夜走る

猫村まぬる

1 明かりの消えたままの部屋で

 明かりの消えたままの部屋で、いつの間にか夜のニュースが始まっていた。

 テレビの前では黄色いパジャマを着た妻が仰向けに寝転がり、長い黒髪がカーペットの上で綺麗な扇形に広がっている。動かない彼女の姿が、次々に変わる画面の色に染まる。戦車の走る黄色い砂丘や東京の白い街頭が、固く目を閉じた顔を照らした。キャスターの青いスーツが画面に映ると、彼女は死んでいるような顔色になった。

 インスタントコーヒーを二杯入れて、私はダイニングテーブルの前に座った。ブラックで飲みながら、彼女の席に置いたもう一杯のコーヒーから湯気が立つのを眺めた。私が飲み終えても彼女のコーヒーからは湯気が上がり続け、宙に消えていく。

「コーヒー冷めるよ」と私は言った。

 答えは無かった。

 二人分のコーヒーを入れることは、私たちの間では和解の合図だった。それを彼女が無視するのはよほどの場合だけだ。

 自動車のコマーシャルの夕日が、ほの赤く部屋を照らし、彼女は再び生気を取り戻したように見えた。小さく尖った顎や軽く上を向いた鼻が、とても可愛い。

「起きろよ。風邪ひくよ」

 そばに立ち、彼女の肩を揺すってみる。

「本当は生きてるんだろ?」

 腋の下をくすぐったり、鼻をつまんだりもしてみた。目を覚ましてくれさえすれば必ず仲直りできる。今までだっていつもそうだった。

ねるなってば」私は溜息をついた。「殺すつもりじゃなかったって、言ってるじゃないか」

 彼女の胸に耳を当て、もう一度鼓動を確かめる。ボディーソープの香りが鼻をくすぐり、パジャマ越しに頬に触れる乳房は柔らかかったが、何度聞いても同じだった。何も聞こえない。そして体温も失われつつあった。

 再びの溜め息とともに首を振り、テーブルに戻ってコーヒーの残りを飲み干すと、私は腰を上げて、ゴミ捨て用のビニール袋を探した。流し台の下や、食器棚や、あちこち開いてみたが見つからない。洗面所にもない。考えてみれば、ゴミを出すのは私の役目だが、袋を用意するのはいつも彼女だった。

「ねえ」できるだけ何気なくリビングの彼女を振り返り、尋ねてみた。「ゴミ袋どこ?」

 やはり返事は無かった。

 ビニール袋はあきらめて、青い毛布で彼女を包むことにした。厚くて重く、暖かい毛布だ。去年の秋の台風で停電したときには、二人でこの毛布にくるまって夜を過ごした。不安を打ち消そうと、ロウソクの火を前に子供の頃の思い出を話し合い、まるでキャンプみたいだった。

 そういえば、私たちはほんとうのキャンプに行ったことは一度もなかった。彼女はアウトドアよりも温泉や田舎町にある小さな旅館が好きで、結婚前から私のフォルクスワーゲンであちこちに出かけた。北陸の小都市の旅館で、老朽化した階段を彼女が踏み抜いた時は、転げ落ちそうになった彼女を私が抱きとめ、いっしょに踊り場にしりもちをついた。ふたりとも、生まれてからあんなに笑ったことは無かったんじゃないだろうか。ほんとうに楽しかった。

「あれは八年前だよね。金沢から高岡まで回ってさ」

 毛布は小柄な彼女の身体を包むのに十分な大きさだった。彼女の顔が隠れようとするとき、冷たい唇に口づけて私は言った。

「楽しいことばかり思い出すんだ。しばらく忘れてたような事も。こんなことになったけど、僕は君が好きなんだ」

 もし彼女が何かを言うことができたなら、こう答えるにちがいなかった。

「うん、わたしも楽しいこといっぱい覚えてるよ。さっきはごめんね」

「僕こそ悪かったよ」

 毛布の上からビニールひもでしっかりと縛る。これだけ厳重に包めば大丈夫だろう。

 裏口からガレージに出ると、乾いた涼しい風が吹いていた。フォルクスワーゲンのトランクに懐中電灯とスコップを積み、部屋に戻って毛布に包まれた彼女を抱き上げ、思いがけない軽さに少し驚いた。

「だって、がんばってダイエットしてたのよ」と彼女が言いそうな気がした。生きていればそう言うに違いないと思った。

 彼女をトランクに入れて車を出す。五分で住宅地を抜けた。畑の中の県道では、人家の明かりも対向車のヘッドライトも数えるほどで、たまに、パチンコ屋やコンビニエンスストアやファミリーレストランのネオンが路傍に輝きながら過ぎていった。

 大橋を渡ったところでJRの踏切にひっかかった。黒く、重く、長い貨物列車がゆっくりと通っていった。誰も乗っていない列車を見送るのは寂しかった。赤い尾灯が闇に消えないうちに、遮断機が上がった。

 谷筋の道を山へ向かうと灯はさらにまばらになり、左右から尾根が迫った。火の見櫓のある小さな集落を通り抜けたのを最後に人家は絶え、森が始まった。

 きれいに植林された杉の中をうねりながら、県道は長々とつづいた。真っ直ぐな幹をヘッドライトでかき分けるように進む。ダムを越えたところで県道と別れ、細い林道をさらに登ってゆくと、やがてアスファルトは途切れた。

 未舗装の道をさらに三十分走ると、そのあたりの森はもう長年人の手が入っていないように見えた。坂が少しなだらかになっている場所で小さな空き地を見つけ、車を止めた。

 静かだった。土やコケの匂いを含んだ、冷たく湿った空気が流れていて肌寒かった。

 スコップと懐中電灯を持ち、足下を照らしながら森の中へ歩いた。平らな場所が見つかると、私は木の枝に懐中電灯を吊して穴を掘りはじめた。

 土は思いのほか堅く、穴を広げるのはずいぶん骨だった。いくら掘っても穴はなかなか大きくならなかった。たちまち暑くなった。息を切らせて掘りつづけた。腕がしびれ、汗だくになった。どうしてこんなことをしなくちゃならないんだ。彼女を絞め殺したりした自分の愚かさに腹が立った。そして日頃の運動不足を恨んだ。一緒にテニスを始めようと彼女が言いだしたときに付き合えばよかったとも思った。

 どれくらいの時間掘りつづけたのか知らない。森での時間の経過はよく分からなかった。穴はようやく彼女の身体を収めるほどの大きさになった。

 トランクを開け、彼女を抱き上げた。腕の疲れのせいで今度は重く感じた。

「お別れだね」と私は言った。「こうするしかないよ。僕らのプライバシーに警察だの裁判所だのが首を突っ込んできたり、身体の隅々まで調べられたりするのは、君だっていやだろ」

 彼女を穴の側まで運んで落ち葉の上に起き、その横に座って一息ついて、毛布ごしに彼女の顔をなでた。

「しばらくしたらまた会いに来るよ」

「いいの? そんなことして」と彼女は言うだろう。「足がついて警察に捕まっても知らないから」

「警察なんか関係ないさ」

「馬鹿ね。たとえ私がまだあなたを好きでも、法律は許してくれないのよ。殺人なんだよ」

「よせよ、僕らの間で『殺人』だなんて。ただの喧嘩だったじゃないか。殺すつもりじゃなかったのは、君だって分かってるんだろ?」

「あなたいつもそうなんだから、まったく」彼女は溜め息を吐く。「そんなつもりじゃなかった、傷つけるつもりじゃなかった、嘘つくつもりじゃなかった、そればっかり。そんなの、わたしには通じても世の中では通用しないよ。しっかり殺しておいて、殺すつもりじゃなかったなんて、誰が耳貸してくれるのさ。殺しちゃったっていうことは、殺すつもりだったってことでしょ。同じことだよ」

「ごめん。悪かったよ」

「謝ってくれなくても良いんだけどな。わたし別に怒ってるわけじゃないの。ただ死んでるだけ。でも気楽よ。もう何も関係ないし、何も気にしなくていいんだから。もうあなたのことも気にしない」

「さみしくなるな」

「さよなら」そして彼女は言う。「だけど今でもあなたのことは好きだよ。もし生きてたらの話だけどさ」

 最後に顔を見ておこうかとも思ったけど、微笑んでくれることはないだろうし、もういちど包みなおすとなると大変だからやめた。彼女の身体を押して穴の底へ押し落とし、土をかぶせた。青い毛布の最後の一片が見えなくなると、少し涙がでた。

 穴を埋めた跡を落ち葉で隠して車にもどり、私は林道を下っていった。前にも後にも車は見えなかったが、法定速度で走った。万が一ここで事故を起こしたりしたら面倒なことになる。

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