私の生まれ
伸ばした手で彼を引き離し、黒い液状の魔力を食いちぎる。手応えはなかった。疲労を考慮しても
両腕を
その一部は当然、私の口内に潜り込んでしまった。吐き気を
拘束系統の魔法。こんな回りくどい魔法をかける種族は、この世界にたった一種類しか存在しない。次なる敵は人間か。溜めた息に舌打ちを乗せてやる。
彼の肩の上でもどろどろは不気味に
「アイル、足元ッ!」
彼の声が飛んだ。言葉を理解するより早くに私は地面を蹴りつける。しかしわずかに遅く、黒い液体に脚を
それは目にも
自我なき人形相手では無意味と知りながら、私は魔力を撒き散らして威嚇する。
「近寄るなッ、操り人形風情が生意気な! おまえたちの目的はなんですかッ!」
顔面が半ば液状化した〈容器〉はチカヨルナ、チカヨルナ、と中途半端な反響言語を返すのみで、発話すら難しい状態であった。往路で彼のヒッチハイクに応じたのであれば、対話用の魔法が埋め込んであると考えられるが、どうやら先ほどの攻撃で狂わせてしまったらしい。
この手枷も問題だ。〈強化〉した膂力で引きちぎろうにも、錠の締めつけは強まるばかりだった。さらに抵抗のたびに魔力を吸われてしまい、力が上手く入らない。
未知なる魔法に手こずっている間にも、二体、三体と分裂で数を増やした〈容器〉がのろのろと距離を詰めにかかる。
今すぐに両腕を拘束具ごと切り落とし、こちらも魔法で対抗するか? いや、殺傷力の高いものは彼を巻き込む。かといってこのまま悠長に構えていてもよいものだろうか。
しかしながらアエロウほど明確な敵意を感じられず、しばしの逡巡の末、私は無抵抗に賭けた。
ややあって〈容器〉に四方を塞がれ、どろどろの身体が私たちに覆い被さろうとする。
本能で息を止めて待ったが、不快な感触はやってこなかった。それもそのはず、
「氷の、花――」
跳ねた水しぶきに至るまで見事に凍りつき、寒さに負けじと地表付近で
まず間違いなくアエロウの魔法だ。確かに不定形の魔力体に対し、〈水〉の魔法は絶大な効力を発揮する。だがそんなことはどうでもいい。
おまえを完膚なきまでに叩きのめしていたぶった、
未だにアエロウは目覚めておらず、私を仕留めるために仕掛けておいた不発弾がまぐれで発動しただけなのかもしれないが、魔法に込められた生々しい憎悪の泥中にやつの意識を感じた。
憎かったのは、こいつか。
「術者のお出ましというわけだね」
魔力を持たない彼ですら感じ取れたほどの尋常ならざる変貌であった。次いで圧倒的な魔力による〈
月明かりを
煙のように背の高い男が、私たちを見つめている。〈容器〉としての形を
魔法がただの魔力へと還元されていく過程で、あれは〈闇〉の産物だとわかった。私の手では識別できないくらいに高位の魔法であったのだ。
闇使いを意味する黒杖を
「
指揮者を思わせる所作で黒杖を仕舞い、芝居がかった拍手を交えて闇使いがいった。この場にいないアエロウを褒め称えているようだ。それから
「実に素晴らしい。アエロウを単独で打ち破る力。わが魔術を脅威と認識し、攻撃に至るまでの判断の早さ。優れた知性、底なしの魔力、われわれとは次元を
「名乗りなさい」
「これは失敬。わが名はバルタザール・ワイズマン。王宮より事態の鎮圧を命ぜられ馳せ参じた次第。勇敢なる魔法生物の奮闘によって、われの出る幕はなかったがね。さて世間では
薄々勘づいてはいた。失魔症孤児で施設暮らしのレブレを養女に迎え、フーカに多額の治療費を寄付したとされる、彼とは因縁深い宮廷魔術師。
「どうでしょうね。おのれをまともだと言い張る人間が、まともだった例を見たことがないのですが」
「僕みたいにね」
「ややこしくなるので黙ってください!」
状況が状況なだけに、話の腰を折りかねない発言は勘弁してほしい。しょんぼりする彼に、心の中で謝っておく。
危険な男だと本能の警鐘は鳴りっぱなしだ。精神を病んだ人間特有の猟奇性と無感情を
私の視線に気づき、バルタザールは胡散臭い笑みを浮かべた。
もっともらしい理由ではあるものの、それならば戦線に加わった善良な市民の拘束は行き過ぎている。つまり強制的な手段で私たちへの接触を図るために、バルタザールは
「……それであなた、精霊園で私たちを
これまで音沙汰がなかったということは、私たちの所在を見失っていたということ。
私は首輪を握りしめる。大丈夫だ、とっくの昔に違法飼育ではなくなった。罰せられる
「魔力を持たない生物の〈足跡〉を辿るのは不可能であり、われがその脚について知り得るはずもなく、ましてや王宮街ほどの人口では頼みの〈予知〉は意味をなさない。そう考えているね?」
「えぇ、もちろん」
「魔術社会において魔力を持たざるは
「あのゲートか」
魔力不全である失魔症の罹患率はごくわずか。魔術社会での不適合者として
「左様。宮仕えともなると
思わず、私は
「仮にですよ、今日王宮街を訪れたことや、私たちの素性まで調べられたとしましょう。でも実際にどこにいるかを突き止めるには、この街は広すぎると思いますが」
あの警備員たちを使ってしらみ潰しに報告させたとして、日がな一日監視に専念できるくらいに手持ち無沙汰な役職でもない限りは難しい。
「無論、われは多忙の身であり、
もったいつけた言い回しの後、バルタザールは掲げた右腕で
「
私たちの足元に落とされたのは、短剣で串刺しのハルピーの
「まさかあなたっ、母親の目の前でハルピーを殺したかッ!」拘束具のせいで思うように牙を
ハルピュイアが人間に愛され、討伐指定種でありながら特例的に飼育可能な理由の一つに、そこにどれだけの危険が伴おうとも家族を見捨てない、という習性がある。
やつが執拗に魔術師のみを狙っていたのはそのため。この男は邪悪だ。一刻も早く排除すべき悪だ。感情に
「諦めたまえ。錠の形状に
諭すような口調が、かえって私の神経を逆撫でする。
「
バルタザールはどこか貼り付いた不敵な笑みを崩さず、
「われは挑発には乗らぬ。高潔を
それから先の戦闘で折れた長剣を魔法で引き寄せると、影の水面に向かって無造作に投げ入れた。
まずい、と思った。
一滴の悪寒が背筋を滑り落ちた直後、
彼の叫びが遠のく。
激痛に
駆ける足音が近づいてきたので、〈大地〉の壁で押し返す。危険な影の海を歩かせるわけにはいかない。尻もちをついたらしき情けない声に、わけもなく勇気づけられる。
これで手足と
「あーあ、長すぎる御託に
返答によっては四肢を捨て、バルタザールを噛み殺すつもりだった。その気になれば一噛みで片が付く。過程で何百、何千の刺し傷を受けようが私は死なない。
彼との約束を
「今宵の騒動の真相を知る
花弁越しに降ってきたのは予想だにしない答え。
「私の生まれ……?」
戸惑いを隠せなかった。
影の杭がゆっくりと引き抜かれ、患部に〈治癒〉の魔法がかけられる。すぐに痛みは引いた。
「われは宮廷魔術師。この国で最も多くの魔法生物を
条件反射的に鼻で笑う。
「人間は人間に、おまえは人間かと
鏡くらいは見たことがある。どこからどう見ても立派なアルラウネ。ヒトとして振る舞えとは言われたが、在り方と容姿はやはり違うものだ。
最近はフーカの擬態とか、脚が生えてて、既存の個体と生態の異なる別種とも言えるし、そういう意味なのだろうか?
的外れだとでも言いたげな表情で、バルタザールは
「面白いが、われの問いは
私は声帯なくして人間の言葉を話すことができる。例えようのない不快感に胸が
私自身の致命的な矛盾について深く考えたことはなかった。〈発声〉の魔法は存在するが、魔法である限り永遠とはいかず、声は〈知識〉のように蓄えておけるものではない。
「私は変異種ですから」
自分に言い聞かせる口調でいった。他に答えようがなかった。
バルタザールは黒杖を抜き、魔力を込めて地面を叩いた。
「さりとて生物の変異の幅には限度が存在する。長命であるほどに進化の速度は緩慢だ。ありふれた樹木種の魔法生物に過ぎないアルラウネが、一代で手に入れたものにしては多すぎやしないかと、これまでに考えはしなかったかね? 摂理を根底から
太腿を交互に突き刺され、私は苦痛に
「知り、ませんよッ……こっちがっ、訊きたいくらいです」
「どうやら本当に知らぬようだな。……では、クエレ君。これについては
「なんのことだい」と彼は
「クエレさん、どういうことですか」
彼は顔色一つ変えないが、今、胸の内側に何かを隠した。バルタザールの言葉が真実なら、私の声や、脚の秘密を知っているということになる。
「悪いけど、アイルを困らせないでやってくれ。いじめるのもだめだ。僕にも考えがあるからねッ」
そう言ってバルタザールの前に立ちはだかり、すぐに反転して私の右腕を蹴り上げた。なにするんですか。
縛られて窮屈そうな左手の親指を立てて、これで大丈夫だ、と小声でいう。全然大丈夫ではないのですが。むかついて元気は出たけれども。
「しらを切るというのであれば、アイル
一頭の飛竜が
「青女の物語の」
泉の緋色も、竜の鮮血だった。
「左様。われも伝承の時代に生きてはおらぬので、あの竜が、青女様の願いを叶えたとまでは断言しかねる。しかしこの現代のへドリスにおいて、竜が保有する神なる力を
「私とも?」
「その者の名は、レイカ・エリクシャ。わが
「気持ちはわかります」
これには私も同意する。レイカさんとの面識はないけれど、真っ直ぐな女性であったのだと思う。
「……そこでアイル
「昨日欲しくなって、寝ただけ……」
言いながら気持ち悪さに吐きそうだった。そりゃあ、私だっておかしいと思ってたさ。生涯かけても叶うはずがなかった、大きすぎる願いを叶えてもらえるほど、私はよくできた魔物じゃない。
「やはりそうか。竜は願いを叶える力を持つが、願った者に罰という名の代償を
バルタザールの瞳が、好奇に
「アイルを調べたところで、きみの願いは叶わないよ」
「お構いなく。われはすでにあの御方との再会を果たし、契約を結んでいる。
バルタザールが高らかに宣言するものの、彼はまるで興味がなさそうに首を振った。
「バルタザール卿」彼が苦い顔でいう。「やめておいたほうがいい。きみは願ってはいけない側の人間だ。僕やレイカさんと同じように、かならず後悔する」
僕、という単語がはっきりと聞こえた。竜は願いに忠実。
私の脚は、竜の力によるものなのだろうか。ともすると、彼はなにを願い、なにを後悔したのだろう。
「
喉元あたりに
「僕は別にきみが不幸になって欲しいわけではないから、一つだけ伝えておく。アイルの願いに代償がなかったのは、彼女が竜自身だからじゃない」彼の語気に呼応して夜風が強まる。「あのときアイルは願いに
ひとには誰しも願いがある。でも決してそれに
「……とにかく、王宮までご同行願おう」
バルタザールは
顔を上げると、そこに空間の
「待ちなさい」フーカの凛とした声が、夜の闇を照らすようだった。「あんた、誰に断ってあたしのペットを誘拐しようとしてるわけ?」
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