察しの悪い人間ですね
路には霜が降りていた。塀に飾りつけられた
青女の日――かつては木枯れの季節であったらしいが、緩やかな気候変動の影響でずれてしまったため、霜の時季には少し早い。
斜面を覆う霜が帯びた魔力性の冷気。人間の放つ魔力とは明らかにかけ離れた〈水〉の産物。もはや魔物の仕業に疑いはなかった。
私は急いだ。
真っ白な
さらに二段ほどめぐると、避難を呼びかける声がはっきりと聞こえた。指示に従い逃げ惑う人たちで
魔法の不自由な人は、私と同じように走っていた。流れに逆らいひたすらに上を目指す
「危ないので近づかないでください!」
若い魔術師だった。
「私はあなたの上司です。手短に状況説明を求めます」
はじめは猜疑の目を向けられたものの、私があまりにも平然としていたので騙されたのか、申し訳ありません、と謝罪を述べるに至った。それから拘束を解き、神妙な面持ちでいくつかの情報を渡してくれた。
「――なるほど、やはりハルピュイアが原因でしたか。〈水〉の魔力を
「おっしゃる通り、アエロウの取引でした」
「よろしい。では、任務に戻りなさい。ついでにその術師帽はお借りしますね。なんせ休暇中だったものですから、ほら、私服では締まらないでしょう」
「は、はぁ……」
またしても警戒の色を
「あなたの働きぶりには期待しています。事態の収拾後はこれを返さなくてはいけません。そのときは食事にでも行きましょうね」
その後、私は術師帽のつばを触った。これで
「……ハイッ!」
生真面目そうな若者を真っ赤な嘘で丸め込み、師団員の
さっそく〈帽子〉で
気が緩みかけたところに空の息吹を体現したかのような〈風〉が駆け抜け、本能が身を
懐かしい、とも思う。森はその身に多くの命を住まわせる一方、休まることのない
彼を置き去りにした地点から数えて四つ目の坂に差し掛かると、そこで惨状を目の当たりにした。
巨大な爪で抉り取られた地面。片足を引き摺ったような血痕。氷漬けの街路樹。無惨にも倒壊した建物の瓦礫は、ちょうど枯れ木の下に外れ落ちた
依然としてハルピュイアの姿を発見できずにいるが、鳥獣の魔力を驚くほど近くに感じる。
慎重になろうと決めた矢先、戦闘と
「意識はありますか、あなた。死んではだめです」
負傷者の頬を叩く。空腹も相まって、顔や衣服に染みた血液の匂いに興奮しかけた。衝動をどうにか抑え込んだ私は、〈止血〉の応急処置を施しておく。
傷の治りが早い。
予め魔法を掛けていたのか。ならば、大事には至らないはずだ。男は意識が混濁したようすのまま、血塗れの術師帽を握り、震える指で南西に
蔓による魔法の識別と、その建物の破壊は同時に起きた。ハルピュイアの鉤爪が石材を貫き、私たちの真上を飛び越えていった。次いで醜悪な鳴き声を上げたかと思えば、空中で
死体と覚悟したが、落下の途中で魔術師の一人に助けられ、短い会話を交わしたように見えたので息はある。
灰翼のハルピュイア。へドリス語で「
後ろを見る。〈予知〉は続いている。本能で意図を理解する。足元のひしゃげた猟銃と瓦礫に刺さった長剣を強奪、もとい調達し、私は一気に距離を詰めた。
かつて私の命を狙い、私に奪われた人間のほとんどが持っていたから、たぶん強い。強い私ならまさしく魔術師に杖だといえる。
爪先に集中させた魔力が身体を軽くする。跳躍の前後で奇妙な全能感に包まれた。今なら時間の流れすら掌握できる気さえした。
眼前で魔術師が着地する。そこにアエロウが迫るであろう、未来が視えた。私は長剣を振りかぶった。
大腿部を負傷した同僚の身体を横たえる、その隙を狙い澄ましたかのように〈水〉の魔法が発動する。地面ごと片足が凍る。舌打ち。すかさず、アエロウが爪を剥いて加速する。
抜杖し、応戦の構え。防護魔術の詠唱。それは間に合わない。だが、私の刃が間に合った。
魔術師に向けて繰り出された致命の一撃を受け流すべく、剣の切っ先を滑り込ませる。
予期せぬ反撃に崩されたアエロウは
剣は諦め、ひしゃげた猟銃に持ち変えた私は、鈍器の扱いと同じ要領で横っ
「バカッ! 銃口を持ってどうする、引き金を引け!」
罵倒されたが無視する。引き金ってなんですか。
そんな軽口を叩く余裕はないので殴り続ける。アエロウは猛禽らしく湾曲した
私を凍らせるための魔法を常に仕掛けているようだが、どういうわけか寒さには滅法強かった。
「さあさあ、北国の〈水〉遊びでは歯が立ちませんよ。あなたは鳥ですから、立てる歯、ないでしょうけど!」
そこで私と入れ替わるように立った魔術師により、正面の空間に〈
間一髪、交差させた蔓で防ぎきる。しかし、その恐るべき怪力に繊維の一部が断たれ、
形勢が傾きかける。損傷の程度を悟られまいと私は最大限の魔力を解き放ち、アエロウを威嚇する。
ほらみろ、受けきってやったぞ。おまえでは私を殺せまい。次はかならず殺してやる。単純明快なる力の言語だ。
ぎゃあ、ぎゃあ、と鳴き声を上げ、アエロウは翼を
今は捕食者としての序列を探るために回遊魚のように飛び回っている。本来であれば、ここで諦めるのが互いにとって有益である。だが、やつの目には誇りと憎しみがあった。また殺しに降りてくる。
人間と思われているうちに再生の時間稼ぎがしたい。アルラウネと分かれば息つく
アエロウは
一度肩の力を抜き、魔術師を見やる。ケロイド状の古傷が目立つ強面の中年男性だった。眼光は鋭く信念に満ちており、私のような魔物を大義などと抜かして斬り捨てそうな雰囲気がある。
「他所からの応援か、助かった。見ない顔だが、どこの所属だ」
魔術師は同僚に〈治癒〉をかけていた。魔法で姿を
「エリクシール・フーカに在勤。主に接客を担当。勤続一年目、後継ぎの心配には
不可解そうに首を捻られた。
「実戦経験は」
「数えてませんが、ざっと二百年ほど」
「そりゃ、頼もしい」
アエロウを見据えたまま、魔術師は背面に跳んだ。さきほどまで立っていた場所に氷の矢が突き刺さる。氷はすぐに溶け、羽根に戻った。
私は膝と心臓部に合わせて三本被弾している。今まで動けなかった身だ。咄嗟に避けるという命令を下せなかった。
仕返しに瓦礫を槍に変えてこちらの射程を示そうとすると、その詠唱を魔術師は
「外せば被害が拡大する。どこまで飛ぶか分からんものに頼るな」
「近くに人がいるのですか」
「いや、それはない。
「術者はどこに?」
「そこの、瓦礫の裏だ。被害を最小限に食い止める
「あいッ!」
人体の急所を狙った氷の矢。今度は辛うじて避ける。身体が慣れてきた。夜を彩る街灯の〈光〉が、こちらに向けて羽根を
やはりその瞳には憎しみが宿っている。
上空より放たれる正確無比な射撃を回避しつつ、私は魔術師の男に問い
「アエロウがなぜ、あなたがたに憎しみを抱いているのか、包み隠さずに話しなさい」
食欲とは明確に異なる殺意。言葉を交わさずとも、やつが人間を嫌っていないことは分かる。しかし、魔術師を憎んでいる。
幾星霜を経て
「それが分からんのだ。ただ、首輪の付け替えまでは従順な女だったが、その後に暴れ始めたとの報告を受けている」
「首輪の不良?」
「……そう考えるのが妥当だろう。だがな、アエロウは首輪がなくたって人間を襲うことはない。それがどんなに凶暴な女でもだ」
私は首肯する。獰猛なのは
呪いで魔物に変わり果てたお姫様の姿は、北の大地の
こういっては身も蓋もないが、幼少期はちびで臭く、大人になっても
「しかしハルピュイアとグリフォンは違います。名ばかりとはいえ討伐指定される魔物には、相応の理由があるはずです」
一方でハルピュイアが原因とされる人身被害件数は、非討伐指定種のグリフォンのそれを凌駕している。
魔術師は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「これだから頭でっかちな
「……ソ、ソウデシタ!」
ずれた術師帽を被り直す。今は新人魔術師に擬態しているのだった。口は
瓦礫の盾を操りつつ、私は考える。
居住区域内外の治安維持を目的とする組織の人間らしい、博愛とも差別的ともつかない独特の価値観。彼やタビ、フーカとも
根っからのハルピュイア好きか、思春期以降の強烈な実体験によるものか(アエロウとの性交で感染症に
その時、アエロウが滑空姿勢で飛来する。両翼に超低温の〈水〉を
どうも人間の武器が好みらしい。
鳥の
立ちのぼる砂埃に
「アエロウとの距離を縮めた。攻撃は任せたッ!」
「もうすでに」
やつに向けて〈大地〉の槍を撃ち下ろしている。空間の歪みにアエロウは気づかない。今、私の
直撃だった。
降り注ぐ瓦礫が、やつの悲鳴に変わる。
「そのまま弾けろッ!」
風穴を開けるだけでは墜落には至らない。だから槍に千切った蔓の断片を仕込んでおいた。魔力によって強制的な回復を
空に見放されたアエロウは徐々に速度を上げながら落下を開始する。重力を思い知るがいいです。
「でかした新入り! やつに土の味でも噛みしめさせてやれ」
男も似たようなことを口走っていた。ローブの袖に霜が垂れている。〈
あとは生け捕りにすればいいと思った。だが衝突まで残り数秒といったところで、やつの右翼は空を掴み直す。
「翼が再生している……?」
目を疑う。赤黒い
「……違うな。傷口を魔法で凍らせ、無理やり翼の形を保たせてる。要は
そうか、欠けた部位を魔力で補っているのか。私の再生と違い、消耗の激しい延命行為。
アエロウが咆哮する。
解き放たれた魔力が周囲の温度をいっそう低くする。やつはようやく私を見た。魔術師の仲間としての認識を捨て去り、純粋な怒りで私を見つめる。瞳が、私だけを狙っている。
「めちゃくちゃ怒ってるなあ……。他に戦える者はいないのですか」
把握できる数で魔術師の負傷者は十二名。結界維持の術者が一名と、この男。下の避難誘導者が少なくとも五名。
今の戦力で怒り狂ったアエロウを制圧するのは不可能といっていい。私が新人の立場なら命惜しさに逃げ出すだろうね。でもそれは許されない。魔術師とは難儀なものだ。これほど絶望的な状況下でも、市民のために犠牲にならなければいけないというのだから。
「とっくに応援要請してるが、しばらくかかる。
「竜?」
「青女は竜の隠語でもある。青女の日とは、竜が最も活発になる日だ。お前、試験は寝てたのか?」
「実技派なので」
言いながら、アエロウの体当たりを同時に
やつが通り過ぎるたびに破壊の力を宿した風が巻き起こり、周囲の建物が〈切断〉されていく。
私たちは風の斬撃を魔力の壁で遮断し、回避を徹底する。たまに魔術師が〈落雷〉を命中させているが、人間の貧弱な魔法では魔力の鎧に
こうも好き勝手に暴れられると、だんだん腹が立ってきた。ぶっ飛ばそうにも安全がどうのこうのとうるさいし。
「で、詮索は結構だが策を明かせ。お前の動きに合わせてやっているが、アエロウを疲れさせるのが目的ではないのだろう」
単調な動きに痺れを切らした男が
「流石はベテランさんですね」
「世辞はよせ。お前の余裕そうなツラをみると、
実際に余裕だった。多少の
「しつれいな! あなたが弱すぎて、それはもう頼りないので呆れているだけですよ」
「失礼なのはお前だろ」
「そう怒らないでください。せっかく私の好きな人とお揃いなんですから、幻滅しちゃいますよ?」
「……なかなかお前は、見る目がない女だな。俺に似て、よっぽどいい男なんだろう」
「えへへ」
「褒めてないが」
気を抜いた途端に攻撃を受ける。肩が抉れた。フーカの魔法で
「ちなみにですが、
「俺が維持に加われば可能だ。これでも防護専門だからな」
「では結界の補強と、ついでに負傷者の移動も任せました。私が、アエロウをぶん殴ってやります」
「お前にできるのか?」
「私はあなたがたと違って嘘つかないです。擬態してますけど。……さっきは嘘つきましたけど」
魔術師を
「どっちなんだ」
「どっちなんでしょうね」
自分でもよく分からなくなった。それより、と私は続ける。
「……知っていましたか? ハルピュイアの胃袋にはアルラウネ毒への耐性がありましてね。よく親戚が為す術なく食べられるところを見かけたものです。とりわけアエロウはその毒が大好物で、夜間にアルラウネの花粉を嗅ぐと興奮のあまり飛び方を忘れてしまう個体がいるのだとか。本能的酩酊とでも言いましょうか。つまりアルラウネの毒素によって酩酊状態にさせることで、事実上の拘束ができるわけです。結界内から出られません。これなら避難誘導は楽々で、私も気兼ねなく戦えて、かならず勝つので世界平和でハッピーになります」
控えめな胸を張りまくって説き伏せにかかる。魔術師の男は渋い顔で首を横に振った。
「アルラウネの毒の成分は複雑すぎる。魔法で作るのは無理だ。となると直接採取になってくるが、これも易々と手に入るモンではないぞ」
おかしくて声が出そうになった。目の前に本物がいるというのに。ああ、そうだ。術師帽を被っていたんだったな。
「あなたもなかなか、察しの悪い人間ですね」私は〈帽子〉を脱ぎ、隠していた
私はアルラウネで、薬屋見習いのアイルだ。おまけにとっても強い。虫の居所はとっても悪い。負ける道理がない。
「……聴取すべき事柄は山ほどあるが、今は目を
「いいえ」
即答だった。散々傷つけてきた人間を、今更、守るべき対象だと言いきるには無理がある。
以前とは人間に対する心境が異なるのも事実であったが、見ず知らずの人間に救いの
人間の問題は人間が解決すべきだと思っているし、私にとって死というものはありふれている。森には
死にたくはないが、死には慣れすぎた。アエロウに殺されかけた人間を、心の底から救いたいかと問われると、やはり否であった。
だから極力
――こっちが
人手不足と分かり、人間の厄介ごとに首を突っ込もうと決断した理由。何度考えてもそれらしい解を導けないのだ。
ただ、そうしたほうがいいと思った。心が合理ではないと、私が守りたいと思う女性は言っていた。
「だったら、なぜ戦う。お前を信ずるに足る根拠を示せ」
「根っこですか。そうですねえ……。強いていうなら力の差が歴然としているから、でしょうか。もとより私にとってアエロウとは、命を
会話を待たずにアエロウが肉薄する。鋼の剣を砕いたその脚の一振りを、直立不動のまま、
巨大な捕食機構を有する変異種は、毒に頼りきりのやわな原種とは強さの次元が違う。おまえたちの安否を気遣わなくてもよいのなら、やつの制圧など児戯を覚えるよりも簡単だ。
「あなたも知っての通り、私は魔物です。人間ほど小難しく、あれやこれやと考えません。ちょっと鳥肉の味を確かめるだけ。興味がありますので、ほんとうに、それだけです」
アエロウが、がらがらと音を立てて埋もれた翼を起こす。男はそれを
「……
「しけもくでも吹かして、とっとと逃げやがれ、です」
仲間を〈浮遊〉させて去る男の背中を見て、なんだか気が楽になる。彼もあれくらい素直に逃げてくれたらいいのに。
デコイの花粉を撒いておこう。よそ見をされてはこちらも
「逃げたり、泣いたり……情けないところばかり見せていましたが、今はかれがいないので、私、めちゃくちゃ強いですからね」
冷気を宿した荒くれものに語り掛ける。大地を侵食する
生来、私は一度たりとも負けたことがなかった。自然界において敗北とは死ぬこと。からがら逃げ
私とおまえで、一対一。互いに無敗の生命。ぶつかればどちらかに敗けがつく。これといった策はないし、必要もない。私はかならず勝つからだ。そうやって生き残ってきた。
「辞世の花言葉」再び、爪撃を
夜市までは一時間を切っている。
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