ささやかな悪事
結騎 了
#365日ショートショート 145
「家まで」
またこの手の客だ。23時台の繁華街で客を拾うと、こう言い放たれることが多い。私がお前の家を知っているはずがないだろう。
「すみません、お客さま。ご自宅はどっち方面になりますか」
「……あ?」
これはいけない。相当酔っている。傲慢な赤ら顔に嫌気がさすが、そうはいってもいられない。タクシードライバーは、別名、酔っ払い輸送屋だ。
「取りあえず、坂。坂あがってくれ」
「ああ、市街の方面ですね。かしこまりました」
のそり、と車を走らせる。お願いだから吐いてくれるなよ。バックミラーで客の様子を確認すると、赤ら顔のまま傾いていた。これなら大丈夫そうだ。寝潰れるタイプらしい。
「お客様、ご住所を聞いてもよいでしょうか」
「え?あ、ええと」
次第に街灯が少なくなり、大型トラックが停められる広い駐車場のコンビニを過ぎた頃、やっと住所を聞き出すことができた。くそ、高級住宅街じゃあないか。
「しかし、すっかりおさまりましたねぇ、例のウイルスも」
何気なく世間話を振り様子をうかがう。バックミラーの客からは「ああぅ」と声にならない返事。思わずハンドルを右に切る。さて。
「こんな時間までご苦労様ですね。背広ですから、会社のお付き合いですか」
「うーむ」
答えの代わりに、ネクタイを緩める動作が見えた。傾く角度がどんどん増している。あと十分も走れば完全に横になってしまうだろうか。立ち並ぶ戸建てを過ぎ、過ぎ、過ぎ……。またもやハンドルを切る。あそこの家も電気が消えている。あそこも。もう多くの人が寝た頃だろう。車内に届く無線の声すら、後ろの客には子守唄だ。さあ、もう少し。ここでこっちに折れる。そうだ。
「さあ、着きましたよ」
「ええ?」
ゆっくりとスピードを落とし、停車。震える手でトレイに五千円札を置いた客に、数百円のお釣りを渡す。
「まいど」
逃げるようにギアをドライブへ、まっすぐに夜道に溶けていく。ざまあみろ。渾身の遠回りを思い知ったか。
ささやかな悪事 結騎 了 @slinky_dog_s11
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