第5話 仲間
まずい、と思った時にはもう遅かった。
「てか大丈夫? ケガしてんじゃん!」
転んだ拍子に傷でもできたのだろう。
けれど今、そんなことはどうでもよかった。
このままでは猫の死骸を見られる。
とっさに、ぼくは笑った。倒れたままの自転車を指差しながら。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと転んだだけ」
「ホントに?」
「うん、ほんとほんと」
そう言っても、水城叶愛は近づいてこようとする。
ぼくは自ら歩み寄ってゆくことで彼女を制止した。
「それより、どうしてこんな所に?」
「どうしてって、私の家この近くだからさ」
「あー……そうなんだ」
自分の運の悪さを呪いたくなった。よりにもよってクラスメイトの家の近くで撮影していたなんて。いや、運ではない。動揺して、興奮して、後先考えずに行動した自分の愚かさが、この事態を招いたのだ。
「塚地くんこそどうして? もしかして、塚地くんの家も近いの?」
「いや、その……これ」
とりあえず、ぼくはカメラを持ち上げてみせた。
「川の風景でも撮ろうかなって」
「へぇ、そういうの好きなんだ」
「中学の時、父親が昔つかってたカメラをくれたんだ。それから、すっかりハマっちゃって。これは自分で買ったやつだけど」
「自分で? 高そうなカメラだね」
「ま、まあ。一年の頃、毎日のようにバイトしたから」
「あれれー? うちの学校ってバイト禁止じゃなかったっけー?」
「せ、先生には言わないでくれよ!」
曖昧に笑いながら、水城叶愛を退場させる方法について考える。ぼくはここから動けない。動けば猫の死骸を見られてしまう。
どうすればいい?
拳を握って、頭をフル回転させる。
そこに水城叶愛が言った。屈託のない笑みを浮かべながら。
「誰にも言わないよ。後ろのやつのこともね」
こめかみを殴られたような衝撃に襲われ、ぼくはその場でよろめいた。
気付かれていた? 最初から?
血の気が引いてゆく。胃の中がずんと重くなる。
「ち、違うんだ」
「なにが?」
水城叶愛は笑ったままだった。怖かった。
今朝、彼女が猫について話していたのを思い出す。手を引っ掻かれたのを楽しそうに話していた。きっと彼女は猫に並々ならぬ愛情を抱いているのだろう。ぼくのような猫殺しのことなんて、軽蔑しないはずがなかった。
「じ、事故なんだ。わざとじゃなくて。草叢から急に……躱しようがなかったんだよ」
「じゃあ、カメラで撮ってたのも事故かぁ。うっかりシャッターボタン押しちゃったんだ?」
たまらず、ぼくは呻いた。しゃっくりに似た、ひきつれた呻き。
見られていた。何もかも。彼女は全て知っていて話をしていたのだ。
まずい。いや、手遅れだ。最早、どんな言い訳も通用しない。
奈落の底まで落ちてゆくような心地がした。
「違うよね。撮りたいから撮ってたんでしょ」
「……うん」
認めるしかなかった。
どんな言葉で繕おうと、猫の死骸を撮っていた事実が覆ることはない。
「なんで撮りたいの?」
水城叶愛は尋問のように続けた。
ぼくは潔く答えた。
死体だけが醸しだす独特の美しさを写真に残したいのだ、と。
最低だとか気持ち悪いだとか、きっとそんな謗りを受けるはずだった。ぼくの高校生活は終わりだ。いや、それで済むなら、まだマシかもしれない。人の悪評を広める方法なんていくらでもある。家に石を投げ込まれたり、玄関に誹謗中傷の貼り紙をされたりするのを想像しながら、ぼくはきつく目を瞑った。
「へぇ、面白いね」
項垂れたぼくは思わず頭を跳ね上げていた。
彼女はまだ笑顔だった。坂を下りてくると、ぼくの傍らを通り過ぎ、死骸の前に屈みこんだ。そして、振り返ってぼくを見た。
「一回撮ったら、それで終わり?」
「え?」
「腐ってく様子とか撮らないの? ハエが
ぼくは返答に窮して固まっていた。
問いに対する答えは間違いなくイエスだったけれど。
この状況が理解できない。
一体、どう反応すべきなんだ。
「んー、やっぱ楽しそうだね」
水城叶愛は、ぼくの沈黙を肯定と受けとったようだった。バネの仕掛けのようにぴょんと立ち上がると、さらに質問を重ねてくる。
「すっかり消えてなくなっちゃったら、どうするの?」
「ぼくのこと責めないの……?」
ようやく、ぼくは言葉を発した。
水城叶愛はおかしかった。死骸を撮っていたぼくに憤る様子も、気味悪がる様子も見せない。自分のことは棚に上げ、この人は普通じゃない、とぼくは思った。
「責めるってどうして? 事故なんでしょ?」
心底、不可解といった様子で、水城叶愛は首を傾げた。
「そ、そうだけど、ぼくはそれを撮ってたんだよ」
「べつに良くない?」
「えっ」
「それよりさ、写真! わたしにも見せてよ!」
水城叶愛は胸の前でパンと両手を打ち鳴らした。女の子同士で教卓に群がっていた時のように、キラキラと目を輝かせながら。
「えっと、これ――」
ぼくは呆気に取られ、大人しくカメラを差し出していた。彼女に基本的な操作を教え、息絶えた猫の写真を呼び出す。
なんだ、この状況……?
見つかった時は何もかも終わりだと思った。
なのに、写真をスライドさせるたびに、水城叶愛がすごいすごいと声をあげている。子どものように屈託なく。訳が分からない。
水城叶愛は、ぼくのような人間とは対極の存在のはずだった。見た目こそ優等生然として見えるが、教師相手でも友達のように話すし、派手なグループの中にいて、男子たちの間では密かに『清楚ギャル』なんて呼ばれてもいる。
そんな彼女が、どうして猫の死骸を見て楽しそうにはしゃいでいるのか。それを撮ったぼくを責めることも軽蔑することもなく、むしろ面白いなどと言うのか。
「ここには毎日来るつもりなの?」
突然、水城叶愛がカメラから顔を上げ、ぼくの目をまっすぐに覗きこんできた。
「え、あ、まあ。過程を撮るってなると来ないわけには」
「じゃあ、これからは私も参加していい?」
「参加?」
「また写真見たいの。ダメかな?」
相手が急に顔を寄せてきて、ついどぎまぎしてしまう。甘ったるい香水の匂いを嗅ぐと、なんだか意識が遠のくような感じがした。
「ありがとう!」
水城叶愛が声を弾ませた。
どうやらぼくは無意識のうちに、彼女の頼みを受け入れてしまったようだった。もうどうにでもなれと思った。猫殺しのサイコ野郎、と世間から後ろ指をさされるより、おかしな仲間とおかしな趣味を共有する方が、たぶんマシだった。
ところが、それは間違っていた。
水城叶愛とのこの出会いこそが、ぼくの破滅の始まりだったのだ。
いや、あるいは、もっと前から――。
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