よるいちが


 つばの広い帽子から垂れる茜色の髪。揺るぎない自信を帯びた翡翠ひすいの瞳。月輪をくぐり抜けられそうなくらいにすらりとした手足。豪華な額縁に護られた夜の女神にも負けず劣らずの白をたたえる肌。

 爪先を揃えて静かに降り立った彼女の美しさは、おんなの私ですら息をまされた。彼も、バルタザールも、たまたま居合わせた羽虫や草木たちも定められた使命を忘れ、〈座標まど〉の開閉を見守った。その数秒間だけは、世界はフーカのものだった。命ある者に限らず、もしも路上の塵埃じんあいが意識を持ち合わせているとしたら、それらの視線すらもほしいままにできただろう。


「これはこれは、フーカくんではないか! 噂をすれば悪魔とはよく言う。……悪魔にしては少々美しすぎるが、斯様かよう棘皮きょくひめいた殺意を向けられては、そう形容せざるを得んな。……何の因果かエリクシャ家の緑杖は竜を従えると、其方そなたの母君よりうかがった。こんな時間に可愛いドラゴンでもお探しで?」


 いち早く声帯の機能を取り戻したバルタザールが、会話の主導権を握ろうとする。フーカは激昂と静謐せいひつの狭間のような表情で、かざした緑杖に魔力をたくわえていた。


「誘拐未遂の次はうちの家宝? 調理中に折っちゃったから、そんなもんこの世にないわ。あたしが持ってるのは贋作。……だけどね、魔法犯罪者の頭蓋ずがいを権力ごと叩き潰すのにはもってこいの質感よ」


 どんな調理ですか。やけに冷静な思考が経緯をつまびらかにしたがった。店では魔獣肉の筋繊維をほぐすために杖で叩いていたような記憶がある。色んな用途があるけれど、点火などではなく調理器具として扱うのはフーカくらいだ。

 論点をずらす方便ととらえたのか、バルタザールは場違いに声高な笑いに興じた後、綽々たる態度で腕を組む。


「そうして柳眉りゅうびを逆立てる姿を見ていると、王立学院の教師をった若かりし時代がありありとよみがえる。類稀なる才能に免じて禁書閲覧の揉み消しに奔走させられたね。素行の悪さはまるでわれへの当てつけのようだった。実技で其方そなたに盗まれた戦闘魔術は数え切れない。……〈狼煙すず〉もその一つかな」


 その一瞬、鎖をく魔法が弱まった。私はきょに乗じて距離を縮め、隙だらけの肩甲骨を蹴り飛ばす。

 しかし夜風になびくマントは鋼鉄のように硬く、長身をよろめかせるのみだった。

 振り向きざま、拳で頬を殴られる。鈍い痛みを堪え、いかめしい半長靴はんちょうか甲革こうかくに消化液の反吐へどをお見舞いしてやった。


「生憎とあたしは若いから昔のことあんまり憶えてないのよ。二十年経ったら思い出せるかも」


 彼女はそういって、空いている腕をいだ。すると私たちの拘束具が綺麗に断ち切られる。


「いきなり鳴ったからびっくりして飛んできたわ。あんたら面倒なことに巻き込まれているようね」

「フーカさん……!」


 私は、彼女に抱きついた。あのむかつく蹴りが〈狼煙すず〉の刻印を起動させたのか。昨日は使わなかったから。

 来てくれると思ってたよ。同じく両手をひろげて駆け寄る彼。その抱擁をかわしたフーカは、つんのめる彼の臀部に強めの蹴りを入れた。


「うちの子に暴力を振るうなんてサイテー。甘いのは口だけっていよいよ本物のダメ男じゃない。あんたを見損なった」

「あれは仕方なかっただろ!」と彼が抗議する。

「両手塞がってましたからねえ」


 可哀想なので擁護してあげる。


「男が振っていいのは、鎖骨のラインが見えそうな角度での首と、別れ際の右手。あと興味本位で聞き出した秘密を嬉々として広める女くらいよ」

「きみのへきと同性の好き嫌いを暴露されても反応に困る」


 やれやれ、と彼は何度もかぶりを振った。


「あんたのは痩せすぎ」

「いやっ、断じてそういう意味ではないから」

「アピールが雑でしたね。元気出してください。次こそは刺さります」


 適当にフォローし、えた脚の調子を確かめる。不機嫌ながらも軟化したフーカの口調に、私の心は安らいだ。

 金属の散らばる音がして、そちらに注意を向ける。魔力の斬撃によって断ち切られ、腐臭を発して霧消しかけの〈獣皮舟コラクル〉の鎖をバルタザールが踏み砕いたのだ。


「いつ仕込んだ?」


 瞳が警戒の色を深めている。


「昨日からよ。偶然だし、あたしも忘れてたから変な誤解はしないでね」


 再度、彼女が軽く腕をいだ。

 バルタザールは素早く杖を構え、防護の壁で斬撃をしのぐ。的確に分散されて尚も、石の楼閣ろうかくを両断するほどの威力である。それを幾度となく浴びせられるのだから、防戦一方になるのは仕方がない。


「誤解とは笑わせる。そもそも、われに杖を向ける意味を理解しておられるかな。其方そなたは純血の大賢者の素質を持ち、学徒時代に極めて優秀な成績を修めていながら、魔術師にはならず一線を退しりぞいて久しい。其方そなたきゅうを負って王都を離れた後、街角で細々と薬屋を営んでいる間にも、われは魔術をきわめていた。稀代の天才といえども分が悪かろう」


 あの皮の舟に近い〈闇〉の力がほとばしる。だがバルタザールの禍々しい魔力の火種は、フーカが放つ同質の魔力によって攪拌かくはんされ、単なる「打ち上げ花火の魔法」に書き換わった。

 夜市の花火にくるい咲きの一輪がまぎれ込む。他者の魔法を上書きするには、打ち消す以上の力量差が必要だと言われている。


「……馬鹿ね。才能っていうのは、この世で最も理不尽な力の一つ。たかだか五年のブランク程度で、あんたら凡人があたしに追いつけたと本気で思ってんの? あんたらの百年の努力は、あたしの一秒の遊びといい勝負じゃない? 永遠の命でも願ってから出直しなさい」 


 彼女が来てくれた安心感と、迫力は凄まじかった。はったりだとは思えないほど、フーカの魔術は別格だった。

 たとえばフーカは日頃から当たり前のようにトリミングをしてくれるが、私の皮膚ひふは爆発をもろに受けても無傷であるほどの異常な魔法耐性を持つ。それを雑草みたいにカットするのだから、それだけでも凄い。


めす蟒蛇うわばみが好いた男を誘惑するために婚約者フィアンセの喉笛を奪い、影の水面みなもに沈めて美声を手に入れたけれど、肝心の想い人は聾者ろうしゃであったという悲劇の魔法。恋慕の杯中に叶わぬ夢を見たくちなわ……転じて〈蛇影だえい〉。その効力は性質のコピー。あんたのご自慢の鎖もコピーできるのね」


 前触れもなく降りだした魔力の雨水が波紋を拡げ、バルタザールの靴底を黒い水でひたすと、地肌から伸びた魔力性の鎖による拘束を完遂してしまった。

 身をもって味わわされたものとくらべると、目もあやな完成度に一驚を喫する。

 彼女はおそらく魔術の蘊奥うんのうを極め、その境地に達した。そういった言葉でしか言い表せない、快哉かいさいを叫びたくなるような美学を兼ね備えた魔法。


「ラミアのことですね」


 半蛇たるラミアの体鱗たいりんの音色は弦楽器のそれに似ており、弦楽奏者として名をせた主人の忘れ形見を取り込んだ説も有力とされる。


「いかにも。魔法に宿やどる悲しき願いゆえ、有形無形に関わらず複製が可能である」淡々と述べながら、バルタザールは後ろ手で拘束具の強度を調べていた。「……しかし見事だ。薬屋でくたらせるには惜しい才だよ」


 フーカはうんざりしたように息を吐いた。


「天才で美少女なあたしは、魔術師の汗臭い魔物退治にかかずり合う気はないの。とりあえず、ペットは返してもらうわ」


 勝利宣言をして杖をはらう、彼女の一挙手一投足がまぶしい。


よわい二十で美少女はきつい」


 ぼそりと彼が呟いた。


「同感です。しかも自称ですからね」


 私もほとんど負け惜しみで便乗する。街灯の傾いた明かりを弾く片側のこめかみに、青筋を立てたのがわかる。


「うっさい。なんかムショーに生き物を解剖したくなってきた。そういえば、失魔症に〈麻酔〉効かないの知ってた?」


 緑杖の両端が小刀とピンセットに変わっている。ないはずの肝が冷えていった。


「――ジェイドが言ってた気がする。うん、そうに違いないな。まぁ、僕は三十でも四十でも少女派かな。花鳥月という言葉があるくらいだし、むしろ少女がきみになんなとしているまである」

「私もジェイドさんから聞きました」

「なすりつけんなッ!」


 二人まとめて殴られた。前にも同じことがあったような。なんでもないふうに日常のやり取りに戻る私たちを、しばらく呆然と眺めていたバルタザールは、月の光にうながされるようにして静かに口を開いた。


「……学友に鋼鉄の魔女と揶揄されていた其方そなたも、随分と垢抜あかぬけて表情豊かになられた。心根に〈闇〉をくすぶらせていながら、原木が闇使いに選ばなかったのは、そういうことなのかもしれんな」


 郷愁めいて柔らかみのある声だった。


「なにが言いたいのよ」とフーカがにらみつける。


 ほんのわずかにほころんだ眉根にしわを寄せ、バルタザールは色をただす。


師妹していのよしみでこの狼藉は不問にそう。もとより魔法生物はえ物の玩具に過ぎない。好きに連れ帰るがいい」

「えっ、私の違法飼育が原因じゃないのですか」


 竜だとかなんだとか言っていたけれど、事の発端は違法飼育の取り締まりではなかったのか?


「実害を伴わぬ軽微な罪など、われの管轄にはあらず。心置きなく違反したまえ」


 あっけなさに面食らう。私が不要であるのなら、初めから彼を追っていたということになる。上手く言葉にできないが、奇妙な引っ掛かりをおぼえる。


「あらそう。でもあたしのペットっていうのは、こいつも含めるの」


 私と違って、フーカは動じなかった。至って平静なようすで虚空から鎖を追加し、彼の首に巻きつける。


「人間を〈服従〉させるのは人権侵害にたる重罪。現行の罪で捕まりたくなければ、クエレ君を解放するのだ。母娘おやこ水入らずの冷たい檻の中、貴重な若さをついやしてまで閑日月かんじつげつを送りたくはなかろう」

「同意を得ていれば問題ないでしょ。あたしはこいつのこと人間だと思ったこと一度もないし。……ねぇ? わんって言いなさい。アイルに悪いと思ってるなら」

「……わん」

「ほら。本人が望んでなきゃ、命令でもこんな恥ずかしい真似できないわ」


 もはや言葉だけで刺し殺す勢いではずかしめている。心底悔しそうにしているのが居たたまれない。


「茶番には付き合いきれん」今度はバルタザールがんだ溜息で返す。「……それで、何をお望みかな。研究費、希少な薬剤、治験者の提供、王宮禁書の持ち出し許可……わが権限および金銭でまかなえるものならばなんでも与えよう。それとも母君の釈放をご所望かね?」


 人間一人に対しては破格の条件だ。是が非でも手に入れたい。発言の奥底から並々ならぬ渇望を感じ取れる。


「全部よ、全部」フーカは悪びれもせずに答えた。「その上でこっちからも譲れない条件を追加しとく。……あたしを王宮に連れて行きなさい」


 理由はもちろん、あんたらへの嫌がらせになるだろうから。


「食えぬ魔女だ」

「あんたに食わせてやるほど安い女ではなくてよ」

「……よかろう。では拘束を解いてくれたまえ。わが使いのグリフォンが間もなく到着する。ご来賓となった以上、誓って其方そなたらに危害は加えぬ。共に王宮までお連れしよう」


 私たちは半信半疑でうけがい、フーカが指を鳴らして〈開錠〉する。敵愾てきがいの念がないのは本当のようで、バルタザールは手をつかねて雲の移動を見守っていた。久方の風を受けた高貴なる白エーデルワイスのマントが歓喜にそよぎだす。

 となりで甘い香りがして、フーカに手を握られた。冷たさにびっくりして包んであげると彼女は微笑んでくれた。温もりを忘れてしまった人肌をなんとか温めようとしているうちに、甲高いさえずりによるしらせが響いた。

 前脚で空気をいて舞い降りたグリフォンは、あの忌々しい猛禽種の挨拶を一同に交わし、四枚の鷲翼をたたんで搭乗をうながす。

 バルタザール、彼の順に乗り、最後にフーカが動いた。引っ張られてもつれかけた足で小さく抵抗する。私の口がたどたどしく音をつむぐ。


「よるいちが」

「またあたしが連れてきてあげるから」


 湿っぽい唇かられたのは、彼の名前ではなかった。

 そのわけを知りたいとは思わない。



 *



 へドリス王宮。かつては国をべる魔法使いの王――魔王が住まう城とも呼ばれていたようだが、人間社会の成熟と共に直轄地の防衛シンボルとしての存在意義は形骸化し、へドリス全域をまもる結界維持が主な役割となった。

 魔物との戦闘激化に伴う人間同士の縄張り争いの減少により、多くの軍事機能が取り払われた上に、艶やかな精彩を放つカーテンウォールの内側の庭園などは一般開放されており、外交のための宿泊施設が連なった宮殿的な意味合いが強い。

 しかし城の体を成すからには、歴史のどこかで王政の時代があったということ。変異種のアルラウネが猛毒を捨てたように、へドリスの民はいつしか身を滅ぼす猛毒となった王を捨てたのだろうね。

 そうして〈首無しの騎士デュラハン〉の様相をていする王族に取って代わるかたちで宮廷魔術師が内政の実権を掌握したことで、人々は魔術至上の思想に傾倒していき、ここでは生まれながらに高い適正を持つ賢者の血統が神聖視されている。

 空の旅路の途中、例によって彼だけが楽しそうにムードもへったくれもなくへドリス史のさわりをいてくれた。

 私たちは離れに建つ無人の見張り塔に降ろされた後、懸崖けんがいかる一本の長い長い跳ね橋を渡りきり、常時開きっぱなしの落とし格子の門扉をくぐり抜ける。夜ということもあって、外部のそこかしこに設置されたトーチのなよやかなあかりでは、闇にかくまわれた王宮の輪郭を申し訳程度になぞるのがせいぜいであった。

 マナの木の若葉の紋章が刻まれた鉄門扉へと繋がる曲がりくねった通路の石畳は、翼をがれた竜のモザイクアートになっており、私たちはその背中に導かれて進む。

 先導するバルタザールのおかげで面倒な手続きを省けたものの、長杖をたずさえた衛兵との無意味な会釈を五十回くらいさせられてうんざりした。

 二人がかりの魔法で重々しい鉄門扉が開き、私たちは城内をたす純白の光にいざなわれた。

 正面の大広間にほどこされているのは王冠状のブラインドアーチ。きれい。夜空を楕円にくり抜いた採光用の嵌め殺し窓トリフォラ。すごい。〈多頭竜ヒュドラ〉の生首みたいな照明器具。こわい。寄木張りのマナタイル。幾何学的!

 絢爛けんらんの二文字を従わせ、粛然とたたずまう光の海を前にして、私は語彙をあらかた失う。


「ようこそ、へドリス最高峰の王宮へ。青女の日につき、城内はもぬけの殻だがね」


 声はほとんど耳に入ってこない。門下の石段を登りながら、冷めやらぬ興奮と畏怖とで浮き足立つ。

 人の巣の、その畢竟ひっきょう

 これまで人間社会でつちかってきた、綺麗だとか華やかだとかいう単語の価値観は、泥濘ぬかるみに咲いた花をいつくしむ行為に過ぎなかった。


「わぁ……」


 なんの感情なのか、自分でもよく分からない。

 きらびやかな光に気を取られてばかりいたけれど、よく見ると百の武器を持つ百の手の巨人――ヘカトンケイルの像が最奥の暖炉をまたいで建てられている。さらに腕の数を減らしたものが二体、入口の両脇を固めていた。これらは「甲冑の乙女ワルキューレ」の別名を持ち、青女がそうであることから女性体で彫刻される。

 突き当たりまでびたグレイシャーブルーの刺繍の絨毯は、二万マイルの航路の果てにすらかれていそうな勢いだ。


「アイル、上を見てよ」

  

 彼の声に従う。

 伸縮性にけた腕を伸ばしてもはるかに遠い天井が、人間の顔よりえた螺旋の柱頭に支えられており、その中心の魔術的なメダリオン装飾に目が離せなくなる。またそれらの境界面からなるスパンドレルは、太古の神々の盛衰や人類の繁栄を描いた天井画に有効活用されていた。

 芸術をかじり、歴史に小さな歯型をつけた身として、完成までに要求されるであろう時間と繊細な技術に呆れ果てる。

 

「いつ見ても落ち着かないわ。冴えない誰かさんの冴えない絵のほうがましかも」


 王族の作法に則って野草茶をすするフーカ。そういえば、城内の使い魔に「いつものやつ」と注文していた。これがマンドラゴラの葉を萎凋いちょうさせたものなのは匂いで伝わる。私のもれたら美味しいのかな。


「意外だね」彼の反応は早かった。「フーカって光り物とか権力が好きそうなのに」


 時が止まる。彼女は飲みしのティーカップを〈浮遊〉させ、彼の頭上で細長いさじをかき混ぜながら傾ける。絨毯におねしょみたいな染みが拡がった。


「よくわかってるじゃない。あんたはくれたことないよね、あたしの好きなもの」

「いい香りになった」水浸しの彼は嬉しそうだった。「僕も頼もうかな」

「勝手にすれば」


 ご立腹なようす。彼がぜんぶ悪い。私も見真似みまねで使い魔を呼びつけ、燭台や食器を模したやつらに食べ物を要求する。気を利かせた一匹が菓子代わりに生肉を用意してくれたものだから、私は大いにはしゃいで皿ごと食べた。

 備え付けの魔法瓶に入っていた謎のスープも美味しかったのだが、おりまで舐め取った後でただの香水だと気づき、これまた絨毯に吐き出すとバルタザールが不愉快そうに魔法で清掃した。


「諸君らの品性を疑いたくなる。……こちらへ」


 宮仕えの魔術師はこめかみを押さえ、絹糸けんしの手袋をめなおす。壁面をともす銀製燭台の一つを操って、私たちを中庭のみえるカーテンウォールの渡り廊下に誘導する。

 一般市民向けの応接間まで通されると、二股のサーキュラー階段の右翼から侍女が駆け降りてきた。逼迫ひっぱくしたおもざしでバルタザールを呼び止める。


「旧王室にて其方そなたらを待つ御方の、接見の下準備が定刻よりも長引かれるそうだ。女人のさがゆえ、御粧おめかしは入念に行いたいのであろう。……王宮内の散策を許可してやりたいところだが、従者として未登録である魔法生物の徘徊はいかいは好ましくない。それまで応接間に待機を願いたい」

「図書館は空いてる?」


 たずねたのはフーカだ。

 帯杖のなかごを撫でまわし、バルタザールが壁掛けのからくり時計を見やる。


「閉館時刻を過ぎているが、館内の司書に〈開錠〉させよう。手透てすきの者よ。青女様御一行をお連れしたまえ」

「場所はあたしが知ってる、結構よ。召使いは下がっていいわ」


 相反あいはんする命令を受け、おろおろと二人の顔色をうかがう侍女が可愛らしい。


「……では、われわれの準備が整い次第、迎えに参ろう」


 半長靴の踵を揃えて応接間を後にするバルタザールに続き、彼女は深い一礼を残して立ち去った。


「行こうか、青女様」


 わざとらしくうやうやしい口調で彼がいった。青女アイル。この国では誰もが知っている名前であり、最もありふれた女性名でもある。接客中に年配の方から「青女様」と冷やかしを受けることもしばしば。多くの場合、女性を子ども扱いする際のからかい文句として使われる。

 親しみを込めた使われ方ではあるし、伝承はからかわれるくらいがちょうどいいのだとは思うが、むかつきはするよね。


「馬鹿にしないでください!」


 赤の他人はともかく名付け親が、私を名前でからかわないでほしい。


「きみに相応しいと思うけどな」

「どうせ、私って青臭い雌蕊めしべですもんね」

「それは卑屈すぎる」

「言わせておきなさい。名前ぐらいでしかマウントを取れない、悲しいモンスターなんだから」

「もんすたー。私と同じ?」

「ニュアンスとしては魔物よりはケダモノかしらね。アイルより格下も格下、地の底で泥水をし取って満足してるんだから、真っ当に生きてるけだもののほうが上位の生物よ」


 表現がむごいなあ、と魔物ながら彼に同情した。


「アイルとのデートの日なんだし、たまにはこう、僕の顔を立ててくれたっていいと思うんだ」

「あんたにもそういう感情あるのね」

 

 切ない反駁はんばくに目を丸くするフーカが何を思ったのかまでは分からないけれど、いつもより不機嫌なのは確かだ。それは王宮に来てからずっと。




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