第4話 不慮

 学校が終わると、さっそく野良猫さがしに出かけた。

 と言っても、いつもの散歩の延長だ。写真を撮るついでに野良猫を見つけるという寸法である。

 一度、家に戻って、放置していた自転車のタイヤに空気をいれた。所どころ錆び付いているせいでサドルの高さを調整するのには手間取ったけれど、幸いチェーンやブレーキに問題は見られなかった。


「よし、出発だ」


 ペダルを踏みこむと、全身に湿っぽい風が吹きつけてきた。うんざりするような生ぬるい風だ。速度がでてくると、それにも次第に涼気を感じられるようになってきた。近場をぐるっと一周するくらいのつもりでいたけれど、すこし遠くまで行ってみようという気になった。


 住宅街を、小規模な工場群を、大型スーパーや大病院がひしめく通りを抜け、未だ近代化の波にさらされていない長いながい田んぼ道にでた。

 そこここで黄金色の稲穂が揺れていた。吹き付ける風の中には、微かに香ばしい匂いがした。今がちょうど収穫期なのだろう、田んぼの中では赤いトラクターがうんうん唸っていた。その周りを飛び交うトンボたちも鮮やかな赤色で、まるでトラクターの赤ん坊のように見えた。


 これまで風景写真にはまったく興味がなかった。けれど、この風景を撮ったら、きっと素晴らしい一枚に仕上がるだろうと思った。一度は、足を止めようかとも考えた。

 ところが、それらの思いとは裏腹に、ぼくはペダルの上に立って速度をあげていた。


 本当に、あの風景を切り取りたいと思ったわけではないからだ。

 ぼくにはまだ迷いがあった。

 いや、恐れというべきだろう。

 この手で命を奪うことに恐れを感じていた。ぼくには猫を殺せないかもしれないという思いに怯えてもいた。


 それらを断ち切るために、ぼくはぐんぐんと速度をあげた。

 次第にセミの鳴き声が大きくなり、田んぼは途切れて、ぽつぽつと古めかしい民家が姿を現し始めた。

 一転、ぼくは速度を落とし、辺りに注意深く目を向けた。森の中へ分け入る狩人のように。そびえ立つ石塀の上に、庭木が落とす影の中に、猫の姿を探した。


「……ん」


 死んだように暗い神社の側を通りがかった時、草木の濃厚な青臭さに鼻をつかれた。咽返りそうなほどの臭気。猫がこのにおいを好むかどうかは知らないが、木陰は隠れ場所になるだろうし、涼むにも都合が良さそうだった。

 自転車を降りて、境内を一周してみることにした。周りを木々に囲まれているため、一見すると遮蔽物が多い印象だが、実際はそうでもなかった。木々の間隔は広く、案外、見通しは悪くない。


「……ダメか」


 結局、猫は見つからなかった。意識していない時にはひょっこり現れるくせに、いざこちらから探してみると見つからない。椎の古木のめくれ上がった皮だけを写真におさめて、また自転車に跨った。

 左右から古民家の石塀がせまる道を行く。

 途中、塀を這うカナヘビを三度も見かけた。なのに、塀の上をてくてくと歩く猫は一向に見つかる気配がなかった。

 塀のひび割れや苔の写真ばかりが増えていった。

 次第に、現実には存在しない架空の生き物を追いかけているような気になってきて、ブレーキもかけず、ゆるゆると止まった。


「あぁー……」


 胸の中の淀んだ空気を吐きだし、空を仰いだ。

 早くも茜色がにじみ始めていた。 

 立ちこめる熱気は真夏のそれでも、暦の上ではもう九月だった。日没の頃合いは日に日に早まっている。普段より遠くまで来てしまったし、そろそろ引き上げた方が良さそうだった。


 ハンドルを切りかえす時、ホッとしている自分に気付いた。

 まだ猫を殺さずに済む、と。

 一方で、こめかみをチリチリと焦がすような苛立ちもあった。

 早く死体と対面したい。あの美しさを写真に収めたい――。


 もう一度、田んぼ道をとおった時には、もう目を惹かれなかった。

 二度と死体なんて撮れないかもしれない。そう思ったら居ても立っても居られず、他のことはどうでもよくなっていた。

 まだ死体を用意できなくても、死体を保管する場所くらいは確保しておくべきだ。

 猛スピードで自転車を飛ばし、我が家を通りすぎて、堤防へと向かった。

 河川敷なら人気ひとけは少ないし、今の時期は雑草の丈も長い。死体を保管するには、うってつけの場所だと思った。


 堤防道路へ延びる勾配のきつい坂道を、立ちこぎで一息に上がった。

 河川敷におりる下り坂は、傾斜がゆるやかな分、道程も長かった。

 自転車を押しだすと、ペダルを踏まなくても勝手に速度が上がっていった。

 耳元で風が唸り、荒々しさを増してゆく。シャツの背中が風船のように膨らむ。

 渇望を、焦燥を、刺激が殺してゆく。速さとともに心が昂ってゆく。

 このまま河川に突っ込んでみたいとさえ思った。自分が無敵になったような気がした。


「うわぁ!」


 その時、突然、草叢の中から何かが飛び出してきた。

 咄嗟にブレーキをかけ、ハンドルを切った。

 遠心力に体を引っ張られ、視界がぐるっと回転した。草叢が目に飛び込んできたと思った時には、肩や腕、こめかみにまで、鈍い痛みが走っていた。


「いった……ぁ」


 こんもりと茂った雑草がクッションになってくれたおかげか、さいわい大事には至らなかった。口の中に入った葉っぱや土くれなんかを吐き捨てながら、ぼくはふらふらと起き上がった。

 自転車は遊歩道の上に倒れていた。後輪が空転してカラカラと音をたてている。そこからやや離れた場所に、それはぐったりと横たわっていた。


 ちゃいろい、やわらかそうな、かたまり――。


 ゾッと肌が粟立った。

 ぼくは、恐るおそるそれに近づいた。呼吸が浅くなるのを感じながら。

 力なく横たわるその生き物は、奇しくも猫だった。黒と茶の縦縞模様が入ったキジトラ。腹の辺りがまだ微かに上下しているけれど――もう助からないと一目で解った。背骨の一部がいびつに盛り上がっていたからだ。


「ッ……」


 猫の翡翠のような目が、ぼくを見た。儚く美しくも殺気立った眼差し。ハアハアと荒い息が吐きだされるたび、残りの命が減ってゆくのが解った。

 全身に嫌な汗が噴きあがる。

 吐き気に似たものが胸を塞ぐ。

 感じたはずのない、猫の骨肉を砕いた感触が蘇る。


「ひッ……うあ、あぁ……ッ!」


 ぼくは膝から崩れ落ち、命を奪うことの重みに悶え苦しんだ。

 自分のやろうとしていたことが、どれほど悍ましいことなのかを、今更になって思い知った。

 その間にも、猫の呼吸は弱まっていった。

 ぼくには、その姿を見ていることしかできなかった。


「ァ……ァ……ハッ……ッ…………………」


 やがて、猫の呼吸が止まった。

 ぼくを睨み付けた眼球から急速に生気が散っていった。


「し、死んだ……」


 ぼくが、殺した。

 頭の芯が冷たくなる。

 足下から震えがこみ上げる。

 ぼくは自分で自分の体を抱く。

 だが、そんなことで震えは治まらない。


 助けを求めて辺りを見回すと、草叢の中に光るものを見つけた。

 カメラのレンズだった。

 ぼくは縋るようにカメラへと飛びつき、表面についた土を払った。転んだせいで細かい傷ができてしまっていた。けれど、肝心のレンズは無事だ。故障した様子もなかった。


「……」


 カメラを構えると無心になれた。ざわついた心が鎮まってゆくのを感じた。

 シャッターボタンにのせた指先に熱が滲んでゆく。それがじんと全身に拡がってゆく。

 ファインダー越しに見る風景は細緻な絵画のようだった。

 これは現実ではない。そう思わせてくれる力があった。


「うッ、ああァ……!」


 しかし猫の毛先が風に揺れると、夢の膜はあっという間に剝がれ落ちてしまう。また叫びだしたくなるような恐怖に襲われる。

 写真を撮った。撮るしかなかった。

 狂ったように。狂わなければ、自分が壊れてしまいそうだった。


「――ハァ……ハァ……」


 一体どれだけ撮ったのだろうか。

 やがて、一匹のハエがやって来て、灰色になった猫の鼻先にとまった。


「あれ、なにしてるの?」

「わぁッ!」


 背後から声がして、ぼくは飛び上がった。

 錆び付いた人形のようにキリキリと首を回した。

 坂の上に、スカートが揺れていた。

 濡れ羽色の髪が風に膨らんで、きつい香水の匂いに鼻を突かれた。


「あー! やっぱ塚地くんじゃん!」


 と親しげに手を振ってきたのは、クラスメイトの水城みずき叶愛とあだった。

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