第2話 死体

 ブログやSNS等を通じて、廃墟の魅力を紹介している人たちの中には、少なからず違法な撮影者がいる。それらから抽出した情報を基に、ぼくを廃墟巡りをくり返していた。


 死体を見つけたのは、高校二年の夏休みも終わりに近づいた、八月三十日のことだった。


 草木が鬱蒼と茂った丘の頂上に、その廃校はあった。木造でこそないものの、かなり古い建物なのは一目見ただけでも明らかだった。外装は剝がれ落ち、窓はほとんどが割れていた。

 時折、校舎の方からは怪鳥の羽搏はばたきのような奇妙な音が聞こえた。襤褸と化したカーテンが内へ外へと風になぶられて立てる音だった。


 校門には『立ち入り禁止』の札とともに鎖がかけられていて、そのすぐ近くに自治体の看板が設置されていた。自治体が管理しているにしては荒れた印象だけれど、こちらとしては好都合だった。管理体制が行き届いていない方が侵入は容易い。

 辺りに人がいないことを確認してから、錆の浮いた鎖を跨いだ。

 校舎の前は一面グラウンドだ。風が吹くと砂埃が舞った。ザリと舌を砂に掻かれて、たまらずペッペッと唾を吐き捨てた。


 そこにまた羽搏きめいた音がして、ぼくは二階の窓を見上げた。

 窓枠とカーテンの隙間に校舎の暗がりが覗いていた。カーテンがなびくと、暗闇がひとりでに蠢いているように見えた。気味が悪かった。次第に誰かに見られているような気がしてきて、他の窓にも目を向けた。そして後ろを振り返った。誰もいない――はずだ。


 ぼくは両手で頬をぴしゃりと叩いて、グラウンドを駆け抜けた。


 校舎の中は薄暗くて、じめじめしていた。天井は一部が剝がれ落ち、瓦礫となって積み重なっていた。もう少しきれいだった頃は、不良のたまり場だったのかもしれない。めちゃくちゃに歪んだロッカーの側に、砂をかぶったピンクのコンドームが放置されていた。何枚か写真に収めた。

 

 二階にあがり角を曲がると、廊下の突き当たりに、風になびく黒い布のようなものが見てとれた。

 カーテンにしては細すぎる、暗幕の切れ端のようなものだ。

 気になって近づいてゆくと、すぐに布の類いではないと解って足を止めた。


 それはだった。


 自分以外の人間がいることに、ぼくは驚いた。

 同じ趣味をもつ人だろうか。

 これまで、そういった人物と会ったことはなかったし、会いたいとも思ってこなかった。他人と写真を共有して、それを慣れ合いの道具にするような連中を、ぼくは心底軽蔑していた。たとえそうでなかったとしても、こんな所にいるのは、十中八九ぼくと同じ不法侵入者だ。見つかったら面倒なことになりかねなかった。


 さっさと踵を返そうとしたが、どうも様子がおかしい。

 途中にでっぱりがあってよく見えないが、髪の下からは両脚が投げだされているように見える。壁にもたれて座っている形だ。

 気分でも悪いのか。それとも怪我でもしたのか。一声くらいかけるべきか。

 ぼくは考えを改め、長い髪の人物へと近づいて行った。


「あのぉ」

「……」

「あの! どうかされましたか?」

「……」


 反応がなかった。青白い脚は、ぴくりとも動く気配を見せなかった。割れた窓から吹き抜ける風だけが、ひゅるひゅると渦を巻き、項垂れた人物の長い髪を揺らしていた。

 眠ってる……? たぶん女の人……こんな所で?

 その時、耳元でブンと羽音がした。


「うわっ」


 黒いものが視界を端をかすめて、女性の方に飛んでゆくのが見えた。

 でっぷりと肥えたハエだった。しかも一匹ではない。女性の周りには無数のハエが飛び交っていた。今まで気付かなかったのが不思議なくらいの数がいた。

 心臓がきゅっと縮こまるのを感じた。

 ようやく、ぼくは事態の深刻さに気付いた。


「し、死んでる……」


 慌ててポケットに手を突っ込み、スマホを摑んだ。

 けれど、その時にはすでに尋常でない汗をかいていて、スマホはぼくの手から滑り落ちてしまった。


「ヤバっ」


 拾い上げてみると、表面の保護フィルターに蜘蛛の巣状のひびが走っていた。幸い、動作の方は問題なさそうだった。

 ぼくは番号を押そうとして――それをポケットにしまい直した。

 かすかに震えた足が、リノリウムの床をキュッと鳴らした。

 一歩。ぼくは女性に近づいていた。

 一歩、さらに一歩。ふみ出すたびに足下から熱がこみ上げるのを感じながら。


 女性と向かい合い、ぼくは生唾を呑みこんだ。

 熱に浮かされたような心地で、ゆっくりとその場に屈みこむ。

 そして、相手の簾のように垂れ下がった髪の間に目を凝らした。


「あ」


 おもわず声が漏れだした。

 ガラス玉のような瞳が。

 半開きの乾いた唇が。

 血の通わない青い肌が。

 あまりに美しく見えたから。


 廊下にカシャと機械音が鳴り響いた。

 カメラを胸の前に提げたまま、ぼくはシャッターを切っていた。静かな昂りがあった。死体に対する恐れより、その寂寞とした美しさがもたらす感動の方が勝っていた。

 恐るおそる手を伸ばした。

 垂れ下がった髪に触れた瞬間、全身が総毛立つのを感じた。

 髪を掬い上げ、手前にひき寄せる。サラサラと指の間を零れてゆく。相手の真っ白なシャツの上に、幾筋もの黒い線が引かれる。

 

 今度はファインダーを覗きこみ、呼吸も忘れてシャッターボタンを押した。

 モニターを確認すると、もっと撮りたくなった。

 被写体のもつ美しさを最大限に引き出すなら、より暗い画面にすべきだろう。構図も考える必要がある。距離を離して、対照物を置けば、さらに被写体を際立たせられるかもしれない。

 何かないかと辺りを見回すと、近くに手帳が落ちているのを見つけた。


「……生徒手帳?」


 ぼくの通っている高校のものではないようだ。ここは、ぼくが住んでいる区域ではないし、それ自体に何も不思議はない。だが、知っている名前だ。確か隣町の女子高だったはず。

 手帳を開いてみると、最初のページに溌溂とした少女の顔写真が載っていた。


 名前は折原おりはら寧子ねいこ


 当然、まったく知らない名前だった。

 ところが、その名を目にした途端、足下から寒気がこみ上げてきた。彼女が人として名をもち、生きていたという至極当然の事実が、異様な興奮に呑まれていたぼくを現実に引き戻したのだった。


 それは同時に、興奮のフィルターによって隠されていた事実をあらわにした。

 折原寧子の首に絞められたような痕を見つけたのだ。

 それだけではない。

 彼女の両手の指は全て、

 だが、それらよりも、ぼくを慄然とさせたのは、折原寧子の死体がことだった。


 一体殺されたんだ?


 全身にドッと鼓動が鳴り渡った。

 跳ねるように立ち上がり、廊下の角を見据えた。


 誰の姿もないし気配もない。

 それでも、この廃墟のどこかに犯人が潜んでいて、次の標的を観察しているような気がした。

 ぼくは両腕をさすり、カメラのストラップを締め直した。

 こんな所に居ちゃいけない、と死体に踵を返した。

 廊下の角を曲がるまで、何度もなんども後ろを振り返った。誰も追ってはこなかった。折原寧子の髪が風に揺れているだけだった。


 ぼくは引き返さなかった。

 廃校をでて、丘を駆けおりた。

 やがて人気ひとけのある通りにでたところで、やっと胸をなで下ろすことができた。

 念のため、来た道を振り返ってみたけれど、丘の上から下りてくる人の姿はなかった。


「……ヤバい」


 安心すると、また折原寧子を撮りたくなった。

 けれど、殺人鬼があの場にいない確証はなかったし、死体のことを通報すべきだという当然の使命感が浮上してきて足を鈍らせた。


 結局、廃校に戻ることはなかった。

 ところが、ぼくは帰りの電車に乗ってもスマホを取り出そうとさえしなかった。

 ガラガラの車内で、ぼくは頭を抱えた。折原寧子の姿が脳裏に焼き付いて離れてくれなかった。良心ははやく通報しろと、ぼくを急かした。そうすべきだとは解っていた。解っていたのに、死体が見つからなければ、また写真を撮ることができる――そんな邪な考えが、ぼくを捕らえて放さなかった。家にたどり帰り着く頃には、ぼくの心は決まっていた。

 

 折原寧子の写真集を作ろう。


 死体はやがて腐敗し、ウジに食われ、分解されてゆくだろう。

 その様子をタイムラプスのように写真に収めてみたいと思った。


 しかし、その夢は叶わなかった。

 折原寧子を発見した三日後。

 夏休み明け、最初の登校日――九月二日。

 母と朝食をとっているとき、突然、テレビにあの廃校が映りこんだのだ。

 ニュースキャスターは、女性の変死体が発見されたというニュースを伝えた。

 口に入れかけていた玉子焼きを危うく落としかけた。

 なんとか玉子焼きだけを口に押し込んで、箸を置こうとすると、食器に触れあってカタカタと音がした。さいわい母はニュースに夢中だった。


「……ごちそうさま」


 と席を立つと、母が物言いたげに見てきた。

 けれど、その目はすぐにテレビへと戻った。我が家が放任主義で助かった。

 トイレに駆けこみ、便座の蓋の上にどすんと腰を下ろした。ため息がこぼれた。

 空き家の室外機を撮影した、昨日の満たされなさが胸に蘇った。

 また死体を撮りたいという、あの渇望。

 これから先の人生、じっくりと死体を撮影できる機会なんて、もう二度と訪れないだろう。


「……いや」


 その時、ぼくの脳裏に閃光がはしり抜けた。

 死体を撮る方法を思いついたのだ。

 たしかに折原寧子はもういない。

 けれど、死体がなくなってしまったのなら。


「――自分で用意すればいいじゃないか」


 折原寧子を殺した犯人のように。

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