後編

 小学二年の時から地元の少年野球チームに入っていた葉くん。野球が好きなのは知っていたし、中学でも続けるんだろうな、とは思っていたけど。よりにもよって、なんで茂根一……!? と私は愕然としたものだ。


 でも、葉くんはといえば――。


 すでに、私がここの中学だとおばちゃんから聞いていたらしく……グラウンドの脇で銅像と化して固まる私に気づくや、驚くふうもなく、ニッとイタズラっぽく笑った。


 当時はまだ一年生。こんなふうに練習を抜けて、わざわざ私に会いに来たりはしなかったけど。帰り際、ボールを取りに来るふりをして、私のところに――テニスコートのほうまで――来て、ネット越しにアイコンタクトだけしていった。


 言葉もなく、こっそりと交わらせた視線。それがたまらなくドキドキとしたのを、今でもはっきりと覚えてる。


 あの瞬間、何か呪文でもかけられてしまったみたいに。葉くんのことしか考えられなくなっちゃって。数日ほど、悶々と悩みに悩んだ挙句――思い切って母親伝いに連絡先を聞き、ちょこちょこと連絡を取るようになった。

 だから、今日のことも葉くんから聞いていた。

 葉くんが来る、て知って、楽しみで昨夜から眠れないくらいだった。でも、遠目で見れればいいや、と思っていたんだ。一目、葉くんを見れたらいい――もし、目が合ったらラッキー、てそれくらいしか期待していなかったのに。

 まさか、こうして会いに来てくれるなんて――。


「嬉しい……」俯いたまま、ぎゅっとジャージの裾を掴んでぽつりと言う。「会いに来てくれて、嬉しい……んだけどね」


 柳瀬やなせ葉一よういち――その名前を、私は野球部が口にするのを教室で何度か聞いたことがあるから……。

 宿敵、茂根一中のピッチャー。厄介なサウスポーのエースとして……大好きな葉くんの名は、ここでは忌々しげに語られる――。


「葉くんの学校とウチの野球部は……ライバルだから。一緒にいるところ見られると、ちょっとまずい、ていうか……」


 しどろもどろになりながらも正直にそう打ち明けると、少しの間があってから、


「ああ……そっか。紗凪、スパイと思われる?」

「え!?」

 

 スパイ……!?

 ぎょっと目を丸くして、思わず顔を上げる。


「まさか、そこまでは思われない……と思うけど」

「まあ、でも……立場が悪くなるんだな? 俺と一緒にいると……」


 腕を組み、思案顔を浮かべる葉くん。なるほど、と低い声で呟いて、「分かった」とこんがり焼けた顔に白い歯を覗かせて笑った。


「じゃあ、出直すよ」

「出直す……?」

「勝っても負けても……俺は今度の全中で最後だから。夏が終わったら、そのときは堂々と会えるよな」

「へ……」


 きょとんとしてしまった。

 ああ……そっか――と当たり前のことに、言われて気づく。もう私達も三年生。この夏が終われば、葉くんは引退で。もう茂根一の選手じゃなくなる。

 そしたら……いいのかな。きっと大丈夫……だよね。周りの目も気にせず、会っていい……んだよね。


 会いたい――な。


「うん……」


 自然と頰が緩む。ニヤけちゃう顔が恥ずかしくて、照れ臭くて……また俯いていた。


「よし」と気持ちを切り替えるように葉くんが言って、「じゃあ……そろそろ、試合始まりそうだから行くな」


 あ、そっか。試合……!

 慌てて顔を上げるや、思わず、「頑張ってね」なんて言葉が口から飛び出していた。

 その瞬間、葉くんはハッと目を見開いて――そのときになって、私も自分のに気づいて、「あ……」と慌てて口を押さえた。


 しまった……。


 あたふたと周りを見回していると、クツクツ笑う葉くんの声が聞こえて、


「ありがとう。頑張るよ。――紗凪のためにホームラン打つから」

「え……あ……打っちゃだめ!」

「応援してて」


 昔よりもずっと男らしくなったその顔に、ニッとやっぱり幼げな笑みが浮かぶ。そんな笑顔を見るたび、きゅうっと胸が締め付けられてしまって。


 だから、応援できないんだってば――て、そんな言葉も声にならなかった。


 キャップを目深に被り直すと、葉くんはくるりと身を翻す。

 グラウンドへと走り出すその足取りは軽くて、爽やかな風がふわりと吹き抜けていくようだった。


 眩いほどの陽光の中、すっかり大きく逞しくなったその背中が遠ざかっていく。そこに飾られた『1』という数字――。

 それは、去年から葉くんが背負うことになった称号のようなもので。葉くんの努力の証であり、チームの信頼の証。

 誇らしいような、もどかしいような。なんとも言えない感傷を覚えながら、その数字がグラウンドに並ぶ列に加わるのを見送った。

 

 葉くんは茂根一中の野球部で。そのエースで。ウチの野球部にとって、倒すべき相手で。だから……応援しちゃいけない相手で。

 でも、やっぱり……テニスコートに戻ると、グラウンドにその姿を探してしまう。『1』という物々しい数字を背負い、マウンドに一人佇むその背中を、固唾を飲んで見守っている自分がいて。葉くんがバッターボックスに立てば、私までぎゅっと力強くラケットを握り締めてしまう。


 いくらダメだと分かっていても、葉くんのことを応援してしまうから。

 青く晴れ渡った空に、葉くんが打ち上げたボールが飛んでいく。その行方を目で追いながら、漠然と悟る。私、葉くんのことが好きなんだな――て。


 今はまだ、誰にも言えないけど。

 夏が終わったら、そのときには言えるといいな。葉くんを応援したくてたまらない、この気持ち……。



*ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 本作は「5分で読書」短編小説コンテスト2022の応募作品となっています。もし、ちょっとでも、良かったな、と思われましたら、☆を一つでも頂けますと大変嬉しく思います。

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まだ言えない、君への気持ち 立川マナ @Tachikawa

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