千年ぶん



 二階にある図書館は階下の隠し通路から直接繋がっており、咫尺しせきべんぜぬ暗闇の石廊をフーカの案内で攻略した。

 正式名称は書架の間。古今東西のありとあらゆる知識が収集された書物の聖域であるのは、一般の図書館にも通ずるのだけれど、王宮の文殿ふどのは魔術、史料、民潭みんだんを中心に蓄積され、およそ百分の一が禁書となっていた。その他の共通項は繙読はんどく困難な専門書ばかりで、通俗的なものの蔵書量は少なめ。


「すごいなあ!」


 館内に充満するかぐわしい化学の香りに興奮した。これらは植物の死臭とも言えるので、同胞の墓参りにきた感じかな。全てを燃やしたら街全体の気温が三度くらい上がりそう。

 絵にするなら、タイトルは「焚書ふんしょだん」で決まり。人間にも植物にも不敬なことを考えながら、私は書架の森を巡り歩く。

 多肉植物の毛状突起トライコームの手触りを彷彿とさせるベルベットの壁紙づたいで三周目に突入し、ゆくりなくも司書と目が合った。この膨大な文字の銀河を整頓するすごい魔術師。当代は職務に対して磊落らいらくな一面を持つのか、「心臓と引き換え」「一生に一度」「気が向いたら」「必要に応じて」「死ぬほどどうでもいい」など大雑把な魔力文字で区切られていて、目当てのタイトルが探しづらい。

 死ぬほどどうでもいい本の代表は、〈未来書スクルド〉と呼ばれる魔導書群。百年後の世界にメッセージを送れるらしいのだが、如何いかんせん受信機能がないので無意味である。こんな紙くずのために伐採された木々の無念を想うとやりきれない。筆もインクもそうなんだけど、食事と同じで他者の命を借りている意識くらいは持ちたいものだ。


「私なら半分は読みきれる」


 物語が収められた棚を眺め、私は豪語する。数千或いは数万におよ畢生ひっせいから逆算すると、私はまだ十歳にも満たない子ども。理解の深部に至るまで五年はかかる本すら棚ごと食い潰せるが、全てと言い切る自信はなかった。


「読書は数ではないわ」薬草の資料に目を通すフーカが言った。「本当にいい本を見つけたらね、生涯それ一冊で事足りるの」


 人間ならではの考えにふっと頬が緩んだ。


「……それでは暇が長すぎますよ。私には質より数でちょうどいいんです。あなたがたといられるのは一瞬で、思い出の記憶がそれこそ一篇のうたや物語になって……たぶん私は泣いちゃうんです。そのときにフーカさんの声だとか、匂いだとか、足音だとかを思い出せるようなものを探したくなるんだと思います」


 百の年月のうち、全盛期が二十を数えるほどしかない種族。日ごとに溶けていくろうの価値を知っているからこそ、読むべき本とそうでない本を見極め、残された時間を少しでも無駄にしないように心がける。

 書物はすでに輝きを失いつつある人たちが、命の定めにあらがおうと後世に託した生の形。つづめて言えば、人生における錨地びょうちしらせる浮標や願いの継承の意味を持つ。

 味わう物語は選びなさい、という含みを持たせたフーカの発言は、どこまでも人間らしくて羨ましかった。

 行動理念の石突いしづきが魔物である私は、たかだか紙をめくる行為に選択は不要と考える。長命ゆえに無駄を許容する。来たる孤独を文字で埋められるなら、酷評にしずく悪書すら愛おしい。

 薄紅色の口元が引き締まるのをみて、私は後悔する。

 共感はできずとも理解はできるのだから、頷いてあげればよかったかな。困らせると知っていたのに、咄嗟に自分自身をいつわれなかった。またジェイドにおでこを弾かれるかもね。

 きつく唇を結んだまま、彼女は閉じた本の背表紙をほっそりとした指でなぞり、生え変わりを迎えた子どもの乳歯のように不揃いな書架の隙間をめた。


「あんたのために始めてみようかな。ジェイドは発明で、クエレは絵画、あたしだけ論文では味気ないもんね」


 書くのは苦手だけど、とフーカは照れくさそうにする。それだけで胸がおどっていた。だからきっと才能なんかなくたっていい。


「千年ぶん!」

「そんなには無理よ」

「無理と言いながら、案外フーカはやってのけそうだ」

 

 彼が、上階の木製手摺りをわしづかみにして顔を覗かせる。図書館の二階通路はフレスコ画の壁面と屹立きつりつした列柱との間に挟まっており、緩やかな円弧を描いた吹き抜けが美しい。


「我関せずといった顔してますけどね、あなたも千年ぶん!」

「僕はちゃんと残したよ。きみのを台無しにする方法」

「なんですか、それ」


 空気をまんで、上下に滑らせてみせる彼。


「一度くまでに千年。見せびらかすのに千年。またって千年。弟子たちに継がせるのに千年。合わせてざっと一万年はかかる」

「計算狂ってません?」

「芸術はいつだって完成までの予定が狂いがち」

「たしかに」


 あと少しで描ききれそうな絵に数日を費やすことはざらにある。最初の千年が一万年になっていてもおかしくはない。


「その気になれば、きみはきみの手で、僕たちを永遠に生かすことさえできるんだよ」


 リーテリーゼのみどりの風に洗われる、あの爽快感がよみがえった。私は染めた筆の軌跡によって、かれらを永遠に生かせる。 

 彼のいちばんになりたいだけの、ちっぽけな目標を原動力に描き続けていた私には、目から樹液うろこが垂れ落ちるような発想だ。


「私に、できますかね」

「できるさ。アイルだったら」

「あたしも、あんたは辞めないと思うわ」


 私がフーカのほうを見ると、彼女は自身の背丈より一段高いところの学術文献を魔法で抜き取っていた。自己完結的な台詞と理解し、返答をしなかったのでそれきり会話は途絶えてしまったけれど、一抹の誇らしさが沈黙を好ましいものに変えた。

 だんだん恥ずかしくなってきて、適当な口実を作ってその場を離れ、私にも読めそうな本を探す。

 ふと気になって、本棚の隅で倒れていた一冊を手に取る。

 森で読んだことのある、懐かしいタイトルの本。私に知識をくれた本。少しずつ当時の思いがよぎっては消える。書物は人間を殺すと手に入る戦利品であり、唯一無二の暇潰しの道具だった。ヒトの筆跡ふであとを辿り、そこに思考を重ねるひとり遊び。読み書きができたとて知識欲にそそのかされることわりはないが、読書の時間は固着性こちゃくせいの呪縛を忘れていられた。一丁字いっていじらざる時代にまでさかのぼると、どう転んでも無用の遺物ゆいもつを集め続けてきた。

 人食いの私が情愛にほだされ、さまざまな人々と巡りい、ヒトとして生きたいと思えたのは言葉のおかげ。

 力が強かったからじゃない。食べられない文字を捨てずにいたからだ。〈知識〉の魔道具を誤飲する偶然には恵まれたのだろう。だとしてもそれまでのたくわえをなおざりにしていたら、書物が財貨に変わる機会は決してなかった。

 

「タビが言ってた」


 紙面の黄ばみに向かい、独言がこぼれる。他者を生かすようにできている命の火のこと。肉じゃないけど、これもれっきとした命の火だ。知らず知らず、今日まで消さずに歩き続けてきたんだね。

 持ち主がどんな人物だったのか、まったく思い出せない事実が悔やまれた。私の容姿や声に興味を持ってくれた人なのだし、食べるにしても話を聞いておくんだった。鬱蒼とした森の湖畔にひとりでいる女性という意味で、近づいてきた人もそりゃ多いでしょうけれど。

 どうして森に来たの? 好きな食べ物は? 家族構成は? 恋人はいる? お仕事は? 休みの日は何してる? その服はどこで買ったの? あなたの夢は? いまならきたいことがたくさん見つかるのにな。

 私たちが死後の世界で再会を果たすとき。恨みつらみをぶつけられるかもしれないが、今度はちゃんといてみよう。

 ページを捲る。

 乾いた音は歌詞を付け忘れた子守唄みたいで心地がいい。ふたりが傍にいるからかな。欠伸をみ、私は耳を澄ます。 





「始まりの書?」と私はいた。今更、中央の書見台に展示されているばかでかい魔導書が気になりだした。

 裸の書見台を囲う樹脂ケースは厚さのわりに映り込みが少なく、見開きの魔導書が際立ってみえる。

 魔導書とはマナの木を素材に製本された書物全般を指すため、どれも多かれ少なかれ魔力を持つのだが、この本が漂わせる魔力は異様に古めかしい。それでいて知覚しやすい私の体質をあざむいていられたのは、内部に施された魔法仕掛けの効力だと思われる。


「魔導書の一つで、世界の始まりをしたためた本だよ。一般に神様と呼ばれるものが、この始まりの書の膨大な魔力で天地を創造したらしい。だからどうってことはないものの、宗教的な意味で重要な本だね。決して閉じてはならない禁書として有名かな」


 彼が答えてくれた。読書に区切りがついた、というか早々に飽きてきた二人組で、今は行動を共にしている。


「閉じるとどうなるんですか?」

「世界が終わると言われてる。開いていることで何のメリットがあるのか、よく分からないんだけどね」

「へえ」


 恐ろしい本だな、と深くは考えずにみ込んだ。


「迷信よ」フーカがばっさりと切り捨てる。「自力ではほこりすらも払えない紙きれを閉じたくらいで滅びるほど世界は脆くないっての」

 

 こちらに近づき、ケース越しに魔法で閉じてしまった。向かいの袖机そでづくえで暇そうにしていた司書が血相を変え、「フーカ様!」と叫んだが無視である。どうも顔見知りらしかった。


「あー……終わっちゃいましたねえ、世界」


 本当に滅びたらどうするんでしょうね。彼が手信号でかがむように指示し、そっと耳打ちする。


「フーカは血筋の関係で昔から王宮と縁があるんだけど、ここで怒るたびにあの本閉じてる常習犯。どんなに堅牢な防護魔術も突破するので恐れられていたりする。世界より怖いものっていうのは、身近にあるものさ。しかし彼女があれだけ不機嫌なのも珍しい」

「触らぬ竜に祟りなしですね」

「生理なのかな」

「あんまり大きい声出さないほうが……聞こえちゃいますよ?」

「聞こえとるわ!」


 分厚い魔導書が二冊、魔法で飛んできた。とても痛い。当館の資料は乱暴に扱わないでください。またしても注意を無視された司書はちょっと涙目になっている。

 もとの場所に戻しておこうと拾い上げ、そこで手が止まる。そのうちの一冊が、フーカの母親が起こした毒薬事件について記されたものだったからだ。

 さすがに偶然とは思えず、目配せで訴えかけた。彼女は頷きを二度に分かち、たっぷりと十秒ほどかけて息を吸う。


「アイルさ、あたしのこと好き?」

「もちろん!」私の喉が、唇がそうするべきであると知っていたかのように、するりと言葉が出てくる。「フーカさんのこと大好きです」


 あたしも、と小さな声が聴こえる。


「最初はいけ好かない魔物だと思ってた。でも今はアイルのことが好き。家族だと思ってる。だからね、あたしのことも話しておきたくて」

「それで図書館を選んだのですか?」


 言葉の代わりに頷きを一つ足した。もう片方の目次がひとりでに開く。同時期に猛威を振るっていた流行りやまいにまつわる内容だ。


「その病気はね、失魔性細菌……要するに魔力を持たない単細胞種が引き起こす感染症だったの。細菌自体が失魔症の特性を持つせいで魔術治療は効かないし、あたしたちの霊的な免疫をすり抜ける厄介者でね。それだけならいいんだけど、治療には同じく失魔性の薬草が必要で、発症後の致死率があまりにも高い。ほとんど全ての物質に魔力が宿るこの世界では、そんな薬草を迅速かつ十分に確保できず、数年おきの大流行のたびにたくさんの人が命を落とした。へドリスでの感染報告はまれで、対岸の火事と見なす風潮が強かったけれど、薬学者たちは変異による感染域の拡大を危惧きぐしていた。お母さんも、そのひとり。

 お母さんは治療薬の開発に没頭するあまり、献立こんだての野菜と薬品名がごちゃ混ぜになるくらい研究職気質かたぎな人でね。一度に入れる香辛料スパイスの分量をいつも間違えてて、味見した人が泡を食ってむせ返るほど味覚音痴なのに、家族のためにくそ不味まずい手料理を振る舞うのが好きだった。……あたしの料理をジェイドやクエレが嫌がるのは知っているし、なんとなく遺伝っぽい自覚はあるの。喜んで食べてくれるのはアイルだけね」


 次に禁帯出の書架から竜の文献を〈浮遊〉させた。聞いたこともない魔術分野で聞いたこともない偉業を成し遂げた自称賢者による、ややこしい処理の文法と憶測まみれで中身のない本。ぱらぱらと紙の擦れる音がつらなる。


「あたしは竜と話したことがある。……といったら笑うかしら」

「フーカさんなら別に」


 竜だろうが神様だろうが話していそうだし、原始惑星の衝突に立ち会った過去を切り出されても、そういうこともあるかもしれないと納得してしまう。


「厳密には竜が人間の言葉を話したから、あたしに特別な力があったわけじゃないの。……うちの杖は振ると特殊な音色を発する仕掛けになっていて、その音が聞き取れる竜を呼び寄せることができた。いわく、人間の願いに似ているそう。でも呼ぶだけ。従えるというのは尾ひれ胸びれの言い伝えに過ぎなかった。……王宮街にはいくつか〈隠処かくれが〉の抜け道が整備されていて、子どもの足で簡単に森の奥まで忍び込めるの」


 アイルが住んでたバクロの森とは違って、居住区域の安全な森、とフーカは付け加える。


「初めて竜を呼んだのは、クエレたちと出逢う、少し前かな。仕掛けの秘密に気づいたその日のうちに、こっそり杖を持ち出してくだんの森で呼びかけてみた。好奇心のついでに話し相手が欲しいくらいの、可愛らしい願いをたずさえてね。応じてくれたのは物語にも登場する赭土あかつちの雄竜。〈彼〉は不思議な竜だった。まるで古くからの知り合いに再会したかのような口ぶりで、こっちが噴き出しちゃうくらい流暢に喋り出した。あたしの名前や、むかし好きだった絵本のタイトル、お母さんの好きなところや嫌いなところ。ひとつとして教えずとも〈彼〉は知っていた。それはどんな魔法かと、あたしは驚いていたっけ」


 一度、深い呼吸を挟む。


「珍しい色」


 へドリスの上空に現れる竜の体色は決まって黒か白。そほの体色は滅多に見かけない。


「それが願いを叶えられる竜なんだろう」

「なるほど」


 彼の鋭い分析に同意する。アルラウネだって食性によって姿が違うし、猛毒や寄生、捕食機構といった固有の能力に分かたれた。


赭土あかつちは人間と共に文明を築いた煉瓦ラテルの色。だからヒトの願いを叶えられると、〈彼〉――ラテルもわけの分からないことを言っていたわ。……当時のあたしが、似たような言い回しをする馬鹿を求めてたのかもね」


 自然と彼のほうを向く。竜はすでに話し相手が欲しいという、フーカの願いを叶えていたが、彼女と対等でいられる人物像がしくも一致したのか。


「世間では恐ろしい感染症が蔓延しているなか、あたしもあたしで病弱でさ。たまに動ける日は森に行ってラテルと話すのが密かな楽しみになった。ながく生きる種族柄かしらね、ラテルの見聞けんぶんの広さは大陸のみぎわまで見晴みはるかす勢いで、大きな翼に追いつこうとあたしも魔術を勉強した」


 フーカがいたずらっぽく笑う。


「老竜の功にはかなわないのになぁ……」

「いたいけな子どもの動機よ。可愛いもんでしょ」


 彼女が緑杖のきっさきで彼の頭を叩くと、いい音が鳴った。反応に目を細めながらも整った表情に一筋のかげし込む。


「……でも、楽しい日々は長くは続かなかった。あたしは子どもながらに知られてはいけないことだと分かっていたから、人の目を盗んで会おうと徹底していたのに、その日は運悪くお母さんに見つかった。汚染地域を往復する薬師の観念からか、病弱な娘が森に出掛けるのをこころよく思ってなかったみたいで……今になって思えば、お母さんなりの最善を尽くしたのだとわかる。あたしをうちに連れ戻した後、物凄い剣幕で詰め寄ってきた」


 どうやって呼んだの、もう一回呼んでみせなさい。レイカさんはそう繰り返したらしい。

 フーカの話によると、杖の仕掛けはもともと楽器としての役割を持たせたい先代の意匠であり、〈竜呼び〉の意図はなかったこと。それでもたまに近くまで飛んでくるので、家宝にまつり上げられたこと。竜呼びの音色を完成させてしまったのが彼女自身であること。

 

「……きみの杖を取り上げたレイカさんは、願ってしまったんだね」と彼が目を伏せていった。


 稀代の天才と血を分けた母親だ。一度見ただけで竜呼びの音色を再現できても違和感はあるまい。


「お母さんは感染症でこれ以上の死者が出ないように願ったの。ラテルは二つ返事で願いを聞き届けた。しばらくして持ってきたのは、よりにもよって未来の薬。その薬の効き目は凄くてね、どんなに重篤な患者も、二、三日もすれば元通りの生活が送れるようになった。……よく考えたらおかしな話よね。未来で死んでるはずの人間が、ここで生き延びるなんて矛盾が生じてしまう。

 歴史の矛盾を解決するからくりはすぐに判明した。その薬は、魔法がなくなった世界の、そこで生きる生物に投与するために調合された薬で、あたしたち魔法使いには深刻な副作用をもたらす毒薬だった。結局、投与された人たちはみんな死んでしまった……。

 お母さんは背負う必要のなかった罪を糾弾され、あたしも魔法犯罪者の娘として見られるようになった。――それがバルタザールの言う、願いの代償の正体。それから間もなくあたしは発作で入院し、クエレと病室が同じになって、ジェイドとレブレがお見舞いに来て、寛解かんかい祝いにアルラウネ症の治療薬を改良して、家業をぐのにまあまあ苦労して、最後にあんたとも出逢った。……ごめんなさい。つまらない話だったでしょう」


 開かれた書物が次々と〈浮遊〉し、元の棚に戻っていく。未来で魔力がなくなるという通説は、毒薬事件の薬剤が発端で広まったらしい。

 

「願いは叶わなかったのですね」

「ちゃんと叶ったのよ。お母さんの願い通り、確かに感染症での死者は出なかった。ただ、お母さんが毒殺した歴史に変わるという、残酷な叶い方だったの」

「だって、全然っ……」


 青女の物語と同じで、叶ってなんかいない。


「そりゃあ、あたしだって怒った。こんなのお母さんが願うわけないッ! って泣きながら。ラテルに問い詰めたら、願いは全て叶えた、と言ったわ」

「すべて?」

「……お母さんはいつもきれいで優しい人だった。他人のために真っ先に自分を犠牲にするような、強い人でもあった。あたしが研究室を使い始めて分かったんだけど、自分の身体を使って色んな薬剤のデータを取り続けてた。それらの毒素に脳がやられちゃって、一種の記憶障害に悩まされていたみたい。そのせいかしらね。お母さんは何かを忘れることと、同時に忘れられることを極度に恐れていた」


 まさかと息を呑む。ラテルが本当に叶えた願いとは、これなのか。


「ラテルは淡々と語ったわ。――これから抱える大罪と後悔の荊冠けいかんが、彼女を今際いまわきわまで彼女たらしめ、また彼女自身を歴史の額縁に永劫閉じ込めることで、人々の記憶に残り続ける……」


 私は、無意識に彼を見た。


「竜は願いに忠実なんだ」


 悲しげな表情で、高台広場での台詞を使いまわす。決して叶わない願い。それを掴もうと望んだばかりに、レイカさんの人生、いてはフーカの人生にまで降りかかった不幸を、果たして同じ抑揚で美しいと言うのだろうか。

 彼にも思いやりの気持ちはあるようで、いまのは余計だったね、と発言を取り下げた。

 

「願いに縋ってはいけない理由がわかるでしょう? あの事件以来、あたしはラテルを呼び出さなくなった。クエレの言葉を借りるのは癪だけど、ヒトにはどうしても叶えたい願いがあるものよ。なにかのはずみで、それを叶える方法がこの世にあると知ってしまうのは、とても残酷なこと。たとえ破滅が待っているとしても、ヒトはその力に縋ってしまう。欲深い生き物があれと関わるべきではないのよ」


 フーカのようすだけでは、ラテルが悪とまではうかがえなかった。事実、竜に悪意などはないのだろう。どのように生まれ、何を食らって生きるのかさえ不明瞭な生き物。

 永遠を与えられ、死を克服した生命にとって、ヒトが持つ心の煩雑はんざつな底意を理解しきれるとは考えにくい。

 

「ヒトが、竜を嫌うわけですね」


 私が天敵のグリフォンを嫌うように、人間が本能的に竜を遠ざけるのは、願いという不滅の欲求を呼び覚まさないための自戒であったのだ。

 眉根にこもった力を抜き、フーカは微笑んでみせた。時折、彼女は笑っていても垂れたまなじりで困り顔をつくるときがあり、恥ずかしながらそれは容姿が整いすぎているせいだと勘違いしていた。

 だが、彼女がそのように不安定な表情をみせるのは、たったひとりで過去と戦い続けてきた言わば古傷なのだと理解が深まった。


「バルタザール。あいつが竜とお母さんにこだわるのは、それでも叶えたい願いがあるんでしょうね」


 あわれみを湛えた瞳で、彼のことを見つめていた。案の定というべきか、フーカは彼の願いの内容と、受けたむくいを知っている。

 いまさら嫉妬とは違うけれど、胸がきゅっと締めつけられる思いがした。こんなにも一緒にいながら、私はまだ、彼の深いところを何も知らされていないのだ。


「あの人からは強い〈防腐〉の気配がしました」


 視線を斜めにずらし、そう伝えた。痛がる心を凍らせてはくれまいかと、足元のグレイシャーブルーに願ってもいた。


「〈獣皮舟コラクル〉は……」けわしい表情でフーカが口を開き、吹き抜けの二階に向かって歩を進める。「もともとは死者のたましいを現世に繋ぎ止める地縛じしばりの願いで生まれた魔法。その時点で大体の察しはつく」


 私たちも彼女に続く。

 応接間のものとはデザインの異なるサーキュラー階段をのぼりきると、すぐ横に蛇蝎だかつ印影の篆刻てんこく作品が並んでおり、それらの一つひとつが石化の呪いをかける〈メドゥーサ〉の眼差まなざしみたいで胸がざわついた。


「今でこそ宮仕えに選ばれた大貴族だけど、バルタザール卿のは庶民階級なんだ。王家の血を引く亡き奥方、カタリーナさんとの婚礼に至るまでには、それはもう大変な紆余曲折をたと聞くね」


 彼にも険しさが伝染する。


「前にジェイドさんが」と私は口にした。


 妻の最期を看取みとってから人が変わったと、そんなようなことを聞かされた。


「十年は経つというのに、愛していたんだろうね」


 彼が目を細めていった。重なりあうまぶたの余白には、在りし日の幼馴染の面影おもかげうつした肖像が浮かんでいるに違いない。


「可哀想なヒトなんでしょうか」


 死に直結する単語は避けた。私なりの配慮だった。

 

「……そうね。あいつは可哀想で、ただ可哀想なだけの、クソ野郎。いい大人が、不幸な自分ばかりを可愛がって、それ以上に周りを不幸にしてんだから情けないわ。救いがあるとしたら、人間には死ぬまで学びの余地が残されていること。……あの馬鹿をたぶらかした元凶を含め、きっちりぶちのめしてやりましょう!」


 私たちの視線がフーカに集まる。ほんとうに、強いひとだ。華奢な身体のどこにそれほどの精神力が宿るのか不思議でならない。

 どこまでも気高く、傷つきやすい。強い心と不釣り合いにやわな身体を支えてあげるのは、おそらく私の役目になる。

 彼女の脇役になれるのなら、それもいいかと思える自分がいた。

 大きくうなずいて落とし金具の扉を見た。半長靴の靴音と禍々まがまがしい魔力が近づいてきている。

 ややあって、扉が騒々しく〈開錠〉された。バルタザールが先陣を切って姿をあらわし、衛兵の魔術師もぞろぞろと雪崩れ込んで整列する。


「さて賓客まろうどの諸君、長らくお待たせいたした。これより青女様以下三名を旧王室までご招待する。……作戦会議に抜かりはないかね?」


 きりと眉を吊り上げて、フーカが緑杖をはらう。


「待ちくたびれたわ」


 そういって威嚇の魔力を撒き散らすので衛兵たちは身構えてしまい、こちらもはらはらした。

 刹那の喧騒にまぎれ、物憂ものうげにフレスコ画の一点を見つめる彼。竜鱗りょうりんで誂えたかんむりを戴冠する、もしくは竜のこうべ貢物こうもつとして受け取った女王だろうか。次の絵は女王のいた灰によって花木のように育つ街と、それを見下ろす巨人の構図となっていた。続きは描かれていない。

 とにかく元気付けてやろうと思い立って、退館の間際、今度は私が耳打ちをする。


「フーカさんの勝ちに金貨百枚」

「それじゃあ、賭けは成立しないな」


 ひどく思い詰めた顔のこわばりをほぐし、彼は笑った。



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