おかあさん

 王朝時代の栄華の名残なごりが色濃くけぶる最上階の通廊は、相変わらず氷河刺繍の絨毯と正弦波文様のベルベットの壁紙で統一されており、ここまでくると私の目は慣れた。


「何からなにまで高級品で目に毒ね。素朴な色を増やしたらいいのに」

胡粉ごふんで良ければ、僕たちの出番だ」

「却下。白は来世の分までみたわ」

「私も、胸焼けがします」


 彼が得意気に顔料入りの小瓶を取り出し、それを私たちが突き返すという軽いやり取りがあったのは最初だけで、言葉が尽きるにつれて徐々に空気が重たくなりだした。

 配下の衛兵は途中で待機を命じられて以降、大広間の甲冑像のごとく微動だにしておらず、四つの足音が代わるがわる通廊の静寂を支配する。

 バルタザールの背肉せじしを流れる魔力からは得体の知れない思惑が読み取れたし、フーカのぴりついて話しかけにくい雰囲気も好きじゃなかった。

 なんだか息が詰まりそうだ、と思っているうちに歩幅が縮んでいき、私は少しずつ遅れてしまう。

 でもペースを合わせる気にはなれなくて、ひとり立ち止まり、常盤木ときわぎのうちかさなった瑞枝みずえに注目する。

 緑だけでは寂しかろうと落葉らくようを控えた広葉樹のようにあかく染めてみる。突然の紅葉こうようを興味深く思ったのか、常盤木がわずかに香りを強めた。


「こういうの、僕は好きだ」


 となりで彼の声がして、私は顔を上げようとしたけれど、それ以上に気が滅入っていたのでやめた。

 するとあぎと頬桁ほおげたに湿った息がかかる。はっとなって振り向く。彼の唇が、私のくちに触れていた。

 

「クエレさん」


 なぜ、このタイミングで?

 火照ることも冷めることもせず、疑問のうずが頭の中を駆けずった。彼のキスはいつもいつも私を悩ませる。


「まだ足りないな」


 今度は指先が擬態の頬に触れる。私は一歩、後ずさった。彼はそれよりも大きな一歩で距離を縮め、吐息交じりで私の唇を塞いだ。あまりに一方的で、乱暴な口付け。嫌悪は海脹うみぶくれのようにさんざめく。


「こんなところで、やっ……」

「ごめん、アイル。僕のわがままを許してほしい」

「うちに帰ってからなら、いくらでも」

「今じゃないとだめなんだ」

 

 形ばかりの抵抗を試みたが、構わず壁に押しつけられる。豹変ぶりが怖かった。次第に彼の輪郭が歪む。小夜嵐さよあらしに波立つ淡海あわうみの水煙を思い出した。

 

「あれっ、なんで……」


 火傷しそうになって、頬を拭う。ようやく熱い涙が流れていると知る。それほどまでに嫌で嫌でたまらなかった。

 必死に顔を仰け反らせたりするものの、身体が言うことをきかずに為すがままを受け入れる。

 求められるのは嬉しいはずなのに、そこに込められた意味を心が拒絶していた。彼は語らないが、私の魂が訴えかけてくる。私はこのキスを知っているのだ。  


「僕はね、」


 短く息を継いで、彼が何かを言おうとしている。

 決して聞いてはいけない気がしたから、私は唇を塞ぎ返した。彼の表情が驚きに変わった。


「みんないますから、これで我慢してください」


 かかとを浮かせ、長い手を背中にまわし、折り返した余りで涙痕るいこんを拭き取る。

 込み上げた愛おしさのおかげで嫌悪が薄まる。周りの足音は聞こえない。これ以上はいけない、二人を待たせている。物足りなさまで消えないうちに唇を離し、彼をどこか遠いところへ送り出す、といった覚悟で背中を叩いてあげた。

 彼は呆然と、こちらを見つめる。


「戻りましょう」

「うん」


 互いに愛情よりも羞恥心と後ろめたい気持ちのほうが上回ったと思うので、むつかしく凝り固まった彼の眼間まなかいに手を伸ばし、優しく揉みほぐすことを終わりの合図とした。

 彼女らはアラベスク木彫もくちょう扉前かどさきで足を止めていた。合流の際にまじわった視線が気まずくて、なんとなく頭を下げてやり過ごす。

 バルタザールは上の空といったようすでぶつぶつと呟いており、彼の奇行に無関心であった。

 フーカも渋い顔で「早かったのね」と言うにとどめ、行為自体を咎めることはなかった。

 お咎めなしには安堵したけれど、歯車がずれた不快感に首をひねる。だがその直後に響き渡った彼女の足音によって疑念はおおい隠された。

 魔法で履き替えたばかりのピンヒールの爪先が、マナタイルの通廊を蹴りつけて彼の太腿のあいだに挟まる。

 動揺した。

 だってキスだと思ったから。

 実際はそんなことなくて、真っ直ぐに開いた五本の白い花弁で彼の心臓を温めているだけだった。

 空気をんだきり、私は何も発せなくなる。診察行為ともスキンシップとも思えないし、彼にしても警邏けいらの魔女に鼻の下を伸ばしきっていたときとは違って真剣そのものなのだ。


 瑞々しくもれ残った果実が渡り鳥のくちばしを受け入れるように、表情にたくわえた苦みを抜きながらフーカが問いかける。「もういいの?」

「いいんだ」と彼が答えた。


 それを聞いて、横顔に何度目かのかげがかかる。彼女にはやはり友愛を超えた感情があると、おんなの勘が告げていた。

 必要以上の詮索せんさくは精神的な自傷行為に過ぎないと知っていてなお、想像の飛湍ひたんかさを増していった。 

 大抵の場合、思い浮かべるのは過去にカラダを許し合った男女間にのみはぐくまれる、隅々まで知り尽くしたふうな独特な雰囲気であろう。

 しかしこのときの二人が見せた表情からは、全く別の、記憶の底に埋没していた光景を思い起こす。かつて仲睦なかむつまじい関係の兄妹をにかけたとき、彼らが私に対してあらゆる魔術や武器ががらくたに等しいと悟ったとき、それでも絶望に挺身ていしんくじかれることなく互いを護り抜こうとし、最期には来世のちぎりを交わして力尽きる、あの瞬間と重なる。

 二人が、あれに似ている。

 彼がよく言っている、あれだ。

 あと一息で何かを掴めそうな気がする。私は言語として意味を知っていながら、弱者の戯言だとか、餌同士のかばい合いだとかあざけっていて、でもそうじゃなくて、そうじゃなくて……。

 名残惜しそうに、フーカのてのひらが彼の胸を離れる。わけもなく背筋があわ立つ。絵になる二人だと、そう思って――。

 私はこのとき、前触れもなく唐突に、人間を理解する。飛空艇ひこうきふなばたの外板がなぜその形でなくてはいけなかったかを月の海嘯うたごえるように、正しい手順を踏まずにニンゲンの一枚絵を描き上げた。

 そうだったのか。

 あれこそを、美しい、と呼ぶんだ。

 絵描きである彼が、これまで芸術という手法を用いて私に何を学ばせたかったのか、はっきりとわかる。

 理解は更なる理解に発展する。どうりで、人間たちはあのとき、あの瞬間……。歓喜の電霆でんていが辺縁系のすわえとどろいた。魔物の価値観が壊れ、無数の細胞分裂を繰り返し、ヒトの器を成していく。心地よかった。生の快楽とは畢竟するにこういった理解の瞬間なのだと痛感した。

 ある種の絶頂を迎えた私は、放心状態で立ち尽くす。不意に腰のあたりがほの冷たくなって、そこにフーカの弓手ゆんでが添えられていると気づくのに時間を要した。


「やっと、あたしたちの隣を歩いてくれる気になったのね」

「えぇ」


 馬鹿な話だ。私は見当違いの方向に突っ走っていたのだから。姿を真似ることや、脚を生やすことは、人間に近づくことではなかった。

 私がヒトを名乗るために欠けていた最後のピース。それは私自身が変わること。絵を描くものが必ずしも手でなくてもいいように、立派な脚でなくとも同じ方角を目指せたのだ。

 

「約束、守ったからね」


 夢を叶える手伝いをしてあげる。あんな気休めの口約束をおぼえているだなんて律儀にも程がある。ほんと、有耶無耶にしてしまえばよかったのに。


「揃いも揃って、馬鹿なひとたち」

「まあね」


 そう言って離れていく背中を見ていたら。


「おかあさん」

 

 ありえない言葉が喉元を通過したと思い、私は息を止めた。本当に無意識だったので、自身の言い間違いを憶えていなかった。


「なに?」

「ううん、なんでもない」

「変な子」


 ひょっとすると彼女は呼びかけのはずみに生じる指向性の高い魔力に反応しただけであり、単語までは聞こえなかったのかもしれないし、端から言い間違いなどはなかったのかもしれない。

 舌の上に転がる残り香を舐め取って強引に喩えるならそうだな、安らぎと懐かしさを相半あいなかばする原風景のような味だった。


「きみはこれから、ヒトとして生きなよ」


 彼はというと緑杖をいて順路にいたフーカとの立ち替わりで、随分と周回遅れな後押しをしてくれた。


「実はですねえ、ジェイドさんにも言われたんです。先を越されちゃいましたね」

「……僕がずっと言えなかったことを、あの男は易々やすやすと言ってのけたんだな」


 顔をくしゃくしゃにして感情を吐き出すのが彼らしくなくて、でも上手くいかないのは彼らしくて、思わず変な声が出ちゃった。 


「言い回しも、あなたよりカッコよかったです。……というか、いいんですか? 私、鉄とか噛み砕けますけど、ちゃんと仲間入りできてます?」

「錬金街じゃあ鉄を溶かす人たちがいる。それくらいどうってことはない」

「私は首をられても生きていけます」


 首をねる仕草で返すと、彼もその仕草に同調しながら口角を吊り上げる。


「魔獣災害や飢饉ききんに不景気……世の中は望まずとも色々なことが起きるからね。自慢じゃないが僕は複数回、用済みだとクビを切られた。しかしどうにも死ねずにしぶとく生きてる」

「そうじゃなくて」私はだらしなく垂れたくちを持ち上げ、こちらも自慢ではないのですが、と苦笑じりの前置きをする。「あなたがたの強さは認めます。けれどもそれ以上に私は強すぎる。いまさら食べたりとかはないと思いますが、私が意図していなくても、何かの拍子に人間を傷つけてしまうことはあると思うんです」


 弱い生き物にとって強い生き物はただ存在するだけでも暴力だという、この真理を綺麗事で覆すことはできない。名乗るのは自由だし、できることなら名乗って生きていきたいが、自分がヒトに擬態する魔物に過ぎないと思いだす瞬間が怖かった。

 私は確かな足取りで幸福に向かって歩き続けている。不幸が遠のいた分だけ、ふと振り返ったときにぴたりと追いすがる闇の深さに怖気づく。だから怖いといっても、どきどきする怖さのほうだ。


「人間だって人間を傷つける。ときには戻るといったきり戻れなかったり、幸せにしてやると誓ったくせに不幸にしてしまったり、どうにもならない大きなものに責任をなすりつけ、無力な自分から目を逸らそうとしたりする。それでもいつかは二本の脚で踏ん張って、過去のあやまちと向き合いながら成長していくんだ。心のうちに飼い慣らした攻撃性を正しく恐れられるのは、他でもない人間の証だよ」


 私の好きな声と語調を散りばめた台詞で言いくるめてやろう、という魂胆が見えみえだった。


「……あなたも、自分自身が怖いのですか?」


 わざわざ余計な言葉を付け足して本心を隠そうとしても無駄だ。まちがい探しは得意だからね。ただし彼に限って。

 彼の憂苦に染まった眼睛がんせいは二転、三転と逃げ場所を求めていたが、しばらくすると私の下腿かたいを視線の寄る辺とした。


「うん。とても大切だった人を、僕は守れなかった。小さな約束すら満足に守ってやれなかった。不甲斐ない自分を棚に上げて世界を憎んださ。のうのうと生きている人間を片っ端から殺してやりたいと思った。腹の底では薄墨うすずみを吐いたような感情がうずくんだ。僕の本性はどうしようもなくケダモノで、そんな僕自身に怯えている。きみのような力を持たずに生まれてきてよかったとさえ思う」


 激情に支配されやすい一面があるのかと、穏やかな心持ちで聞いていた。本音を言うとちくちくと痛む箇所もある。でも会話の登場人物とおぼしき幼馴染には、もう痛みを感じられる身体がないのだから、ここは痩せ我慢に徹してやるのが生者の礼儀だろう。


「あなたは十分、頑張ったのですから。およばなかった過去について気に病むことはありません……いえ、病むべきではあるのでしょう。しかし、あなたが大切にしたいと想えるほどの女性だったのであれば、彼女もまた同様にあなたを大切にしたいと想っていたはず。二本の脚とやらで立っているあなたが、その子のねがいを引き継がなくてどうするんですか。……あなたの想い人は、後生を愛に呪われて過ごす無様な一途を手放しで喜ぶような、その程度のおんなでしたか?」


 理屈未満の根拠のない自信が私の唇をこじ開けた。どういった形であれ、彼を愛していたと断言できる。なぜならこの私が選んだおとこを、他のおんなが放っておくわけがあるまい。


「……どうかな。優しい子だから、鬱陶うっとうしいくらい叱ってくれるだろう。涙と鼻水にまみれてそれを僕の服で拭きながら、自分だって精一杯のくせに強がってさ。あなたのかせにはなりたくない。二度と思い出さないで。さんざん突き放した後、海風みたいに透き通った声で、ありがとう、って言うんだ」

「いいおんなじゃないですか」


 彼は力強くうなずいて鼻翼をこする。双眸そうぼうは輝きを取り戻していた。


「間違いなく愛していた。彼女のためならこの命を引き換えにしたって惜しくはない。だがそもそもの話、のだとしたら? そのせいで彼女が苦しんでいると知ってしまったとしたら――今すぐにでも呪いを解いてやりたいと、そう思うよな」


 息の切れ目の鋭さに面食らう。また歯車が大きくきしむ。私の思い描くヒロインと、彼の語るヒロインとで食い違いが生じている。


「それってどういう」

「扉が開きかけてる。はやく追いつこう」


 はぐらかされてしまった。


「よろしいかな」


 気が遠くなるほど長い呪文を詠み終えたバルタザールが、王室の扉を〈開錠〉する。乾いたノックが響き、扉が開く。

 内側に奇妙な気配を感じ、背筋に冷たいものが滲む。

 私は、荊棘を食いしばる。

 もはや予感ではなく、確信だ。外開きのアラベスク木彫の向こうに、ずれた歯車の音が続いている。





 花は散り際が美しい。嵐や吹雪ふぶき、ときにはいかだと表現されるように季節の暮れなずむ頃合いにかけ、自然をつかさどる精霊たちは落英繽紛らくえいひんぷんけんを競う。

 そして私たちは、たとえ宙を舞う一朶いちだにきな臭い浅緋あさあけなどは見られなくとも、貝寄かいよせの芳菲ほうひにどことなく死を意識する。

 思うに、美と死は身分の異なる男女の逢瀬おうせに似ている。雄雌の判断はつかないけれど、たぶん草葉のかげで交尾している。

 命も同じだ。

 あのとき彼とフーカのやり取りに瀕死の兄妹を重ねたのは、どちらも花の散り際に似ていたからだ。

 ヒトは死を恐れていながら、死の瞬間に美を見ださずにはいられない生き物。だが今更になって矛盾を指摘したいわけじゃない。

 私が言いたいのは、美しさとは命にとって敵になり得るということ。普通の人間が持つ、ありふれた価値観で、少し考えればわかることだ。

 しかしながら、私はヒトになるのが遅すぎた。この美しさという意味において、彼が最大の敵である可能性を排除していた。



 これでは八十点には程遠い。

 さて、答え合わせに移ろう。






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