私の生まれ

 

 伸ばした手で彼を引き離し、黒い液状の魔力を食いちぎる。手応えはなかった。疲労を考慮しても咬撃こうげきの威力に一切のかげりはないはずだ。

 両腕をくした〈容器〉は、血液をしたたらせるように地面に魔術の染みを作った。空洞の瞳をこちらに向け、声ともつかない呻きを上げている。傷口からあふれ出る液体そのものが行う激しい蠢動は、孵化後に糞便をいずり回る無数の寄生生物に近い。

 その一部は当然、私の口内に潜り込んでしまった。吐き気をもよおす不快感。拭い取ろうにもくちが開かなくなっている。明かりに照らしてみると、どろどろは錠の形に変わっていた。

 拘束系統の魔法。こんな回りくどい魔法をかける種族は、この世界にたった一種類しか存在しない。次なる敵は人間か。溜めた息に舌打ちを乗せてやる。

 彼の肩の上でもどろどろは不気味にうごめいている。魔法であるのなら、失魔症の彼にはさほど重大な危害を及ぼすことはなさそうだ。


「アイル、足元ッ!」


 彼の声が飛んだ。言葉を理解するより早くに私は地面を蹴りつける。しかしわずかに遅く、黒い液体に脚をつかまれた。

 それは目にもまらぬ速度でももを伝い、両手に聖痕せいこん現象のような痛みを生じさせた後、くちを縛ったものと同様の拘束具に変化する。彼の腕にも白銀しろがねの手枷が嵌められていた。

 自我なき人形相手では無意味と知りながら、私は魔力を撒き散らして威嚇する。


「近寄るなッ、操り人形風情が生意気な! おまえたちの目的はなんですかッ!」


 顔面が半ば液状化した〈容器〉はチカヨルナ、チカヨルナ、と中途半端な反響言語を返すのみで、発話すら難しい状態であった。往路で彼のヒッチハイクに応じたのであれば、対話用の魔法が埋め込んであると考えられるが、どうやら先ほどの攻撃で狂わせてしまったらしい。

 この手枷も問題だ。〈強化〉した膂力で引きちぎろうにも、錠の締めつけは強まるばかりだった。さらに抵抗のたびに魔力を吸われてしまい、力が上手く入らない。

 未知なる魔法に手こずっている間にも、二体、三体と分裂で数を増やした〈容器〉がのろのろと距離を詰めにかかる。

 今すぐに両腕を拘束具ごと切り落とし、こちらも魔法で対抗するか? いや、殺傷力の高いものは彼を巻き込む。かといってこのまま悠長に構えていてもよいものだろうか。

 しかしながらアエロウほど明確な敵意を感じられず、しばしの逡巡の末、私は無抵抗に賭けた。

 ややあって〈容器〉に四方を塞がれ、どろどろの身体が私たちに覆い被さろうとする。一縷いちるの望みはついえたとばかりに液状の暗転幕が周囲の明かりを奪い尽くした。

 本能で息を止めて待ったが、不快な感触はやってこなかった。それもそのはず、い流れる液体は砂礫と共に凍結しているからだ。代わりに吹き抜けた冷気にかじかみを憶える。


「氷の、花――」


 跳ねた水しぶきに至るまで見事に凍りつき、寒さに負けじと地表付近で根生葉こんせいようを開くロゼットの氷像となり果てる。出来栄えの美しさに目を奪われかけ、すぐに我に返った。

 まず間違いなくアエロウの魔法だ。確かに不定形の魔力体に対し、〈水〉の魔法は絶大な効力を発揮する。だがそんなことはどうでもいい。

 おまえを完膚なきまでに叩きのめしていたぶった、かたきであるはずの私を助けるなんて、にわかに信じられなかった。

 未だにアエロウは目覚めておらず、私を仕留めるために仕掛けておいた不発弾がまぐれで発動しただけなのかもしれないが、魔法に込められた生々しい憎悪の泥中にやつの意識を感じた。

 憎かったのは、こいつか。

 もやがかって消えそうな感情の残滓をすくい上げたとき、氷像にひびが入った。内側でおこされた〈火〉を見て、中身の入れ替わりを察する。


「術者のお出ましというわけだね」


 魔力を持たない彼ですら感じ取れたほどの尋常ならざる変貌であった。次いで圧倒的な魔力による〈劫火ごうか〉が氷像を融解させる。

 月明かりをさえぎる水蒸気の霧雨きりさめのなかで、一度、指が鳴る。すると霧は晴れて消えた。

 煙のように背の高い男が、私たちを見つめている。〈容器〉としての形をうしなった水溜まりは、男のてのひらに吸い込まれていった。

 魔法がただの魔力へと還元されていく過程で、あれは〈闇〉の産物だとわかった。私の手では識別できないくらいに高位の魔法であったのだ。

 闇使いを意味する黒杖をいて現れた、ヒトの身にあるまじき禍々しさを宿す片眼鏡モノクルの魔術師。手入れの行き届いた金糸の髪を毛先でたばね、宮廷仕えを示す高貴なる白エーデルワイスのマントをなびかせた出で立ちが、私たちとは別世界に住まう人間の気品をかもし出している。

 

冥途くらきみちの番人と相まみえる深手を負わされて尚も、わが歩みをはばまんとする、その執念深さは驚嘆に値する」


 指揮者を思わせる所作で黒杖を仕舞い、芝居がかった拍手を交えて闇使いがいった。この場にいないアエロウを褒め称えているようだ。それからねばりけのある瞳で、私と彼とを交互に見やる。


「実に素晴らしい。アエロウを単独で打ち破る力。わが魔術を脅威と認識し、攻撃に至るまでの判断の早さ。優れた知性、底なしの魔力、われわれとは次元をことにする再生力。他者へのささやかなる愛と正義。けがらわしい魔法生物でさえなければ、今すぐにでも魔術師の資格を与えてやりたいよ」

「名乗りなさい」

「これは失敬。わが名はバルタザール・ワイズマン。王宮より事態の鎮圧を命ぜられ馳せ参じた次第。勇敢なる魔法生物の奮闘によって、われの出る幕はなかったがね。さて世間では悪魔憑きワイズリーなどという不名誉な綽名あだなの独り歩きにほとほと参っているが、ご覧の通り、われは至って正常だとは思わんかね」


 薄々勘づいてはいた。失魔症孤児で施設暮らしのレブレを養女に迎え、フーカに多額の治療費を寄付したとされる、彼とは因縁深い宮廷魔術師。 

 

「どうでしょうね。おのれをまともだと言い張る人間が、まともだった例を見たことがないのですが」

「僕みたいにね」

「ややこしくなるので黙ってください!」


 状況が状況なだけに、話の腰を折りかねない発言は勘弁してほしい。しょんぼりする彼に、心の中で謝っておく。

 危険な男だと本能の警鐘は鳴りっぱなしだ。精神を病んだ人間特有の猟奇性と無感情をぜた表情。法外な魔法実験などで人々の口のに掛かる要注意人物。

 私の視線に気づき、バルタザールは胡散臭い笑みを浮かべた。

 もっともらしい理由ではあるものの、それならば戦線に加わった善良な市民の拘束は行き過ぎている。つまり強制的な手段で私たちへの接触を図るために、バルタザールはげなければならなかったのだ。


「……それであなた、精霊園で私たちをけていた魔術師ですね。どうやって嗅ぎつけた」


 これまで音沙汰がなかったということは、私たちの所在を見失っていたということ。

 私は首輪を握りしめる。大丈夫だ、とっくの昔に違法飼育ではなくなった。罰せられるいわれは払拭した。


「魔力を持たない生物の〈足跡〉を辿るのは不可能であり、われがその脚について知り得るはずもなく、ましてや王宮街ほどの人口では頼みの〈予知〉は意味をなさない。そう考えているね?」

「えぇ、もちろん」

「魔術社会において魔力を持たざるはまことに不便である。それゆえ日常生活に多くの魔道具を必要とする……そうであると掴んでさえいれば、これほど探しやすいものは他にあるまい」

「あのゲートか」


 魔力不全である失魔症の罹患率はごくわずか。魔術社会での不適合者として露命ろめいを繋ぐまでに困窮する発症者が大部分を占めており、失魔症患者による王宮街の出入りは稀なため、魔物連れの条件で絞り込んでいた……。


「左様。宮仕えともなると其方そなたらについて知り得る機会には恵まれる。……クエレ君。アイルくん。われに追われている自覚があるのであれば、師団が発行する航空券の利用は避けたまえよ」


 思わず、私はうなった。


「仮にですよ、今日王宮街を訪れたことや、私たちの素性まで調べられたとしましょう。でも実際にどこにいるかを突き止めるには、この街は広すぎると思いますが」


 あの警備員たちを使ってしらみ潰しに報告させたとして、日がな一日監視に専念できるくらいに手持ち無沙汰な役職でもない限りは難しい。


「無論、われは多忙の身であり、其方そなたの問いの一つひとつにこころよく答弁してやる義理もないのだが、うるわしき青女様のおぼしに従って答えよう。……われは血眼ちまなこになって其方そなたらを捜索したのではなく、盤上の舞台装置を手入れしたに過ぎん」

 

 もったいつけた言い回しの後、バルタザールは掲げた右腕で繊月せんげつを描く。


しかと見るがいい。出でよ、手荷物エキパヘス。鳥の供物。抜け殻の首輪。……其方そなたらをおびき寄せる餌に、北国のハルピュイアは好個こうこにえであった」


 私たちの足元に落とされたのは、短剣で串刺しのハルピーのむくろと、魔法がかれたトールストン製の首輪。私は全てを理解する。


「まさかあなたっ、母親の目の前でハルピーを殺したかッ!」拘束具のせいで思うように牙をけずによだれが垂れた。そして錠の締めつけが私のいきどおりを抑えつける。「……どうりで」


 ハルピュイアが人間に愛され、討伐指定種でありながら特例的に飼育可能な理由の一つに、そこにどれだけの危険が伴おうとも家族を見捨てない、という習性がある。

 やつが執拗に魔術師のみを狙っていたのはそのため。この男は邪悪だ。一刻も早く排除すべき悪だ。感情にき動かされ、手枷を捻じ切ろうともがいた。


「諦めたまえ。錠の形状にちなんで〈獣皮舟コラクル〉と呼ばれる古い三つ文字の魔法でね。力ではどうにもならんよ」


 諭すような口調が、かえって私の神経を逆撫でする。


小賢こざかしい人間にはお似合いの魔法ですね。おびき寄せて捕まえて、まるでアルラウネみたい。よければ花粉の撒き方でも教えて差し上げましょうか?」


 バルタザールはどこか貼り付いた不敵な笑みを崩さず、一盞いっさんを傾ける動作をした。透明なさかずきから大地に注がれるようにして、黒い魔力が垂れて拡がった。やがてうごめく影の波となって押し寄せ、私の両足を呑み込む。


「われは挑発には乗らぬ。高潔をうたいわれわれ人間をなみする諸君ら魔法生物を叡智の罠にかけ、意のままにあやなす征服を至上のよろこびとする性分なものでね」

 

 それから先の戦闘で折れた長剣を魔法で引き寄せると、影の水面に向かって無造作に投げ入れた。

 まずい、と思った。

 一滴の悪寒が背筋を滑り落ちた直後、くるぶしに鋭い痛みが走る。私は耐え兼ねて悲鳴を上げ、そのまま重力に屈してしまう。

 彼の叫びが遠のく。

 激痛にうめきながら確認すると、影でできた杭のようなものが、人間でいうところの腓骨ひこつから脛骨けいこつまでを貫通していた。投げ入れた素材の性質を受け継がせる魔法。私の膝下しっかで波打つ影の全てが鉄のつるぎということ。

 駆ける足音が近づいてきたので、〈大地〉の壁で押し返す。危険な影の海を歩かせるわけにはいかない。尻もちをついたらしき情けない声に、わけもなく勇気づけられる。

 これで手足とくちを封じられた。だが擬態の口は動くじゃないか。涎を垂らしながらも歯を食いしばり、ひたいを地面に擦りつけた姿勢で、それでも盛大に笑ってやる。


「あーあ、長すぎる御託に根腐ねぐされてきちゃいました。どうも魔物なので信仰心に欠けていまして、すみません。つまらない会話を続けても親睦を深められるとは思えませんし、く本題に移りなさい。……それとも私たちを殺す気か?」


 返答によっては四肢を捨て、バルタザールを噛み殺すつもりだった。その気になれば一噛みで片が付く。過程で何百、何千の刺し傷を受けようが私は死なない。

 彼との約束を反故ほごにするのは心苦しいが、人間同士も殺し合うのだから、遺体を食べなければセーフだろう。……だめかな。だめかもしれないけれど、殺されるよりはずっといい。


「今宵の騒動の真相を知る其方そなたらの息の根を断ち、減らぬ口を封ずるに越したことはないが、アイルくん。われは其方そなたの生まれにこの上ない興味を抱いている」


 花弁越しに降ってきたのは予想だにしない答え。


「私の生まれ……?」


 戸惑いを隠せなかった。

 影の杭がゆっくりと引き抜かれ、患部に〈治癒〉の魔法がかけられる。すぐに痛みは引いた。


「われは宮廷魔術師。この国で最も多くの魔法生物をあやめた、生き残りの大賢者の一人。ゆえに其方そなたらよりも魔法生物をよく知っている。単刀直入にこうか。其方そなたは本当にアルラウネかね?」


 条件反射的に鼻で笑う。


「人間は人間に、おまえは人間かとたずねるのですか?」


 鏡くらいは見たことがある。どこからどう見ても立派なアルラウネ。ヒトとして振る舞えとは言われたが、在り方と容姿はやはり違うものだ。

 最近はフーカの擬態とか、脚が生えてて、既存の個体と生態の異なる別種とも言えるし、そういう意味なのだろうか?

 的外れだとでも言いたげな表情で、バルタザールは片眼鏡モノクルの曇りを拭き取った。


「面白いが、われの問いはたわむれなどではない。では一つ、例を挙げよう。元来、。よって人間の声真似は不可能。言語は〈知識〉によって獲得したのであろうが、その声はどういった経緯であるのかね」


 私は声帯なくして人間の言葉を話すことができる。例えようのない不快感に胸がざわついた。

 私自身の致命的な矛盾について深く考えたことはなかった。〈発声〉の魔法は存在するが、魔法である限り永遠とはいかず、声は〈知識〉のように蓄えておけるものではない。


「私は変異種ですから」


 自分に言い聞かせる口調でいった。他に答えようがなかった。

 バルタザールは黒杖を抜き、魔力を込めて地面を叩いた。まばゆい〈光〉に照らされ、影の海が干乾ひからびて消える。秒針の刻みを思わせる整った歩調で干ばつした地面を渡ると、杖の先端をつるぎに変えて私の脚に向けた。


「さりとて生物の変異の幅には限度が存在する。長命であるほどに進化の速度は緩慢だ。ありふれた樹木種の魔法生物に過ぎないアルラウネが、一代で手に入れたものにしては多すぎやしないかと、これまでに考えはしなかったかね? 摂理を根底からくつがえす魔法じみた外力が働いて発生したのではないか……その、脚のように!」


 太腿を交互に突き刺され、私は苦痛にあえいだ。


「知り、ませんよッ……こっちがっ、訊きたいくらいです」

「どうやら本当に知らぬようだな。……では、クエレ君。これについては其方そなたのほうが詳しそうだ。初めから全てを知っていて、アイルくんに近づいたのであろうからね」

「なんのことだい」と彼はうそぶいた。

「クエレさん、どういうことですか」


 彼は顔色一つ変えないが、今、胸の内側に何かを隠した。バルタザールの言葉が真実なら、私の声や、脚の秘密を知っているということになる。


「悪いけど、アイルを困らせないでやってくれ。いじめるのもだめだ。僕にも考えがあるからねッ」


 そう言ってバルタザールの前に立ちはだかり、すぐに反転して私の右腕を蹴り上げた。なにするんですか。

 縛られて窮屈そうな左手の親指を立てて、これで大丈夫だ、と小声でいう。全然大丈夫ではないのですが。むかついて元気は出たけれども。


「しらを切るというのであれば、アイルくんに質問を続けよう」バルタザールがあごを撫でて私を見る。「竜は願いを叶える生物というのはご存知かな」


 一頭の飛竜がそびえ立つ原木の真上を横切った。夜空でのたくる群雲は散りぢりになり、月の光が黄色みを増した。


「青女の物語の」


 泉の緋色も、竜の鮮血だった。


「左様。われも伝承の時代に生きてはおらぬので、あの竜が、青女様の願いを叶えたとまでは断言しかねる。しかしこの現代のへドリスにおいて、竜が保有する神なる力をさずかりし魔女を知っている。それは其方そなたともゆかりの深いご婦人の血縁者」

「私とも?」

「その者の名は、レイカ・エリクシャ。わがふるき友であり、其方そなたあるじの母君にたる。とある流行りやまいを食い止めるために彼女は竜に願い、神なる力の恩恵をたまわり、そしてそのむくいを受けた。獄中の彼女の懺悔ざんげを誰もが嘲笑わらったが、われは真と確信している。言をたずともそれは伝わろう。なんせ、あの娘の母君なのだからね」

「気持ちはわかります」


 これには私も同意する。レイカさんとの面識はないけれど、真っ直ぐな女性であったのだと思う。


「……そこでアイルくんの話に戻るのだ。人間じみた感情を宿す思考も、市民をまもる行動も、強靭な肉体も、受けた傷をなおす速度も、もはやアルラウネの域にあらず。ただの魔物として考えると、其方そなたには矛盾があまりに多い。加えて、其方そなたはどういうわけか脚を手に入れた。果たしていつ頃、どのような手順を踏んだのかね。まさか辺鄙へんぴな人里にてり行われる雨乞あまごいのような儀式ではあるまい」

「昨日欲しくなって、寝ただけ……」


 言いながら気持ち悪さに吐きそうだった。そりゃあ、私だっておかしいと思ってたさ。生涯かけても叶うはずがなかった、大きすぎる願いを叶えてもらえるほど、私はよくできた魔物じゃない。


「やはりそうか。竜は願いを叶える力を持つが、願った者に罰という名の代償をもたらす。だがアイルくんの脚にそれらしきものは見受けられない。ゆえにわれはこう思うのだ。もしもそれが、竜みずからの願いであったのなら、叶えるのは容易たやすかろう。……改めてくが、其方そなたは一体、なんなのだね?」

 

 バルタザールの瞳が、好奇にちて爛々らんらんとしている。答えに窮する私の吃音きつおんを掻き消すように、彼が大きな溜息を挟む。


「アイルを調べたところで、きみの願いは叶わないよ」


 すぼめられた肩が、呼吸に合わせてわずかに下がった。


「お構いなく。われはすでにあの御方との再会を果たし、契約を結んでいる。其方そなたらの身柄と引き換えに、わが悲願は達せられる!」


 バルタザールが高らかに宣言するものの、彼はまるで興味がなさそうに首を振った。


「バルタザール卿」彼が苦い顔でいう。「やめておいたほうがいい。きみは願ってはいけない側の人間だ。僕やレイカさんと同じように、かならず後悔する」


 僕、という単語がはっきりと聞こえた。竜は願いに忠実。空港階段ふなとかいだんで彼は言っていた。

 私の脚は、竜の力によるものなのだろうか。ともすると、彼はなにを願い、なにを後悔したのだろう。


其方そなたが言うのであれば、そうなのかもしれんな。だが一度でも願ったのなら、わかるだろう。それで歩みを止められる道からは、とうに外れてしまった」


 喉元あたりにき止められた感情のせいでバルタザールの顔がゆがみ、震える声からはすがる者の弱さが垣間見えた。


「僕は別にきみが不幸になって欲しいわけではないから、一つだけ伝えておく。アイルの願いに代償がなかったのは、彼女が竜自身だからじゃない」彼の語気に呼応して夜風が強まる。「あのときアイルは願いにすがってはいなかった。正しい願い方をしたんだよ」


 ひとには誰しも願いがある。でも決してそれにすがりついてはいけない。そう言い放つ彼の背中を、今まで以上に大きく感じた。


「……とにかく、王宮までご同行願おう」


 バルタザールは声色こわいろを取りつくろい、〈獣皮舟コラクル〉の鎖を魔法でいた。二人してうつむき加減で歩きだしたとき、ふと魔力が揺らいだ気がした。

 顔を上げると、そこに空間のじれが生じていた。やおら開ききった〈座標まど〉の空隙くうげきの向こうで、見知った緑杖が振り下ろされる。


「待ちなさい」フーカの凛とした声が、夜の闇を照らすようだった。「あんた、誰に断ってあたしのペットを誘拐しようとしてるわけ?」





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