3 「ねえ」と枕に頬をうずめた彼女が言う。そしてくすくすと笑う。

「ねえ」と枕に頬をうずめた彼女が言う。そしてくすくすと笑う。

 寝室のベッドの上で私は目を開ける。オレンジ色のスタンドの光に包まれた妻が、肩まで毛布で包んで、私の隣で微笑んでいる。幾度となく繰り返されてきた、私たちの夜のひとつ。

「あなた、寝言でずっとわたしの名前を呼んでたんだよ」と妻は言って、また笑う。「苦しそうだから、起こそうかとも思ったんだけど。苦しいときにあなたが呼ぶのはやっぱりわたしの名前なんだなって思ったら、ちょっと嬉しくて、ずっと聞いてたの。もっと呼べ、もっと呼んだら助けてあげる、って」

 ひどいな、と私は言う。起こしてくれればいいのに。

「どんな夢見てたの?」

 覚えてないよ、と言って私は首を振り、手を伸ばして彼女の髪に触れる。長い髪の間にある小さな耳にも。そして肩に手を回し、抱き寄せる。彼女は私の鎖骨の下に鼻先を押し当てた。

 私のパジャマの裾から彼女の手が入ってくる。くすぐったいよ、と私が言うと、妻はくすくすと笑う。背中に触れる彼女の手のひらは、濡れたタオルのように冷たく、長い髪からは、シャンプーの香りに混じって、かすかに土の匂いがした。

「ここは暖かいんだよ。たぶんあなたが想像してるより」と、彼女は言う。「あなたもここに来てよ」

 土の中の彼女の手の冷たさが、私の背中で広がってゆく。まるで冷たい手のひらそのものが、だんだん溶けて広がってゆくみたいに。



 私は目を開けた。

 ここは寝室のベッドではなくて車のシートだ。分かっている。コンビニの駐車場、軒下の誘蛾灯の紫の明かり。後部座席に少女はいなかった。

 背中が冷えていた。車の中はさっきよりもずっと寒くなっていた。私は眠っていたのだろうか。腕時計を見る。コンビニに来てから何分経っただろうか。分からない。少女は、逃げたのだろうか。それともまだトイレにいるのか。

 少し迷ったが、店の中に様子を見に行くことにした。ここならもう、かなり街に近い場所だし、店員に顔を見られたとしても致命的ではないだろう。それよりもあの少女のほうが気がかりだ。逃げてしまったとしたら? 今になって急に私は不安になる。私があの時間にあの山中にいたことを知っている、ただ一人の人間を、このまま帰らせていいのだろうか。見つけたときにすぐダムに突き落としておくべきだったのかもしれない。暗闇を落下していく少女を私は想像する。恐怖に歪んだ顔を最後に一瞬だけ見せ、踊るような動きで回転しながら、谷底に向かって遠ざかってゆく。やがてダムの擁壁に頭がぶつかり、頸が折れる気味の悪い音が響く。華奢な身体は弾かれたように川辺の大岩にたたき付けられ、全ての骨が砕けてしまうだろう。血にまみれた髪の毛だけが、コンクリートの擁壁にこびりついて残る。

 雑誌の棚の奥にあるトイレから、濡れた手をデニムのスカートでこすりながら少女が出てきた。

 明るいところで見ると、思っていたよりもずっと健康的で血色のいい顔をしていた。安堵のためいきをついた私の顔を見て、女の子はわずかに口元を動かした。それは微笑みと呼べるほどのものではなかったが、少なくとも私の存在を拒絶してはいなかった。

「何か暖かいものでも飲む?」

 いてみると、少女はこくんとうなずいた。

 保温ケースの缶飲料の中から少女はホットレモンを、私はココアを選んだ。私が代金を払っている間、少女はレジ前のワゴンに並べられた安売りのスナック菓子をぼんやりと眺めていた。

「晩御飯食べてないんじゃない?」と私は尋ねた。「お腹空いてるだろ」

 私の言葉に、少女は一瞬目を泳がせて、溜め息をつくように言った。

「忘れてたけど……」

「なにか買って食べよう」

「バカみたい。こんなときでも、お腹は空くなんて……」

 そして泣きそうな眉をした。ひどく空腹なのは私も同じだった。確かに彼女の言う通り、滑稽なことだ。会計は私が持った。ありがとう、と少女は言った。

 コンビニの駐車場で、私と少女は運転席と助手席に並んで、買った食べ物を分け合った。

「どんなに悲しい事があっても、大事な人にひどいことをしてしまっても、死にたい気分でも、忘れてるかもしれないけど、お腹は空いてるんだ」

 私はお握りのビニール包装を剥がしながら言った。

 フランクフルト・ソーセージを口にくわえたままで、少女はうなずいた。

「君の言うとおり、たしかに馬鹿みたいだ。心がどんな状態でも、体は今までどおりに生き続けようとするなんて」

「ひとついていいですか?」と少女はフランクフルトの串を噛みながら言った。

「なに?」

「死にたいとか思ったこと、あるんですか」

「あるよ。何度もある」

「そうなんだ」そして、独り言みたいに言った。「意外。そんなふうに見えない」

 その言葉は、私の胸を衝いた。

 そうだ、どうして、今夜の私は死ぬことを全く考えなかったのだろう。かつて死はあんなに近くにあったのに。

 長い間、この世と自分のほとんど何もかもを嫌悪していた。この子ほどの歳のときには、ほとんどいつも死ぬことが念頭にあった。それなのに、私は今夜、一度たりともそのことを考えなかった。なぜだ。心の中でいちばん美しかった人を、この手で消し去ってしまったのに。

 少女は唇を拭った指をぺろりと舐めると、串だけになったフランクフルトを窓の隙間から外に捨てた。

「だめだよ、道にゴミを捨てちゃ」

 反射的に出た言葉に、女の子は一瞬固まって私の顔を不思議そうに見た。まるで、自分が不審な大人の男と二人きりでいることに、初めて気がついたとでもいうみたいに。

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