千年ぶん
二階にある図書館は階下の隠し通路から直接繋がっており、
正式名称は書架の間。古今東西のありとあらゆる知識が収集された書物の聖域であるのは、一般の図書館にも通ずるのだけれど、王宮の
「すごいなあ!」
館内に充満する
絵にするなら、タイトルは「
多肉植物の
死ぬほどどうでもいい本の代表は、〈
「私なら半分は読みきれる」
物語が収められた棚を眺め、私は豪語する。数千或いは数万に
「読書は数ではないわ」薬草の資料に目を通すフーカが言った。「本当にいい本を見つけたらね、生涯それ一冊で事足りるの」
人間ならではの考えにふっと頬が緩んだ。
「……それでは暇が長すぎますよ。私には質より数でちょうどいいんです。あなたがたといられるのは一瞬で、思い出の記憶がそれこそ一篇の
百の年月のうち、全盛期が二十を数えるほどしかない種族。日ごとに溶けていく
書物はすでに輝きを失いつつある人たちが、命の定めに
味わう物語は選びなさい、という含みを持たせたフーカの発言は、どこまでも人間らしくて羨ましかった。
行動理念の
薄紅色の口元が引き締まるのをみて、私は後悔する。
共感はできずとも理解はできるのだから、頷いてあげればよかったかな。困らせると知っていたのに、咄嗟に自分自身を
きつく唇を結んだまま、彼女は閉じた本の背表紙をほっそりとした指でなぞり、生え変わりを迎えた子どもの乳歯のように不揃いな書架の隙間を
「あんたのために始めてみようかな。ジェイドは発明で、クエレは絵画、あたしだけ論文では味気ないもんね」
書くのは苦手だけど、とフーカは照れくさそうにする。それだけで胸が
「千年ぶん!」
「そんなには無理よ」
「無理と言いながら、案外フーカはやってのけそうだ」
彼が、上階の木製手摺りを
「我関せずといった顔してますけどね、あなたも千年ぶん!」
「僕はちゃんと残したよ。きみの人生を台無しにする方法」
「なんですか、それ」
空気を
「一度
「計算狂ってません?」
「芸術はいつだって完成までの予定が狂いがち」
「たしかに」
あと少しで描ききれそうな絵に数日を費やすことはざらにある。最初の千年が一万年になっていてもおかしくはない。
「その気になれば、きみはきみの手で、僕たちを永遠に生かすことさえできるんだよ」
リーテリーゼの
彼のいちばんになりたいだけの、ちっぽけな目標を原動力に描き続けていた私には、目から
「私に、できますかね」
「できるさ。アイルだったら」
「あたしも、あんたは辞めないと思うわ」
私がフーカのほうを見ると、彼女は自身の背丈より一段高いところの学術文献を魔法で抜き取っていた。自己完結的な台詞と理解し、返答をしなかったのでそれきり会話は途絶えてしまったけれど、一抹の誇らしさが沈黙を好ましいものに変えた。
だんだん恥ずかしくなってきて、適当な口実を作ってその場を離れ、私にも読めそうな本を探す。
ふと気になって、本棚の隅で倒れていた一冊を手に取る。
森で読んだことのある、懐かしいタイトルの本。私に知識をくれた本。少しずつ当時の思いが
人食いの私が情愛に
力が強かったからじゃない。食べられない文字を捨てずにいたからだ。〈知識〉の魔道具を誤飲する偶然には恵まれたのだろう。だとしてもそれまでの
「タビが言ってた」
紙面の黄ばみに向かい、独言が
持ち主がどんな人物だったのか、まったく思い出せない事実が悔やまれた。私の容姿や声に興味を持ってくれた人なのだし、食べるにしても話を聞いておくんだった。鬱蒼とした森の湖畔にひとりでいる女性という意味で、近づいてきた人もそりゃ多いでしょうけれど。
どうして森に来たの? 好きな食べ物は? 家族構成は? 恋人はいる? お仕事は? 休みの日は何してる? その服はどこで買ったの? あなたの夢は? いまなら
私たちが死後の世界で再会を果たすとき。恨みつらみをぶつけられるかもしれないが、今度はちゃんと
乾いた音は歌詞を付け忘れた子守唄みたいで心地がいい。ふたりが傍にいるからかな。欠伸を
*
「始まりの書?」と私は
裸の書見台を囲う樹脂ケースは厚さのわりに映り込みが少なく、見開きの魔導書が際立ってみえる。
魔導書とはマナの木を素材に製本された書物全般を指すため、どれも多かれ少なかれ魔力を持つのだが、この本が漂わせる魔力は異様に古めかしい。それでいて知覚しやすい私の体質を
「魔導書の一つで、世界の始まりを
彼が答えてくれた。読書に区切りがついた、というか早々に飽きてきた二人組で、今は行動を共にしている。
「閉じるとどうなるんですか?」
「世界が終わると言われてる。開いていることで何のメリットがあるのか、よく分からないんだけどね」
「へえ」
恐ろしい本だな、と深くは考えずに
「迷信よ」フーカがばっさりと切り捨てる。「自力では
こちらに近づき、ケース越しに魔法で閉じてしまった。向かいの
「あー……終わっちゃいましたねえ、世界」
本当に滅びたらどうするんでしょうね。彼が手信号で
「フーカは血筋の関係で昔から王宮と縁があるんだけど、ここで怒るたびにあの本閉じてる常習犯。どんなに堅牢な防護魔術も突破するので恐れられていたりする。世界より怖いものっていうのは、身近にあるものさ。しかし彼女があれだけ不機嫌なのも珍しい」
「触らぬ竜に祟りなしですね」
「生理なのかな」
「あんまり大きい声出さないほうが……聞こえちゃいますよ?」
「聞こえとるわ!」
分厚い魔導書が二冊、魔法で飛んできた。とても痛い。当館の資料は乱暴に扱わないでください。またしても注意を無視された司書はちょっと涙目になっている。
もとの場所に戻しておこうと拾い上げ、そこで手が止まる。そのうちの一冊が、フーカの母親が起こした毒薬事件について記されたものだったからだ。
さすがに偶然とは思えず、目配せで訴えかけた。彼女は頷きを二度に分かち、たっぷりと十秒ほどかけて息を吸う。
「アイルさ、あたしのこと好き?」
「もちろん!」私の喉が、唇がそうするべきであると知っていたかのように、するりと言葉が出てくる。「フーカさんのこと大好きです」
あたしも、と小さな声が聴こえる。
「最初はいけ好かない魔物だと思ってた。でも今はアイルのことが好き。家族だと思ってる。だからね、あたしのことも話しておきたくて」
「それで図書館を選んだのですか?」
言葉の代わりに頷きを一つ足した。もう片方の目次がひとりでに開く。同時期に猛威を振るっていた流行り
「その病気はね、失魔性細菌……要するに魔力を持たない単細胞種が引き起こす感染症だったの。細菌自体が失魔症の特性を持つせいで魔術治療は効かないし、あたしたちの霊的な免疫をすり抜ける厄介者でね。それだけならいいんだけど、治療には同じく失魔性の薬草が必要で、発症後の致死率があまりにも高い。ほとんど全ての物質に魔力が宿るこの世界では、そんな薬草を迅速かつ十分に確保できず、数年おきの大流行のたびにたくさんの人が命を落とした。へドリスでの感染報告はまれで、対岸の火事と見なす風潮が強かったけれど、薬学者たちは変異による感染域の拡大を
お母さんは治療薬の開発に没頭するあまり、
次に禁帯出の書架から竜の文献を〈浮遊〉させた。聞いたこともない魔術分野で聞いたこともない偉業を成し遂げた自称賢者による、ややこしい処理の文法と憶測まみれで中身のない本。ぱらぱらと紙の擦れる音が
「あたしは竜と話したことがある。……といったら笑うかしら」
「フーカさんなら別に」
竜だろうが神様だろうが話していそうだし、原始惑星の衝突に立ち会った過去を切り出されても、そういうこともあるかもしれないと納得してしまう。
「厳密には竜が人間の言葉を話したから、あたしに特別な力があったわけじゃないの。……うちの杖は振ると特殊な音色を発する仕掛けになっていて、その音が聞き取れる竜を呼び寄せることができた。
アイルが住んでたバクロの森とは違って、居住区域の安全な森、とフーカは付け加える。
「初めて竜を呼んだのは、クエレたちと出逢う、少し前かな。仕掛けの秘密に気づいたその日のうちに、こっそり杖を持ち出して
一度、深い呼吸を挟む。
「珍しい色」
へドリスの上空に現れる竜の体色は決まって黒か白。
「それが願いを叶えられる竜なんだろう」
「なるほど」
彼の鋭い分析に同意する。アルラウネだって食性によって姿が違うし、猛毒や寄生、捕食機構といった固有の能力に分かたれた。
「
自然と彼のほうを向く。竜はすでに話し相手が欲しいという、フーカの願いを叶えていたが、彼女と対等でいられる人物像が
「世間では恐ろしい感染症が蔓延しているなか、あたしもあたしで病弱でさ。たまに動ける日は森に行ってラテルと話すのが密かな楽しみになった。
フーカがいたずらっぽく笑う。
「老竜の功には
「いたいけな子どもの動機よ。可愛いもんでしょ」
彼女が緑杖の
「……でも、楽しい日々は長くは続かなかった。あたしは子どもながらに知られてはいけないことだと分かっていたから、人の目を盗んで会おうと徹底していたのに、その日は運悪くお母さんに見つかった。汚染地域を往復する薬師の観念からか、病弱な娘が森に出掛けるのを
どうやって呼んだの、もう一回呼んでみせなさい。レイカさんはそう繰り返したらしい。
フーカの話によると、杖の仕掛けはもともと楽器としての役割を持たせたい先代の意匠であり、〈竜呼び〉の意図はなかったこと。それでもたまに近くまで飛んでくるので、家宝に
「……きみの杖を取り上げたレイカさんは、願ってしまったんだね」と彼が目を伏せていった。
稀代の天才と血を分けた母親だ。一度見ただけで竜呼びの音色を再現できても違和感はあるまい。
「お母さんは感染症でこれ以上の死者が出ないように願ったの。ラテルは二つ返事で願いを聞き届けた。しばらくして持ってきたのは、よりにもよって未来の薬。その薬の効き目は凄くてね、どんなに重篤な患者も、二、三日もすれば元通りの生活が送れるようになった。……よく考えたらおかしな話よね。未来で死んでるはずの人間が、ここで生き延びるなんて矛盾が生じてしまう。
歴史の矛盾を解決するからくりはすぐに判明した。その薬は、魔法がなくなった世界の、そこで生きる生物に投与するために調合された薬で、あたしたち魔法使いには深刻な副作用を
お母さんは背負う必要のなかった罪を糾弾され、あたしも魔法犯罪者の娘として見られるようになった。――それがバルタザールの言う、願いの代償の正体。それから間もなくあたしは発作で入院し、クエレと病室が同じになって、ジェイドとレブレがお見舞いに来て、
開かれた書物が次々と〈浮遊〉し、元の棚に戻っていく。未来で魔力がなくなるという通説は、毒薬事件の薬剤が発端で広まったらしい。
「願いは叶わなかったのですね」
「ちゃんと叶ったのよ。お母さんの願い通り、確かに感染症での死者は出なかった。ただ、お母さんが毒殺した歴史に変わるという、残酷な叶い方だったの」
「だって、全然っ……」
青女の物語と同じで、叶ってなんかいない。
「そりゃあ、あたしだって怒った。こんなのお母さんが願うわけないッ! って泣きながら。ラテルに問い詰めたら、願いは全て叶えた、と言ったわ」
「すべて?」
「……お母さんはいつもきれいで優しい人だった。他人のために真っ先に自分を犠牲にするような、強い人でもあった。あたしが研究室を使い始めて分かったんだけど、自分の身体を使って色んな薬剤のデータを取り続けてた。それらの毒素に脳がやられちゃって、一種の記憶障害に悩まされていたみたい。そのせいかしらね。お母さんは何かを忘れることと、同時に忘れられることを極度に恐れていた」
まさかと息を呑む。ラテルが本当に叶えた願いとは、これなのか。
「ラテルは淡々と語ったわ。――これから抱える大罪と後悔の
私は、無意識に彼を見た。
「竜は願いに忠実なんだ」
悲しげな表情で、高台広場での台詞を使いまわす。決して叶わない願い。それを掴もうと望んだばかりに、レイカさんの人生、
彼にも思いやりの気持ちはあるようで、いまのは余計だったね、と発言を取り下げた。
「願いに縋ってはいけない理由がわかるでしょう? あの事件以来、あたしはラテルを呼び出さなくなった。クエレの言葉を借りるのは癪だけど、ヒトにはどうしても叶えたい願いがあるものよ。なにかのはずみで、それを叶える方法がこの世にあると知ってしまうのは、とても残酷なこと。たとえ破滅が待っているとしても、ヒトはその力に縋ってしまう。欲深い生き物があれと関わるべきではないのよ」
フーカのようすだけでは、ラテルが悪とまでは
永遠を与えられ、死を克服した生命にとって、ヒトが持つ心の
「ヒトが、竜を嫌うわけですね」
私が天敵のグリフォンを嫌うように、人間が本能的に竜を遠ざけるのは、願いという不滅の欲求を呼び覚まさないための自戒であったのだ。
眉根に
だが、彼女がそのように不安定な表情をみせるのは、たったひとりで過去と戦い続けてきた言わば古傷なのだと理解が深まった。
「バルタザール。あいつが竜とお母さんに
いまさら嫉妬とは違うけれど、胸がきゅっと締めつけられる思いがした。こんなにも一緒にいながら、私はまだ、彼の深いところを何も知らされていないのだ。
「あの人からは強い〈防腐〉の気配がしました」
視線を斜めにずらし、そう伝えた。痛がる心を凍らせてはくれまいかと、足元のグレイシャーブルーに願ってもいた。
「〈
私たちも彼女に続く。
応接間のものとはデザインの異なるサーキュラー階段を
「今でこそ宮仕えに選ばれた大貴族だけど、バルタザール卿の
彼にも険しさが伝染する。
「前にジェイドさんが」と私は口にした。
妻の最期を
「十年は経つというのに、愛していたんだろうね」
彼が目を細めていった。重なりあう
「可哀想なヒトなんでしょうか」
死に直結する単語は避けた。私なりの配慮だった。
「……そうね。あいつは可哀想で、ただ可哀想なだけの、クソ野郎。いい大人が、不幸な自分ばかりを可愛がって、それ以上に周りを不幸にしてんだから情けないわ。救いがあるとしたら、人間には死ぬまで学びの余地が残されていること。……あの馬鹿を
私たちの視線がフーカに集まる。ほんとうに、強いひとだ。華奢な身体のどこにそれほどの精神力が宿るのか不思議でならない。
どこまでも気高く、傷つきやすい。強い心と不釣り合いにやわな身体を支えてあげるのは、おそらく私の役目になる。
彼女の脇役になれるのなら、それもいいかと思える自分がいた。
大きく
ややあって、扉が騒々しく〈開錠〉された。バルタザールが先陣を切って姿をあらわし、衛兵の魔術師もぞろぞろと雪崩れ込んで整列する。
「さて
きりと眉を吊り上げて、フーカが緑杖をはらう。
「待ちくたびれたわ」
そういって威嚇の魔力を撒き散らすので衛兵たちは身構えてしまい、こちらもはらはらした。
刹那の喧騒に
とにかく元気付けてやろうと思い立って、退館の間際、今度は私が耳打ちをする。
「フーカさんの勝ちに金貨百枚」
「それじゃあ、賭けは成立しないな」
ひどく思い詰めた顔のこわばりを
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます