おかあさん
王朝時代の栄華の
「何からなにまで高級品で目に毒ね。素朴な色を増やしたらいいのに」
「
「却下。白は来世の分までみたわ」
「私も、胸焼けがします」
彼が得意気に顔料入りの小瓶を取り出し、それを私たちが突き返すという軽いやり取りがあったのは最初だけで、言葉が尽きるにつれて徐々に空気が重たくなりだした。
配下の衛兵は途中で待機を命じられて以降、大広間の甲冑像のごとく微動だにしておらず、四つの足音が代わるがわる通廊の静寂を支配する。
バルタザールの
なんだか息が詰まりそうだ、と思っているうちに歩幅が縮んでいき、私は少しずつ遅れてしまう。
でもペースを合わせる気にはなれなくて、ひとり立ち止まり、
緑だけでは寂しかろうと
「こういうの、僕は好きだ」
となりで彼の声がして、私は顔を上げようとしたけれど、それ以上に気が滅入っていたのでやめた。
すると
「クエレさん」
なぜ、このタイミングで?
火照ることも冷めることもせず、疑問の
「まだ足りないな」
今度は指先が擬態の頬に触れる。私は一歩、後ずさった。彼はそれよりも大きな一歩で距離を縮め、吐息交じりで私の唇を塞いだ。あまりに一方的で、乱暴な口付け。嫌悪は
「こんなところで、やっ……」
「ごめん、アイル。僕のわがままを許してほしい」
「うちに帰ってからなら、いくらでも」
「今じゃないとだめなんだ」
形ばかりの抵抗を試みたが、構わず壁に押しつけられる。豹変ぶりが怖かった。次第に彼の輪郭が歪む。
「あれっ、なんで……」
火傷しそうになって、頬を拭う。ようやく熱い涙が流れていると知る。それほどまでに嫌で嫌でたまらなかった。
必死に顔を仰け反らせたりするものの、身体が言うことをきかずに為すがままを受け入れる。
求められるのは嬉しいはずなのに、そこに込められた意味を心が拒絶していた。彼は語らないが、私の魂が訴えかけてくる。私はこのキスを知っているのだ。
「僕はね、」
短く息を継いで、彼が何かを言おうとしている。
決して聞いてはいけない気がしたから、私は唇を塞ぎ返した。彼の表情が驚きに変わった。
「みんないますから、これで我慢してください」
込み上げた愛おしさのおかげで嫌悪が薄まる。周りの足音は聞こえない。これ以上はいけない、二人を待たせている。物足りなさまで消えないうちに唇を離し、彼をどこか遠いところへ送り出す、といった覚悟で背中を叩いてあげた。
彼は呆然と、こちらを見つめる。
「戻りましょう」
「うん」
互いに愛情よりも羞恥心と後ろめたい気持ちのほうが上回ったと思うので、むつかしく凝り固まった彼の
彼女らはアラベスク
バルタザールは上の空といったようすでぶつぶつと呟いており、彼の奇行に無関心であった。
フーカも渋い顔で「早かったのね」と言うに
お咎めなしには安堵したけれど、歯車がずれた不快感に首を
魔法で履き替えたばかりのピンヒールの爪先が、マナタイルの通廊を蹴りつけて彼の太腿のあいだに挟まる。
動揺した。
だってキスだと思ったから。
実際はそんなことなくて、真っ直ぐに開いた五本の白い花弁で彼の心臓を温めているだけだった。
空気を
瑞々しくも
「いいんだ」と彼が答えた。
それを聞いて、横顔に何度目かの
必要以上の
大抵の場合、思い浮かべるのは過去にカラダを許し合った男女間にのみ
しかしこのときの二人が見せた表情からは、全く別の、記憶の底に埋没していた光景を思い起こす。かつて
二人が、あれに似ている。
彼がよく言っている、あれだ。
あと一息で何かを掴めそうな気がする。私は言語として意味を知っていながら、弱者の戯言だとか、餌同士の
名残惜しそうに、フーカの
私はこのとき、前触れもなく唐突に、人間を理解する。
そうだったのか。
あれこそを、美しい、と呼ぶんだ。
絵描きである彼が、これまで芸術という手法を用いて私に何を学ばせたかったのか、はっきりとわかる。
理解は更なる理解に発展する。どうりで、人間たちはあのとき、あの瞬間……。歓喜の
ある種の絶頂を迎えた私は、放心状態で立ち尽くす。不意に腰のあたりが
「やっと、あたしたちの隣を歩いてくれる気になったのね」
「えぇ」
馬鹿な話だ。私は見当違いの方向に突っ走っていたのだから。姿を真似ることや、脚を生やすことは、人間に近づくことではなかった。
私がヒトを名乗るために欠けていた最後のピース。それは私自身が変わること。絵を描くものが必ずしも手でなくてもいいように、立派な脚でなくとも同じ方角を目指せたのだ。
「約束、守ったからね」
夢を叶える手伝いをしてあげる。あんな気休めの口約束を
「揃いも揃って、馬鹿なひとたち」
「まあね」
そう言って離れていく背中を見ていたら。
「おかあさん」
ありえない言葉が喉元を通過したと思い、私は息を止めた。本当に無意識だったので、自身の言い間違いを憶えていなかった。
「なに?」
「ううん、なんでもない」
「変な子」
ひょっとすると彼女は呼びかけのはずみに生じる指向性の高い魔力に反応しただけであり、単語までは聞こえなかったのかもしれないし、端から言い間違いなどはなかったのかもしれない。
舌の上に転がる残り香を舐め取って強引に喩えるならそうだな、安らぎと懐かしさを
「きみはこれから、ヒトとして生きなよ」
彼はというと緑杖を
「実はですねえ、ジェイドさんにも言われたんです。先を越されちゃいましたね」
「……僕がずっと言えなかったことを、あの男は
顔をくしゃくしゃにして感情を吐き出すのが彼らしくなくて、でも上手くいかないのは彼らしくて、思わず変な声が出ちゃった。
「言い回しも、あなたよりカッコよかったです。……というか、いいんですか? 私、鉄とか噛み砕けますけど、ちゃんと仲間入りできてます?」
「錬金街じゃあ鉄を溶かす人たちがいる。それくらいどうってことはない」
「私は首を
首を
「魔獣災害や
「そうじゃなくて」私はだらしなく垂れた
弱い生き物にとって強い生き物はただ存在するだけでも暴力だという、この真理を綺麗事で覆すことはできない。名乗るのは自由だし、できることなら名乗って生きていきたいが、自分がヒトに擬態する魔物に過ぎないと思いだす瞬間が怖かった。
私は確かな足取りで幸福に向かって歩き続けている。不幸が遠のいた分だけ、ふと振り返ったときにぴたりと追いすがる闇の深さに怖気づく。だから怖いといっても、どきどきする怖さのほうだ。
「人間だって人間を傷つける。ときには戻るといったきり戻れなかったり、幸せにしてやると誓ったくせに不幸にしてしまったり、どうにもならない大きなものに責任をなすりつけ、無力な自分から目を逸らそうとしたりする。それでもいつかは二本の脚で踏ん張って、過去の
私の好きな声と語調を散りばめた台詞で言いくるめてやろう、という魂胆が見えみえだった。
「……あなたも、自分自身が怖いのですか?」
わざわざ余計な言葉を付け足して本心を隠そうとしても無駄だ。まちがい探しは得意だからね。ただし彼に限って。
彼の憂苦に染まった
「うん。とても大切だった人を、僕は守れなかった。小さな約束すら満足に守ってやれなかった。不甲斐ない自分を棚に上げて世界を憎んださ。のうのうと生きている人間を片っ端から殺してやりたいと思った。腹の底では
激情に支配されやすい一面があるのかと、穏やかな心持ちで聞いていた。本音を言うとちくちくと痛む箇所もある。でも会話の登場人物と
「あなたは十分、頑張ったのですから。
理屈未満の根拠のない自信が私の唇をこじ開けた。どういった形であれ、彼を愛していたと断言できる。なぜならこの私が選んだ
「……どうかな。優しい子だから、
「いい
彼は力強く
「間違いなく愛していた。彼女のためならこの命を引き換えにしたって惜しくはない。だがそもそもの話、僕が先に呪いをかけたのだとしたら? そのせいで彼女が苦しんでいると知ってしまったとしたら――今すぐにでも呪いを解いてやりたいと、そう思うよな」
息の切れ目の鋭さに面食らう。また歯車が大きく
「それってどういう」
「扉が開きかけてる。はやく追いつこう」
はぐらかされてしまった。
「よろしいかな」
気が遠くなるほど長い呪文を詠み終えたバルタザールが、王室の扉を〈開錠〉する。乾いたノックが響き、扉が開く。
内側に奇妙な気配を感じ、背筋に冷たいものが滲む。
私は、荊棘を食いしばる。
もはや予感ではなく、確信だ。外開きのアラベスク木彫の向こうに、ずれた歯車の音が続いている。
*
花は散り際が美しい。嵐や
そして私たちは、たとえ宙を舞う
思うに、美と死は身分の異なる男女の
命も同じだ。
あのとき彼とフーカのやり取りに瀕死の兄妹を重ねたのは、どちらも花の散り際に似ていたからだ。
ヒトは死を恐れていながら、死の瞬間に美を見
私が言いたいのは、美しさとは命にとって敵になり得るということ。普通の人間が持つ、ありふれた価値観で、少し考えればわかることだ。
しかしながら、私はヒトになるのが遅すぎた。この美しさという意味において、彼が最大の敵である可能性を排除していた。
これでは八十点には程遠い。
さて、答え合わせに移ろう。
*
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