう思って、黙らせなきゃって、弟の口を塞いだの。で、気付いたら動かなくなってた」


 人を殺した物語のはずなのに、水城叶愛の口調はじつに淡々としていた。まるで、つまらない絵本を読み上げているかのようだった。けれど、ぼくの脳裏に浮かび上がってくるのは、不感症じみて表情を失った痛々しい子どもの姿だった。


「その後、どうなったの?」


 続きを促すと、彼女は嘲るような短い笑いのあと、なにもなかったと答えた。


「え、警察は?」

「来なかった。誰も通報しなかったから。弟の死体を見ても、うちの親は、私を叱るどころか事情を訊ねもしなかった。面倒そうに溜息ついただけ。夜中、父親が弟を抱えて出ていってね、それでおしまい」


 おしまい?

 ぼくは絶句した。そんな家庭があり得るのか。

 こちらの戸惑いなどお構いなしに、彼女はなおも淡々と言葉を紡いだ。


「とにかく、何も起きなかった。ラッキーって思った。でも、さすがに私だって、これでいいのかなって思ったんだよ。弟は死んだ。私が殺した。なのに何もないなんて、腑に落ちなくて。答えを探すつもりで本を読みだした。図書館に通った。すぐに本の虫になったよ。結局、答えは見つからなかったけど。でも、べつの収穫があったんだ。私と同じような人がたくさんいるのを知ったの。みーんな犯罪者」


 水城叶愛のまなじりが光った。雫が頬を流れ落ちていった。遠くで雷の音がした。


「アンドレイ・チカチーロやジェフリー・ダーマーの生い立ちを知った時は、涙が止まらなくなったなぁ。弟を殺した時は一滴もでなかったのに」


 ひどいよね、と彼女は声を震わせた。

 月山と交流する中で、ぼくは有名な犯罪者たちのことも知った。

 アンドレイ・チカチーロも、ジェフリー・ダーマーも、近代犯罪史に名をのこす連続殺人犯だ。彼らは殺人の他にも、強姦、死体損壊、カニバリズム――など、数え挙げるのも億劫になるほどの凶行に手を染めたことで知られている。


 一方で、彼らは悲惨な境遇のもとで育った。


 ジェフリー・ダーマーは、仕事優先で家庭を顧みない父と薬物依存で情緒不安定な母という両親をもち、八歳の頃、同級生から性的虐待を受けた。

 アンドレイ・チカチーロは十二歳までパンを食べたことがなく、草や葉っぱを食べて飢えを凌いでいた。幼くして戦争による爆撃、火災、銃撃戦を目撃した。母親はドイツ軍から強姦を受けた疑いがあり、彼が強姦の現場を目撃した恐れもある。また母は厳しく、学校ではいじめの対象になっていたという――。


 水城叶愛は、そんな彼らの生い立ちに共鳴したのかもしれない。

 そう思ったら、すこしだけ、ほんのすこしだけ彼女の本性に触れられたような気がした。

 ぼくはまた騙されているのかもしれなかった。彼女の言葉、その目から零れ落ちた涙を、演技ではないと言い切る根拠はなかった。


 それでも、ぼくは信じた。

 だからこそ彼女の潤んだ瞳が、つとこちらを向いた時、心を引き裂かれるような痛みを覚えずにはいられなかった。彼女は笑っていたのだった。泣きながら笑っていたのだった。そして、その顔つきのまま、ぼくにこう問いかけたのである。


「ねぇ、どうして私みたいな人間が生まれてきちゃうのかな?」

「……」


 答えられるはずもなく、ぼくは項垂れ沈黙した。

 ぼくがこの問いに答えられるような人間だったなら、きっとぼくは折原寧子の死体を撮ることさえしなかったのだ。


 ぼくも水城叶愛と同じだった。

 どちらもだったのだ。


 信じたくなかった。

 ぼくがそんな人間であることも。

 彼女がそんな人間であることも。

 微かな希望を求めて、ぼくはこう零した。


「今は犯罪者を治療する時代なんだって」

「そういうの私も本で読んだかも」


 それきり会話が続くことはなかった。

 互いに思っていることは、きっと同じだった。


 ぼくらは治療されたいんじゃなくて、もっと前から――。


 雨は、ぼくらを慰めるように降りつづけた。

 その音に耳を澄ませているのは心地よかった。

 こんな気持ちになるのは、いつぶりだろう。

 こんな時間がいつまでも続けばいいのにと強く思った。

 だけど神様は意地悪だ。

 ふいにパトカーのサイレンが穏やかな雨音を切り裂いた。

 ぼくらは、ぼんやり顔を見合わせた。


「ぼくらを捕まえに来るのかな?」


 サイレンの音は次第に大きくなっていった。

 水城叶愛は肩をすくめて微笑んだ。空っぽの瞳で虚空を仰げば、消え入りそうな声でぽつりと言った。


「見つからないよ、どうせ誰にも」




                         放課後の撮影会〈了〉

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