2 きっかけは、つまらない誤解、つまらない喧嘩だった。
きっかけは、つまらない誤解、つまらない喧嘩だった。だが彼女はそうは思っていなかった。行き違ったまま、気づくと彼女の
今までずっと愛し合ってきたのに、これからも愛し合っていけるはずなのに、たった一度殺してしまっただけで彼女を永遠に失わなければならないなんて、そんな理不尽な話があってたまるものか。一度死んだ者はそれきり生き返らない。そんなひどいルールのせいで、私は私にとって誰より必要な人を永久に失おうとしているのだ。
ダムの上を走っているとき、白っぽい人影がヘッドライトに浮かび上がった。
ガードレールの横に立ち、車道にむかって前傾姿勢で、一歩踏み出して来るのが見えた。そしてもう一歩、二歩と。あわててクラクションを叩き、ブレーキを踏んだ。車はぎりぎり手前で停まった。
若い女だった。ふらついた足取りで近づいてきて、運転席側のドアの横でよろけて、車体に両手をついて身体を支えた。そしてそのままの姿勢で私のほうを見ていた。誰だ。まさか警察官とは思えないが。緊張しながら、窓を数センチだけ開けた。
「危ないじゃないか」と、私は押し殺した声で言った。
「……ごめんなさい」
その声の幼さに私は驚いた。なんだ、子供じゃないか。背丈はそこそこあるけれど、これは子供だ。懐中電灯で照らすと、まぶしそうに目を細めた。十代半ばくらいの、痩せた少女だった。痛々しいほど細い手足に、膝頭までのスカートとTシャツ一枚でひどく寒そうだった。
これでは風邪をひいてしまう、と私は思った。それどころか、こんな女の子が、こんな深夜にひとりでこんな場所にいたら、暴漢や強盗に襲われないともかぎらない。
「君、こんなところでひとりなの? こんな時間に。もうバスも無いだろ」
それに、と私は考える。すでに車と顔を見られてしまっている。もしこの子が何かのトラブルに巻き込まれて、警察とかかわるようなことになったとしたら?
取りあえず車に乗せてしまおう。どうするかはあとで考えれば良い。何事もなく家まで送り届けてやれれば、そしてそれっきり何もなければ、私にとってもこの子にとっても何よりだが、場合によっては人質にもできる。そして最悪の場合には、完全に沈黙させることも。物理的にはさほど難しくなさそうだった。少々身をよじって抵抗したとしても、細い両腕をつかまえてねじ伏せてしまえるだらう。もちろん、年若い少女にそんなかわいそうなことをしたくはないけれど。
私は微笑んで言った。
「よかったら、町まで乗せてってあげようか? 無理に勧めるつもりはないけど、遠慮ならいらないよ」
もっとためらうかと思ったが、少女は何も言わずにドアを開け、後部座席に乗り込んでバタンとドアを閉めた。草と水の匂いがした。
私は車を出した。車が揺れるとルームミラーの中の影も揺れた。
少女が逃げたりしなかったことで、私は少しほっとしていた。もしも走って逃げたりしていたら、とっさの判断でアクセルを踏み込んでいたかもしれない。
少女はドアにもたれ、窓ガラスに頭を預けて暗闇を眺めているようだった。
変な子だ。あんな場所で、危険を感じなかったのか。今も危険を感じないのか。
「夜中にこんなとこでヒッチハイクなんて、危ないよ」
なるべく軽く明るい声で私は言った。
「たまたま通り掛かったのが僕でよかったよ。どんな奴が通りかかるか分かんないからね」
少女は答えなかったが、ちょっとうなずいたようだったのが、ミラー越しに見えた。
「どこまで送ればいい? 家が嫌なら、コンビニでもファミレスでもいいし、始発を待つつもりなら駅でもいいけど」
しばしの沈黙の後で、「雲居台団地」と少女は答えた。住宅しかないところだ。おそらくそこに家があるのだろう。私の家からそれほど遠くない。
「君は中学生?」
女の子は首を横に振る。
「じゃあ高校生?」
しばらく間があって、少女は「どっちでもないです」と低い声で言った。
それ以上尋ねてほしくない様子だった。学校のことで何かトラブルがあるのだろうか。いろいろある年代だ。私だってそうだったから、想像は出来る。でも思春期の傷つきやすさをすっかりなくした今の私には、彼女の心を軽くする言葉を言ってやることはできないだろう。それは淋しいことだった。
「寒くない?」というのが、ようやく見付けた言葉だった。
少女はなにも答えなかったが、寒そうに見えたので、私はカーエアコンの暖房を入れた。
街へ向かって、県道を滑る。市街地の方の空はかすかに明るく見えた。その光の下では、まだ多くの人が起きて活動しているはずだ。早く戻りたかった。妻がいて生活と仕事がある私の街に。しかしそこで待っているのはもう今までとは別の街、様変わりした世界であるはずだった。
二つ目の集落を通り抜けたあたりで、少女が言った。
「ちょっと、停めてください」
「気分が悪いの? すぐ停めようか」
「コンビニとかで」
「コンビニならもう少し先にあるよ。そこで降りる?」
「まだです」と女の子は言った。「トイレだけ」
そこから数キロで、最初のコンビニエンスストアがあった。店のサインと数軒の民家の明かりの他は全くの闇だった。店の大きさと不釣り合いに広い駐車場に車を入れてエンジンを止めると、四方から何種類もの虫の声が重なり合っていた。
少女はドアを開けてアスファルトに降りた。店員に顔を見られたくないので私は車で待つことにした。ハンドルにもたれて、誘蛾灯に照らされた少女の細い後ろ姿を見ていた。折れそうな脚で足早に歩く姿は精巧な時計細工のように不思議で、胸を苦しくさせた。
少女が自動ドアを通って光の中に消えると、私はシートの背もたれを倒して身体を伸ばし、瞼を閉じた。眼の奥には重い物があった。
待ち構えていたみたいに、頭の芯が痺れるような眠気がやってくる。私は本当は寝室のベッドにいるのではないか。そんな気がした。眼を開ければ、ベージュのカーテンと、ベッドサイドのスタンドの明かりと、隣で寝息を立てている妻が見えるのではないかと。朝になれば、眠りの中を通り抜けて、本当に元のベッドに戻っているんじゃないだろうか。
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