第7話 証明

「財布にコンドームなんて都市伝説でしょ!」


 水城みずき叶愛とあは離れた席の友人と大声でしゃべり続けている。下ネタ、悪口なんでもござれだ。聞いているぼくの方がハラハラしてくるのは、彼女と接点をもったからなのだろうか……。

 会話の内容はともかく――いや、低俗極まりない内容だからか――水城叶愛の演技は完璧だった。それとも演技ではないのだろうか。河川敷での話を信じるなら、素直に学校生活を楽しんでもいるのかもしれない。


『殺すところも、ちゃんと見せてあげるねっ』


 あるいは、あの酷薄な一面こそ演技だったのかもしれない。

 水城叶愛が猫を殺す場面なんて、とても想像できなかった。やっぱり、ぼくは揶揄からかわれただけなのではないだろうか。


「おはよう」


 そんなことを考えていたところに、早くも担任がやって来た。始業のチャイムはまだ鳴っていなかった。担任は一秒たりともホームルームに遅れないことで有名だった。

 この場であれこれ考えていても仕方ないな、と一限の準備にとりかかった。机の横に引っかけたリュックへ身を乗りだした瞬間、額に硬い何かがぶつかった。


「いってぇ!」


 声を上げたのは、ぼくではなかった。ぶつかってきた相手が言ったのだった。

 目の前にベルトのバックルがあった。

 額をさすりながら見上げると、へんてこなマッシュルームヘアーに視線を吸い込まれた。

 ヤバい。

 顔の筋肉が強張ってゆくのが解った。ぼくは自分自身の不注意を呪った。


「ご、ごめん、道枝みちえだくん……」

「あ? なんてっ?」


 道枝は片手をポケットに突っ込んだまま、凄むように顔を近づけてきた。額の白っぽくなったニキビが目に飛び込んできて、全身の産毛が逆立った。たまらず目を背けると、視界の隅に空席が見えた。月山の席だった。彼を不登校に追いこんだのは、道枝とその仲間たちによるイジメだった。


「おい、聞こえねぇぞ。なんて言ったんだよ?」


 道枝はしつこく迫ってくる。

 ぼくは、その汚いニキビ面を一瞥した後、改めてごめんと頭を下げた。

 道枝はにんまり不気味な笑みを浮かべた。

 そして、「いいよぉ」と甘ったるい声を返してきた。

 ところが、その言葉とは裏腹に、道枝はぼくの机を蹴り上げてから自分の席へと戻っていった。

 面倒なことになった。

 今後の学校生活を想像すると、暗澹あんたんたる思いがした。


「座れすわれー」


 その時、ちょうどチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。


「――田口、いるな。次、


 担任が点呼の最中、よりにもよってぼくの名前を呼び間違えた。道枝がニヤついた顔で、ぼくの方を振り返りながら、「塚本なんていないっすよー」と声を張り上げた。

 ぼくは心拍数が上昇し、体が熱くなるのを感じた。

 ぼくの名前の後には月山の名が呼ばれたが、今日もそれに応える声はなかった。




――




 水城叶愛は約束を違えなかった。


「やっほー」


 放課後、河川敷に現れた彼女の胸には猫が抱かれていたのである。短毛の白猫で、不思議なことに左右で目の色が異なっていた。こういうのをオッドアイと呼ぶのだと、SNSか何かで見たのを思い出した。


「……」


 白猫は鳴き声を発することもなく、泰然とした面持ちで首を伸ばしていた。ぼくを一瞥した後、河川の方へと向き直る仕草は、どこか高貴ですらあった。抱かれているというより、抱かせていると言った雰囲気を感じた。


 ぼくは、水城叶愛が猫を連れてきたことに、少なからぬ衝撃を受けていた。

 彼女は本当に、ぼくの目の前で猫を殺すつもりなのだろうか。

 猫を轢き殺してしまった時のことを思い出すと、胸がざわついて、足下がそわそわした。ぼくは気持ちを静めるために、一度、胸の前でカメラのシャッターを切った。


「オッドアイの白猫は、片耳が聞こえないことが多いんだって」


 水城叶愛は、いきなり蘊蓄うんちくを披露した。愛おしそうに白猫のオッドアイを覗きこみながら。

 その様子から害意のようなものは全く感じ取れなかった。

 むしろ彼女の発言には、「そういうわけだから慎重に接してあげてね」という気遣いさえ含まれていたような気がした。

 体を強張らせた力が、次第に抜けてゆくのを感じた。


「多いってどのくらい?」

「三割とか四割とか……だったかな? 猫を白い毛並にする遺伝子が目にまで影響すると青くなって、耳にまで影響しちゃうと聴覚障害を発するんだって。だから青い目のほうの耳が、聞こえないことが多いらしいよ」


 この子もそうみたい、と水城叶愛は、白猫の青い目の耳もとで、親指と中指とを擦り合わせた。片方の耳だけがくるりと指のほうを向いたが、もう一方の耳の動きは、それを追従するようにぎこちなかった。


「ほんとうだ……」

「どうせなら、少しでも不幸な子のほうがいいでしょ?」


 慈しむように白猫の頭を撫でながら、水城叶愛は言った。

 ぼくは、またシャッターボタンを押していた。押すつもりはなかったが、自然と手に力が入ってしまったのだ。


 やはり、彼女は猫を殺すつもりだ。

 ぼくはそう確信した上で考えた。

 片耳が聞こえないからと言って、それが殺していい理由になるのだろうか、と。


「……いや」


 考えるまでもなかった。

 殺していいはずがない。

 そう思うのに。

 この幻想的な白猫が息絶えた姿はどれほど美しいのだろう、と想像せずにはいられなかった。


「……」


 撮りたい。

 その渇望が、水城叶愛への反論の言葉を腹の底にまで叩き落とした。

 カメラに触れた指先がじわじわと熱を持ってゆく。


「じゃ、さっそく」


 水城叶愛はその場に屈みこむと、白猫の首根っこを摘まんで、そっと地面に下ろしてやった。その手つきは繊細で優しげに見えたが、彼女の手は白猫の首から離れなかった。

 どうも様子がおかしいと感じたのか白猫が振り向いた。

 その瞬間だった。

 水城叶愛が地面に膝をつき、猫の上にのし掛かったのは。


「フギャアッ!」


 白猫は火でもつけられたように暴れだした。しかし、その時にはもう首をがっちりと摑まれていた。


 本当にやるのか。


 ぼくは目を背けようとした。見てさえいなければ、猫が殺される事実が消えてなくなってくれるかのように。


「……ッ」


 けれど、できなかった。むしろ背けようとすればするほど、ぼくの目は白猫へと吸い寄せられていった。

 白猫は、人間のメスの手から逃れようと必死に足掻いた。後足で地面をガリガリと引っ掻き、牙を剝きだした頭を遮二無二ふり回しながら。

 ほんの寸前まで、人間を愚かな下僕のように眺めていたあの余裕は、もうどこにもなかった。オッドアイは殺気立ち闘争本能を剝き出しにしていた。


「人よりッ、こんなに小さいのにさ、猫って結構ちから強いんだよねェ……ッ」


 水城叶愛の笑みが凄味を帯びた。

 白猫の美しいオッドアイが、ぐりっと上向いて白目を晒した。

 苦悶する命を前に、ぼくの心は悲鳴をあげた。万力で圧し潰されているかのように、心臓がキリキリと痛みを訴えた。


「や、やめ……ッ!」


 ぼくは、たまらず制止の声をあげていた。

 すると、額に汗を浮かべた水城叶愛の目が、ぼくを一瞥した。

 穏やかで、呆れを含んだ眼差し。

 やれやれという声が聞こえてくるような気がした。


「フガアアァアアアァアァァ……ッ!」


 その時、白猫が凄まじい唸り声を発した。首を絞められているのに、地の底まで震わせるような大音声だった。


「もうすぐかな、ッ」


 水城叶愛の体が痙攣でもしているかのように上へ下へと揺れ動く。獣の腕がしなって包帯の巻かれた腕を裂く。

 彼女は顔をしかめたが、またすぐに口端を吊り上げた。愉悦に酔った、満面の笑みだった。


「塚地くん、いまさら止められないよ。放したら襲い掛かってくるかもしれないでしょ」

「で、でも……!」

「猫だって獣だよ? 鋭い爪や牙がある。身体能力だってすごいでしょ。今のこの子ならさ、私を殺すことだってできちゃうかも。それとも――」


 私の写真が撮りたくなった、と水城叶愛が首を傾げた。

 ゾクゾクと背中を駆け上がる何かを感じた。

 それは水城叶愛の狂気に対する恐れとは、別種の恐怖だった。

 この場から逃げ出したかった。逃げださなければならないと思った。

 けれど、両脚はガクガクと震えていて、とても使いものにならない。

 ぼくは自分の首に手をあてながら喘ぐような呼吸をくり返した。ブクブクと泡を吐きだした白猫を見て、自分自身の首を絞められているような心地がした。


 せめて、もう終わってくれと願った。

 果たして願いは届いた。

 白猫のふり上げた手がクワっと開かれた次の瞬間、その前足はアスファルトの上に落ちて、とうとう動きを止めたのだった。


「終わっちゃったぁ」


 水城叶愛が呆然と呟いた。ドラマの最終回を見終えたような口ぶりだった。

 その手で命を奪っておきながら彼女は平然としていた。ぼくにはそれが信じられなかった。


 ところが、彼女が惜しむように手を放した時、ぼくの縮み上がった心臓が高鳴った。

 彼女の手に付着した猫の唾液がねっとりと糸を引くのが見えたのだ。

 カシャ。

 ファインダーを覗く時間も惜しく、胸の前でシャッターを切っていた。

 すぐさまモニターを確認した。涎の糸がしっかりと撮れているか、祈るような気持ちで。


「あ、あぁ……!」


 その瞬間、感嘆の声があふれ出た。

 撮りたかったものが、すべてそこにあった。

 設定を何もいじっていないのに、画角もピントも彩度まで完璧だった。

 いや、完璧以上と言わざるを得ない。

 霊的にぼやけた白い毛並、光を照りかえす唾液の糸、輪郭きわ立つ白皙はくせきの指先――これは白猫の魂を天へと導く神の御手が出現した奇跡の一枚に他ならなかった。


「きれいだね」


 耳元で水城叶愛の囁く声がした。

 ぼくは首肯する代わりに、ファインダーを覗いた。

 そして、カシャカシャとシャッター音を鳴り響かせた。

 白猫を憐れむ気持ちは、いつの間にか消え失せていた。消えていることにさえ気付いていなかった。

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