了
さて、あの夜の八時頃。河野邸では何が起きたのだろう。
「おかしいんだ。誰もいないんだよ」
篤志は家族を散々探し回った二階から、綾香の待つ玄関ホールをのぞき込んだ。
「奥さんもいないの」
綾香は紺色のショールから白い喉元を覗かせる。
「ああ、あいつ何やってんだ」
「気づかれたんじゃないの」
「そんなはずはない。あいつは気づくようなヤツじゃない」
綾香はふいに口角を上げた。笑ったと言うより爬虫類が口を開けたような仕草だったので、篤志はゾッとした。
「ねえ、折角いないんだから、早く準備しなよ」 綾香は髪をかき上げた。
「今、帰って来たらどうするんだよ」
「だからよ。きっとそろそろ帰って来るから」
「そうか。そうだな」
今晩、妻のひとみを自殺を装って殺すつもりだった。篤志はまず軍手を出してしっ
かりとはめた。綾香にもサイズの小さいものをはめさせた。そしてカバンからロープを引っ張りだした。それから庭の物置から脚立を出してきて玄関ホールの真ん中に立てた。長い梯子を二つ折りにして金具で留めるタイプのものだったが、長いこと使っていなかったので足をのせただけで軋んだ。ホールの天井からはシャンデリアが下がっていた。篤志はシャンデリアを外すと、綾香に渡した。
「可愛いシャンデリアね」
「こんなもん付けたくなかったんだが、うちのヤツが気に入ってな」
このやたらに軋む三脚もあの時買ったんだったな。篤志は舌打ちをしてシャンデリアを吊り下げる金具にロープを通す。これだけでは人一人を吊り下げるには強度が足
りないだろう。篤志はロープの端を二階に投げた。
「どうする気なの」
「二階の手すりに縛り付ける」
「なるほど。賢いわね」
「生意気だぞ」
「生意気な女は嫌い?」
篤志は綾香を抱きしめると乱暴なキスをした。
「痛いわ」
「お仕置きだ」
ロープを二階の手すりにしっかりと結わえ付けると、また階段をおりて、ブランと垂れ下がっているロープの下へ戻った。
「あと少しだ。足音はしないか」
「ドアのそばで見張ってるわね」
綾香はドアのスコープから外を覗いた。誰もいなかった。
「あたし、これから友だちと飲み会だから先に帰るね」
「冷たいヤツだな。一緒にいてくれよ」
「だって友だち待たせるとうるさいし」
ガタガタと揺れる脚立の左右の脚の上から二段目にようやく両足を広げて立つと、日頃とは違う景色が見えた。自分の家ではないようだ。どこか違う場所、例えば暗い舞台の真ん中で芝居を演じているような気がした。
「どうかしたの」
唇の赤い毒婦が現実に引き戻す。
「いや、別に」
篤志は余ったロープの片端を手繰って二重の輪に結んだ。
「出来た?」
「うるさいな。いま結んでいるんだ」
暑くもないのに汗が流れる。何度も結んだから結びこぶが蛇の頭のようだ。
「ねえ、それって、小さくない」
「何が」
「そんなに輪が小さかったら、頭が通らないって」
「うるさいな。バカを言うな。見てろよ、ほら」
篤志は背伸びをして、自分で結んだ輪に頭を差し入れた。そのとき。
バランスを崩した脚立の脚がパタリと閉じて、宙に篤志を残したまま耳障りな音を立てて倒れた。
目を丸くした綾香は床にしゃがみ込むと声を上げて笑った。
そしてそのまま床から今夜会う予定の仲間たちにラインを送った。
「今から行くよー。先に注文通しといて」
それから外へ出て、篤志に貰った合鍵で鍵を掛けた。
< 了 >
容疑者は ウソを つかない 来冬 邦子 @pippiteepa
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