放課後の撮影会

笹野にゃん吉

第1話 写真

 古屋の隙間の裏路地に、湿った風が吹き抜けた。

 淀んだ空気を洗い流してくれるような力強い風だったけれど、表に立ち込める熱気まで運ばれては、ちっとも涼しくなんてなってくれない。

 こめかみに流れ落ちる汗を肩で拭って、ぼくはカメラのシャッターを切った。


「うーん……」


 空き家の朽ちた室外機に、雑草や蔦が複雑に絡みついている。背景の壁はトタンの赤錆。錆の粒子がわずかに浮き上がって見える。一見すれば悪くない写真に仕上がっていた。


「まだいけるな」


 もうすこし錆の質感に拘ってもよさそうだ。粒子のきめ細やかさにやや粗がある。

 錆の質感を細部まで捉えるためには、画素数が多いだけでなく、大きなイメージセンサーを搭載したカメラが必要だ。その条件を満たしたデジタル一眼レフを手に入れるために、ぼくは昨年――高校一年の間の休みをほとんどバイトに費やした。粒子の肌触りを感じられる写真に仕上げなければ宝の持ち腐れというわけである。

 お尻のポケットから潰れたペットボトルを抜きだして勢いよく呷った。

 カメラの絞り値とシャッタースピードを調整し、あらためてシャッターを切る。


「まあ、ブレるよな」


 シャッタースピードを遅くすれば、裏路地の暗い環境でも対象を写し撮ることは可能だ。だが、それには代償が伴う。手ブレや被写体ブレを引き起こしてしまうのだ。

 ブレを回避するには三脚を使うのが望ましいが、ここではさすがに狭すぎるし、そもそも持ってきていない。ISO感度を上げるという方法もあるにはあるが、そうすると写真にざらつきが出てしまう。肝心の解像力を損なってしまっては本末転倒だ。


 最適の絞り値とシャッタースピードの組み合わせを探る。撮っては調整、撮っては調整をくり返す。

 被写体の朽ち果ててゆく過程まで想像できるような一葉を追求する。生の騒々しさから死の静けさへと変化してゆく物語。それを導きだす過程にこそ朽ちた被写体を撮影する醍醐味がある。


「……きた!」


 あごの先から汗が零れ落ちた。カメラのモニターが濡れて、慌ててシャツの裾で拭った。

 そうして改めて写真を覗きこんだ時、全身の毛という毛がビィンと逆立つのを感じた。

 粒子が、時間が、ストーリーが浮かび上がっている。素晴らしい一葉だ。


「よし」


 ぼくはペットボトルの中身を空にしてから裏路地をでた。

 途端に西日が目に沁みた。真っ赤な夕陽が、遥か遠くにそびえる電波塔の上にあごを乗せていた。赤く色づいた空の端には、夜のすみれ色が滲みだしていた。ずいぶん時間をかけてしまったが。

 立ち去る前に、向かいの古屋へと目を向けた。屋根をつけただけの駐車場に軽自動車がとめられていた。二階の窓は全開だ。


「……大丈夫そうだな」


 幸い住人の姿はどこにもなかった。おそらく、撮影しているところも、空き家の裏から出てきたところも見られていない。


 ぼくはアマチュアの廃墟写真家だ。

 そして、不法侵入の常習犯だ。


 空き家の室外機を撮影するくらいなら、見つかっても軽い注意を受けるだけで済むかもしれない。けれど実際に廃墟を撮影したり、廃墟の中へ入ったりするとなったら、当然、所有者の許可が要る。問い合わせるのは面倒だし、大抵の場合、許可など下りない。相手にメリットがないからだ。そもそも所有者が解らない物件も少なくなかった。

 中には、レンタルスタジオのように金を払えば撮影させてくれる良心的なスポットもある。しかし、そういった廃墟は、なんというかあざとくて品がない。客の趣向に合わせてカスタマイズされた作り物。ぼくにはそうとしか思えなかった。


 だから、ぼくは〝本物〟の廃墟を撮ってきた。

 警察の世話になるリスクがあるとしても。


 腹を抱えるようにカメラを隠して、現場を離れた。

 久しぶりに、中学生の頃に使っていた通学路を通った。途中、営業しているのを見たことのない煙草屋が目に留まった。

 ガラス扉にポスターが貼られていた。微かに人のシルエットのようなものが見てとれるものの、すっかり色褪せてしまっていた。背景の夕陽らしきものはピンク色で、まったく何のポスターか解らない。それを却って愛おしく感じ、写真に収めた。


 家に着くまで、その他にもたくさんの写真を撮った。


 壁に浮き上がった塗装や玄関ポーチのひび割れ。

 側溝の泥に塗れた塩ビパイプや軽トラの荷台に積まれた分厚いテレビ。

 カラカラに乾いたミミズ、アリの行列に担ぎ上げられたトンボの頭――。


「……はぁ」


 写真の出来は、どれも悪くなかった。ほんの数日前のぼくなら、間違いなく満足しただろう。なのに、今日は何か物足りない。なぜ――?


「いや」

 

 本当は解っている。を超えられていないからだ。

 そう思うと、次第に不安がこみ上げてきた。

 USBに移したを母親に見られてはいないか、と。

 あごの先から滴が落ちる。

 ぼくは足を速める。

 データにはロックをかけてある。誰にも見られる心配はない。それなのに、万が一の事態ばかりが頭をよぎった。


 どこかでセミが鳴いていた。

 湿気を含んだ重い空気。喉につかえて咽そうだ。

 ゴミステーションの側を通るとき、微かに生臭いにおいを感じた。けれど、まだ日も落ち切っていない時間帯だ。檻のようなステーションの中には何もなかった。臭いは、だから錯覚で、ぼくの記憶が作り上げたイメージだった。


「……早く、早く帰らなきゃ」


 臭いの原因も、やはりだった。

 今日は九月一日。あれを撮ってから二日しか経っていない。だから思い出してしまうのか。五感に訴えかけてくる記憶。鮮明な記憶を――。


 いや、それすらも錯覚だ。

 あの写真を撮った時も腐った臭いなんてしなかった。

 けれど、ぷっくり肥えたハエたちは違ったかもしれない。ぼくの周りを嬉しそうに乱舞していた。

 ぼくはハエの渦の中で彼女を見下ろしていた。

 ぴくりとも動かない彼女を。

 そして、ぼくはカメラを構えたのだ。

 それを死体だと解っていながら。

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