第3話 標的
自ら殺して写真を撮る。
想像するのは簡単でも、実際に決行するとなると話はべつだ。乗り越えなければならない障害は幾つもある。だから標的は殺しやすい相手が好ましい。
ぼくは教室の壁にかけられたアナログ時計を一瞥する。
ホームルームまで、およそ十分。
ぼくは読みもしない小説を顔の前に掲げながら、こっそりと教室の様子を盗み見た。幸い、ぼくの席は、窓際の後ろから二番目だ。中途半端といえば中途半端だが、それでもクラスのほとんどは目に入った。
誰が狩りの標的に相応しいか。
疎らに散ったクラスメイトを順繰りに見定めてゆく。みんな眠そうで隙だらけだ。ベッドの上に魂を半分おき忘れてきたような感じ。夏休み明けの初日だから、なおさら体が追いついていないのだろう。だりぃと気持ちをそのまま口にする生徒もいた。
かくいうぼく自身も「だりぃ」と感じていた。そこには一限の授業を億劫に感じる気持ちも多分に含まれている。
なんといっても休み明け最初の授業は数学なのだ。それ自体もう学生の天敵と言っていい科目である。おまけに担当教師の日野は、蚊の鳴くような声で喋るので、内容を理解するのは一層困難だ。退屈も三割増しと言ったところか。
ぼくらが一年生の頃、日野はもっと溌溂とした男だったが、近頃はすっかり覇気がなくなってしまった。
あたかも吊るした輪っかに首を通してから出勤してきたといった風情だ。しばらく待っていれば、日野の死体が拝めるんじゃないかと考えてしまうほどである。もちろん日野が自殺する確証はどこにもないし、ぼくだって日頃から日野と似たり寄ったりの顔をしているけれど本気で死のうとしたことはない。やはり殺すのが確実だった。
「ハァっ、盛れすぎ!」
突然、ホワイトボードの方から大音声が轟き、ぼくは椅子の上で飛び上がった。
見れば、教卓を囲んで談笑する女子グループがあげた声だと解った。
彼女らは全員で同じスマホを覗きこんでいた。どうやらアプリで撮った写真を共有しているようだ。ふいに、ひとりがスマホを掲げると、顔を寄せ合ってパシャリ。またスマホを覗きこんで、きゃっきゃと騒ぎだす。
「……ちっ」
思わず、舌打ちがとび出した。軽蔑に似た感情が湧きあがってくるのを感じた。ぼくからすれば、あんなのは最低最悪の行為だ。生きた人間の写真なんて、それだけでやかましいのに、青春だとかカワイイだとか盛れてるだとか画面がうるさいだけで何の芸術性も有りはしない。
肌が粟立つのを感じて二の腕をさすった時だった。
ふいに女子グループのひとりが振り向いたのだ。
長くて艶のある黒髪が膨らんで、重力に従ってサラリと流れ落ちた。
目が合った。
ぼくは慌てて小説の文面に目を落とした。
『犯人はあなたです!』
胸がざわついた。あの女子生徒に、ぼくの考えていることを見抜かれてしまったような気がした。
落ち着かずページをめくった時、ちょうど予鈴が鳴った。
「おはよう」
一分一秒たりとも狂いなく担任が現れた。座れすわれという声で、散り散りになっていた生徒たちが大人しく席についてゆく。「あい」とか「うい」とかいう返事には、「シャキッとしろ!」と檄が飛んだ。
今しがた目の合った女子生徒も「キビシー!」とはやし立てながら、こちらにやってきた。彼女の席は、奇しくもぼくの真後ろなのだ。ぼくは授業の準備を装って、彼女の方を見ないよう努めた。もう一度、目が合おうものなら「キモいんだけど」と罵られた挙句、机の脚を蹴られるくらいのことはされかねない。あれはそういう人種だった。
きつい香水の匂いが横切り、後ろで椅子をひく音が聞こえた。
ぼくがホッと胸を撫で下ろしていると、
「ねぇねぇ」
後ろからちょんちょんと肩を
ヤバ……。
一度は静まった心臓が、またやかましく鼓動を打ち始めた。
すぐには動き出せずにいると、また肩を突かれる感触がした。さすがに無視し続けるわけにはいかなかった。ぼくは意を決して振り返った。
「な、なに……水城さん?」
案の定、声が上擦ってしまった。名前を思い出すのに一瞬の間があった。
すこし珍しい名前なので、かろうじて憶えてはいた。
「一限ってなんだっけ?」
「あ、えっと、数学だよ」
「ん、ありがと」
なんだそれだけか。拍子抜けだった。
でも、どうして、わざわざぼくのような〝ぼっち〟に訊いたりしたのだろう?
ふとそんな疑問を覚えたものの、水城叶愛のとなりの空席が目に入って、そりゃぼくしかいないかと勝手に納得した。
あの空席は月山の席だ。彼は一年生のころにいじめを受けたとかで、いまも学校に来ていなかった。
とにかく、なにか特別な意図があったわけではないようだ。
前に向き直ろうとして――視線を感じた。
目を上げると、水城叶愛がじっとぼくの顔を見つめていた。
「あ、その……どうかした?」
「さっき、なんで見てたの?」
ぼくは雷に打たれたかのように固まった。ほとんど真横を向いたおかしな姿勢で。
彼女は、なぜかニヤニヤと笑っていた。笑顔の意味が解らなかった。恐怖だ。脳がフルスピードで回転を始めた。なにか答えを捻りださなければ――。
「そ、それ!」
奇跡的に、ぼくは発見した。
水城叶愛の両手首に包帯が巻かれているのを。
「どうしたんだろう、大丈夫かなって思って」
「ああ、これね」
水城叶愛はお化けがやるみたいに、胸の前で両手をぷらぷらと揺らしてみせた。
「ネコちゃんに引っ掻かれちゃって」
「あ、猫ね。にしても……ずいぶんひどくやられたね」
「へへ、怒らせちゃってこの有様」
水城叶愛がチロと舌先を覗かせたのに、ぼくは曖昧な笑いを返した。
「すぐ治るといいね」
「ん、ありがと」
そこでちょうど出席を取っていた担任から名前を呼ばれた。点呼の声に応え、今度こそ前に向きなおった。そして机に突っ伏し顔を伏せた。声が漏れてしまわないように、ぼくは笑った。
そうだ、猫がいるじゃないか。
水城叶愛との何気ない会話が、ぼくに天啓を授けてくれた。
人間の死体を撮ることに固執していたが、死から美しさを感じ取れるのは、きっと他の動物も同じはずだった。
野良猫ならこの辺りでもよく見かける。餌に毒でも混ぜれば簡単に殺せるはずだ。体が小さい分、死体を隠すのにも手間取らないだろう。
放課後は野良猫さがしに出かけよう。
笑いを堪えながら、ぼくはそう決意した。
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