第6話 約束
翌日、九月三日。放課後。
草叢に隠した猫の死骸を前に、ぼくはカメラを構えている。
ハエの羽音が凄まじい。空は青々と澄み渡っているのに、まるで嵐の中にいるようだ。シャッターを切れば、かならず黒々とした影が映りこむ。死骸だけを写した写真はいっこうに撮れない。
けれど、これでいいのだ。この情景こそ、まさしく死に相応しい。ハエたちは死に寄り添い続けている。ぼくも死に寄り添いたい。この猫の命を奪ってしまったからこそ、写真を通して、その魂に寄り添いたいと思う気持ちが芽生えていた。
「うへぇ、なかなかキモいね」
シャッターボタンを押すと同時に声がした。
振りかえると、すぐそこに
「うわぁっ!」
ぼくはたまらず跳び退いた。危うく死骸を踏んづけそうだった。
「わぁ! びっくりするじゃん、塚地くん!」
「こ、こっちの台詞だ……!」
「えぇっ? 私なんかした?」
「急に近くに人がいたら誰でも驚くって」
「あー、気配消すの癖なんだよね」
「なんだよ、その癖。猫と遊ぶときに役立ったりするわけ?」
「そんなとこかなー」
水城叶愛はその場でくるりと回り、ニシシと悪戯っぽく笑った。
端から驚かすつもりだったのか。
ぼくはちょっとムッとしながら死骸に向き直った。するとその時、毛皮の一部がもぞもぞと蠢いた。ぼくは慌ててシャッターボタンを押した。
「もうウジが湧いてるんだね」
水城叶愛の声には嫌悪感がまるでなかった。冷静に物事を観察する研究者のような口ぶりだった。変わっている。猫を殺したぼくを咎めもせず、こうして一緒に死骸を眺めているのだから、変わっていないはずはないのだけれど。
「きのう死んだばっかりなのにな」
「ハエって死体の臭いを嗅ぎ付けたら十分以内に来るんだって。ウジは一日から三日くらいで孵化するの。種類にもよるけどね」
「へぇ、詳しいね」
「本で読んだんだ。なんの本だったかな。海外の犯罪捜査について書かれてる本だったと思うんだけど」
「犯罪捜査? それがハエと関係あるの?」
「オオアリ」
一瞬ぼくはアリの名前を言われたのかと思って困惑したが、すぐに肯定の意味合いで「大有り」と言ったのだと気付いた。水城叶愛は神妙な面持ちで続けた。
「法医昆虫学っていう法科学の分野があるんだよ。アメリカとか中国なんかじゃ、それが裁判の証拠として提出されたりもするんだって。さっきも言ったけど、ハエはホカホカの死体が出来上がってから十分以内で来て、すぐに卵を産むの。それが孵化するまでの期間とかウジの成長具合とか……まあ、細かく説明すると長くなっちゃうんだけど、とにかくモロモロ観察してくと、かなり正確な死亡推定時刻が得られたりするわけ」
なるほど、とぼくは素直に感心してしまった。水城叶愛の博識さに舌を巻く思いだった。
この時まで、ぼくは表面的な部分だけを見て、彼女を下に見ていたのに気付かされた。ギャルは勉強ができないとか知識がないとか、そういったステレオタイプなイメージを勝手に抱いていたのだ。
自分の浅薄さに忸怩たるものを感じた。同時に、水城叶愛というクラスメイトに純粋に興味が湧いてきた。
「面白いなぁ。そういう本が好きなの?」
水城叶愛は嬉しそうににっこりと笑った。
「そういうのばっかりじゃないよ。いろいろだね。知らないことを知るのって楽しいから」
「だから死体の写真も見たがったわけか」
「それだけじゃないけど。どちらかと言うと、塚地くんの方に興味があったかな」
からかうような笑みが目の前にあった。本心でないのは明らかだった。ぼくは憮然として返した。
「興味ってどんな?」
「フツーは猫の死骸を撮ろうとかしないでしょ」
「それはそうかもしれないけど」
「みんなと一緒にいるのも嫌いじゃないんだよ? 推してるアイドルとか流行りのメイクの話、恋バナなんて鉄板だし。でも、それってボーっとスナックを摘んでる時の感覚と同じっていうか」
水城叶愛はそう言うと、おもむろに雑草を引きちぎった。草の間を行進するアリの行列を、その鋭い葉先で蹴散らしてゆく。
「メインディッシュじゃないんだよね。ないと淋しくなる時もあるけど、まあ、なくてもなんとかなるみたいな」
一匹のアリが雑草をよじ登ってくる。水城叶愛はそれを躊躇なく摘み上げると、突然、ぼくの目の前に突きつけてきた。
「うわ、なに」
「塚地くんは小さい時、どうやってアリを殺した?」
思わぬところに話題が飛んで、ぼくは返答に窮してしまった。
そもそも幼い頃、アリを殺したのかどうか記憶が定かではない。
ところが、うーんと頭を捻っているうちに、おぼろげながらある光景が浮かび上がってきた。指で摘んだアリを近くから観察している記憶だ。同時に、舌の上に酸っぱい味が蘇ってきて胸が悪くなった。
「あんまり覚えてないけど……普通につぶしたと思う」
たぶん食べたとは言わなかった。
「意外だね。水に沈めてから酸で溶かすくらいのことはしたと思ってた」
「ぼくのことなんだと思ってるんだ」
「へへへ」
「そういう水城さんはどうやって殺したの?」
「三等分にした」
当然でしょとばかりに彼女は言った。
「三等分って……?」
「小学生のころに習ったでしょ、昆虫は頭と胸と腹とに分かれてるって。アリって、すごいわかりやすいじゃん。串に刺さった団子みたいで」
団子が酸っぱくなりそうだから、その喩えは勘弁して欲しかった。
「……アリの体を引っ張ったりしたわけ?」
「抜け毛が落ちてたから、それをくるくるっと巻いて切り落とした。結構、大変だったなぁ。毛を引っ張る時に滑るんだよ。きつく絞めてるつもりでも、なかなか切れないの」
遠い目をしながら、水城叶愛は摘んだアリを放した。ちょうどその落下地点にハエがいて、素早く飛び立っていった。
「潰すのって一瞬でしょ。でも、絞めあげると時間がかかる。殺すか殺さないか、それを決める猶予みたいなものが生まれて、全能感? 感じるんだよね」
「えっと……それがメインディッシュ?」
水城叶愛は表情なくぼくを見返してから、ふいに薄笑いを浮かべた。
背中に氷の塊を押しつけられたような悪寒を感じた。
ぼくはそっと目を背けた。
すると、そこに包帯の巻かれた手が突き付けられた。
「これはね、だからネコちゃんを殺した時にできた傷なの」
「えっ」
おもわず驚嘆の声が飛びだしていた。
猫を殺してしまった瞬間の、あの感覚を、ぼくはまだ鮮明に覚えていた。
不慮の事故だったにもかかわらず、ぼくは動揺した。恐怖した。故意に殺すなんて、本当はできなかったのだと悟った。
水城叶愛は違うのか。
すでに猫を殺したことがある……?
そんなわけがない、と思った。
だから、ぼくは言った。それが本当ならここに連れて来い、と。
すると彼女は、突きつけた手を胸の前に戻して、ひょいと首をすくめてみせた。
「あー、それがさ、できないんだよね。死体、見つかっちゃって。片付けられちゃった」
「なら嘘だ。そんな簡単に殺せるわけがない」
「ウソじゃないんだけどなぁ。信じられないなら証明しようか」
「証明……?」
「死体もってくるよ。新しいやつ」
水城叶愛がどこまで本気で言っているのか解らなかった。目の前の彼女は穏やかな笑みを浮かべたままだった。その裏に隠された感情を読み取ることは、ぼくにはとてもできそうになかった。
本気かどうかを確かめる方法はひとつだけだった。
体の震えを抑えながら、ぼくはゆっくりと頷いた。
「決まりだね。でも、よく考えたら持ってくるのも殺した証拠にはならないし、生きてるのを連れてくるよ」
水城叶愛は朗らかに目を細めると、こう結んだ。
「殺すところも、ちゃんと見せてあげるねっ」
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