杖になれます

 二度目か、三度目か。膝下しっかに鋭い痛みが走った。初めは針虫の毒毛に撫でられたと勘違いをしたが、そうではなかった。炎症はどこにもない。原因不明の痛みが体内をいのぼり、私の気道につっかえる。息が苦しい。またしても胸騒ぎだ。

 森の悲鳴と重なる。

 彼の話し声が遠い。

 感嘆詞だけの会話をどうにか成立させ、不調は気のせいだと片付けた。思い返せば、今すぐにきびすをめぐらせろといった類いの警鐘であったとも取れる。

 疼痛とうつうめいたしらせは刻々と酷さを増していったが、ついに忍び寄るわざわいのかんばせを拝むことはなく、若い声がひしめき合う橋梁市場に到着する。その名の通り、巨人の肋骨リブズ・ヒルの原木の根から空港階段ふなとかいだんへとかる橋上に造られた縦長の商店街だ。

 青女の日に開かれる夜市よるいち――魔法使いのたちの夜バザール・マギの発祥地である、とアーチ上部で揺れ動くさまざまな垂れ幕の一つが教えてくれた。

 橋の双曲に分断された斜陽が、前を歩く魔術学徒の制服に夕刻の影をえがく。ほかにも休暇中の魔術師の強い気配がしたり、崩れた顔立ちを魔法で整えようとする女と目が合って居たたまれない気持ちになったり、フーカの擬態に騙されて二度見した男がうでに気づき白地に肩を落としたり。

 夜市に向けて準備中の屋台から香ばしい匂いが漂いだし、これは一体どんな冒涜ぼうとくなんでしょうね、と彼に話しかけた。彼の答えは忘れてしまったが、左右のランタンにぽつぽつとだいだいともり始めたことは印象的だった。

 それから世話好きな雰囲気をたたえた警邏けいらの魔女がやってきて、彼の肩で抱卵姿勢のケライノを〈消臭〉したついで、魔物の教育話に花を咲かせていた。途中、私よりも大人びた化粧の彼女に鼻の下を伸ばすのが気にくわず、すねを蹴って縮めてやった。

 ――あらあら。アルラウネも焼きもちをくのね。大丈夫よ、私には世界一の旦那がいるから。あなたの彼は二番目に素敵ね。

 なんて言って、余裕の笑みで蔓を握られる。それはそれで嬉しかったりするのだけれど、彼女への敗北感がすごかった。

 間もなく後方で起きたヒステリカルな言い争いの仲裁に入る彼女を見送り、私たちはどちらともなく息を吐いた。


いさかいの芽をむ仕事は気が滅入りそうだ」と彼は同情していった。


 アルラウネの私と悪臭のケライノ。二つの立派ないさかいの種を所持するだめ人間。なるほど警邏の目に狂いはなかったか。


「自覚なしはさておき、変な嘘ついてませんでした? 高級素材のペットフードをすらすらと並べ立てていましたが、それ、私一度も食べさせてもらったことないのですが」 

「見栄」

「は?」

「綺麗だったからつい……魔法かな、ははっ……いたッ!」

「すみません、つい。が出ちゃいました。おかしいなあ。これも魔法ですかね?」

「鳩尾に穴が開くかと思ったよ」

「開けばよかったのに」


 さらに唾でも吐きかけてやりたい気分だが、私の体液には若干の鎮痛作用がある。馬鹿に薬をつけたらもったいない。いい具合に悶絶しているので置いていこう。

 すると彼にうでを掴まれる。


「ひとりで歩くと危ないよ」

「離してください。私は強いですから」

「いや、危ないのは僕の身だ」彼は真面目な顔をして言う。「この人混みのなか、きみが離れているあいだに財布を盗まれでもしてみろ、たちまち一文無しになるぞ。僕では今夜の夕食すら守れない自信がある」

「はぁ……」 

 

 あろうことか夕食を人質に取るとは情けない。悪い意味での彼らしさに毒気を抜かれてしまい、私は大人しく従った。

 行列をなす人びとの熱気に揉まれ、足の裏に疲労が蓄積し始めた。得体の知れない焦燥も喉の奥にへばりついたままだった。

 市場の中央を越え、彼はローブ売りの区画で歩みを止めた。古式床しい葦簀張よしずばりの裏で露天商が退屈そうに座っている。絹糸虫けんしちゅうの純白の糸をって仕立てたローブなどは、虫に食い荒らされた茣蓙ござのせいでいくらか不衛生にみえた。


「透明ローブだって。しかも半額だ」

「〈光〉に反応する魔法だと思いますが、これは……」

 

 値札の横に添えられた注意書きをみる。ふむふむ。着用者が透明になれるのではなく、ローブのみが透明になる。要するに下着が透けるだけ。詐欺まがいの商品に、こういうのがいいんだよ、と彼は上機嫌でいった。


名残なごりというのかな。街は見ないうちに栄えたし、人びとの恰好から根付いた思想に至るまで、何からなにまで様変わりした。それでいて、ここは変わらないな」


 感慨深げにつぶやいた彼にならい、頭上の垂れ幕のほうに視線を向ける。そこには奇妙な魔力の痕跡があり、掠れかけでつたない文字が刻まれていた。


のぬけみち……?」

「これは〈隠処かくれが〉の出口だ。過去に利用した誰かの落書きだろう」

「あなたがたが、ひみつきち、と呼んでいた」

「話したっけ」

「それくらい、話さなくても知りますよ」私は小さく笑いかけた。「働きながら学ぶことも多いのです。こうみえてフーカさんが留守のあいだ、お店を任されたりしちゃってます。魔法薬を台無しにする頻度も減りました」

「アイルがきてから店の瓶が半分になったと嘆いていたね……」


 彼の声にわずかな落胆が混じる。それは私に対してではなく、封鎖された足場に向けられているようだった。

 長きにわたって子どもたちの侵入を見守った賢者の遺産は、魔力の劣化によって自然消滅したのだろう。


「へドリスは小さなローブ売りの町から発展した。とにかく古くて、泥臭くて小汚い、砂埃と伝染病が蔓延しているような場所だった。今の平民街よりもずっと貧しかった。売り物の服だけはどうにか背伸びしてつくろってさ、若い活気に満ち溢れていたよ」

「自然で喩えると?」

「山や森が終着点なのだとしたら、その頃は言わば、文明の荒野かな。魔法も大して役に立たなかった。想像力は余裕ありきで育つものだからね。……人びとは愛し合った分だけ争って、街を大きくして、未来に知恵をたくし、そうして森はできた」


 私は唇を湿らせてから、彼の手首に蔓を巻きつける。


「まるで、お気に入りの木が枯れてしまった、とでも言いたげな顔です」


 得意気に歴史を講ずる最中でさえ、彼は落書きを凝視していた。寂しそうに伏せられた目が、周りの景色に上手く馴染めずに浮き上がる不器用な色を思わせた。


「僕はこういった温かみのある魔法が大好きだったんだ」

「魔法の温かみ」

「なんて言えばいいのかな。直接誰かを幸せにしたり、悩みを解決したり、豊かにできるわけではないんだけど、それがあるだけで生きるのがほんの少し、楽しみになるような……僕たちだけがその秘密を知っている気持ちにさせてくれる」

「絵のような」

「家の壁に飾るくらいしか使いみちがなくて、地味なわりには無駄が多くて、どうしようもないのにどうしようもなく温まる……僕の家に残してくれた、きみの絵が、僕の好きな魔法に似ている」

「暖炉のそばに飾るからですよ」 


 かすかに熱を帯びた耳元に、彼の声が届く。「やっぱり、アイルといるだけで元気が出るよ」


 再び、彼は行列に沿って歩き始める。手首に巻きつけた蔓をほどいて、その一歩後ろを付いてまわりながら、口内に溶かし込んだ空気を押し出す。


「……わ、私でよければ、あなたの杖になれます」言っているうちに恥ずかしくなって、私は顔をそむける。「もっともっと練習して、それから」


 彼の好きな魔法を習得できたら、寂しい思いを少なくとも一回分は減らしてあげられる。

 美しいねえ、と他人事めかした口ぶりで彼がいった。これは美しいのかな。叶わない願いではないのにさ。



 ローブいちつかの間を過ごし、私たちが巨人の肋骨リブズ・ヒルの傾斜のうずに足を延ばした、まさにその時だった。

 ケライノのけたたましい鳴き声が、二人の満帆セールを取り巻く風向きを変えた。さえずりをぴたりと止める、凶兆を告げる気配はあった。嵐の前の静けさ。炭鉱のハルピー。森の鳥獣にしろ、彼らには身の危険をいち早く察知する能力が備わっている。


「ケライノがおびえてる」彼は抱き寄せてなだめようとする。「どうしたのかな」

「おおよそ言語と呼べる音ではないので何とも……」


 嫌な予感はした。この先に不穏な気配があるにはあるのだが、魔力を辿たどって探ろうにも王宮街の濃度が高すぎた。

 街全体が魔力的に不透明であり、ハルピーの生態に詳しいわけでもないので、私は考えあぐねていた。


「鳥獣けの結界はなさそうです」

「古い石材が苦手とか」

「そんな鳥がいるとでも?」


 この辺りの建物は古いが手厚く〈保護〉されたものばかりだ。石材が苦手というくらいなら、魔法の一つを天敵と誤認しているほうがまだあり得る。成体の知能の高さを考慮すると、これも限りなく低いか。

 

「首を捻って静かにさせるのはだめですよね」

「きみはいつも物騒だな」

「冗談ですよ。しかし、鳴き止まないのは気がかりなので、ここは一旦、引き返し――危ないッ!」

 

 すれ違うはずの蹄獣車が突如、バランスを崩してこちらに突進してきたのだ。私は彼を突き飛ばし、しっかりと車輪にかれた。人間の骨であれば確実に折れていたであろう衝撃をまともに受け、特になんともなかった。花粉はちょっと漏らした。


「だいじょブ、カ」


 大丈夫ですか。のそのそと下獣げばした馭者ぎょしゃは私に、私は壁に激突した彼に呼びかけた。あぁ、頭から流血している。ケライノを守りきれたようだが、彼は負傷していた。


「どこ見て走っているんですか! 轢いたのが私じゃなかったら、あなた大変なことになっていましたよ!」

「ワダチにつまずイタ。すみまセん、デシタ」


 馭者が謝罪する。単に喋るのが苦手な人間ではなく、この馭者は土くれの精霊だった。青銅の鎧とぼろぼろの被笠かぶりがさ、そして人間の真似事を好む風変わりなやつらである。


「ふん。潰れた爪先から気持ち悪い体液止まりませんが?」

「魔獣医を呼ビマス。辛抱シンボウできマスか」

「結構です、五分で治りますので。それと呼ぶなら樹木医です。けものと間違えられたショックで受粉できなくなったかもです」


 なんともないは片足が潰れた程度のほぼ無傷という意味だ。


「ドウしたら、イい?」

「かれにいてください」

 

 患部を押さえ、ふらふらと立ち上がる彼を支えながらいった。


「この子の気が立ってるのは、ぶつかられてびっくりしてるだけです」彼が穏やかな口調で私の肩を小突いた。「ほら、アイルも。〈鎖牽きゴーレム〉の故意ではなかっただろうから許してあげなよ。さいわい僕も軽傷で済んだっていうか、これ、きみに吹き飛ばされたのが原因じゃ……」

「気のせいです」

「そうかい」


 彼は項垂うなだれる。吐いた息を掻き消すほどの音量でケライノが鳴いている。私は傷口が塞がる前に体液を掬い取り、丁寧に塗りつけてあげる。それからゴーレムに話しかける。


「あなた、魔物の扱いには詳しいですよね」

「仕事デスので」

 

 ゴーレムが頷く。蹄具ていぐや積荷の一部にイバ商店のトレードマークがあったので半ば確信していた。

 要領を得ない受け答えからは知能の低さが垣間見えるけれど、精霊の括りでは極めて高い部類に入る。ここでは主に蹄術ていじゅつを扱い、荷物や愛玩魔物の運搬に従事した精霊をまとめて鎖牽きゴーレムと呼んでいる。


「ケライノ……この子がどうして鳴いているのか分かりますか?」


 ゴーレムは少し考えてからいった。


共鳴ともなきデショ、ウ。成体間デノ、競争カ、モしれナイ。ハルピーの声、母親のコウフンを抑制ヨクせいスル」

「競争……」

  

 母性の象徴としても描かれるハルピュイアは、子育てと狩りをめすのみが行う。おすの発生は稀な上、かよわく短命であり、ハーレム内で雌に養われて過ごす。その間、ひたすら交尾を要求されるだけの使い捨ての道具に過ぎず、用済みになると越冬の非常食として殺される。

 その性質から求愛方面での争いは起こらないと判断していい。縄張りを共有するのでそちらの線も消える。


「居住区域でハルピュイア同士が揉めるとは考えにくい」


 彼が、私の考えを代弁してくれた。多くの鳥獣は視線による注目を嫌う。人間の街で不用意に目立ちたくはないはずだ。


「人馴れしているケライノが、人間のことをたとえば……姿が違うハルピュイアだと思い込んでいたりしたら、どうでしょうか?」

「ソれはニンゲンの喧嘩、ですカ?」

「はい。人間同士の」

「……前例ナシ。ただシ、ニンゲンとハルピュイア、ならば可能性アリ」

「くわしく」

「根掘り葉掘り」


 私たちは声を揃えて続きをうながす。


「先程。あちらのホウ。魔術師サマとの、取引でハルピュイアを護送しマシタ。大人しいデスガ、若輩者デハ手に負えなくナる、コトも、しばしば……」


 ゴーレムが坂の螺旋の中腹あたりを〈光〉で示す。背伸びをしても目視できる距離ではなさそうだった。


「ありがとう。ちょっと様子を見てくるよ」

「どういタシマ、して。……しカシ、不能のアナタでは、推奨できナい」

「よく言われるんだ」


 さも当然のように歩きだそうとするものだから、私は慌ててまわり込み、蔓を左右目一杯に伸ばして立ちはだかる体勢をとった。

 

「待ってくださいッ! あなたが駆けつけたところで、どうにかなる魔物ではありません!」

「きみが来てくれるなら大丈夫さ」

「そういうことではないのです! ……過去にハルピュイアと対峙したジェイドさんが、誰を助けようとして、何を失ったのか、忘れてしまったとでもいうのですか?」

「……憶えてるよ」

「ならば、あなたは逃げなくてはいけない人です。弱いからではありません。あなたに何かしらの秘策があるのだとしても……仮にハルピュイアよりも強いのだとしても、救われた命である以上、かれらには近づくべきではないのです」


 それで彼が死んでしまったら、ジェイドの犠牲をも踏みにじることになる。親しいからこそ、命に不誠実な選択を見過ごせるわけがない。


 決まりが悪そうに口元を歪め、彼が食い下がる。「まだハルピュイアが暴れていると決まったわけじゃないだろう?」


「それはそうですが……」


 入手できた情報は魔術師に引き渡したという一点のみ。ケライノの共鳴ともなきは実のところただの癇癪で、たまたま重なった可能性も捨てきれない。とはいえ肌にまとわりつく嫌な感触が楽観視に待ったをかける。


「ケライノの異変が魔物によるものだったと分かったら、僕は一目散に逃げると約束する。それより早くに彼女の具合が落ち着いたら夜市に戻ろう」


 これでいいか、と彼の瞳が訊ねてくる。その背後では橋の上から届いた薄橙の斑点が重なっている。夜の顔がぐっと近くなった。

 

「約束するよ」


 念を押すような彼の言葉が、見せかけの耳朶を打つ。


「……時間はありますからね」私はすでに彼のほうを見ていなかった。「ところでゴーレムさん。私の荷物を預けてもよろしくて?」

「お詫ビでシたら、喜んデ」


 うやうやしく頭を下げられる。喜んでというわりにはやけに無愛想に響いた。

 またしてもゴーレムはのそのそとした動きで荷台に向かうと、使いさしの荷造りの紐束をほどき、こちらに投げ渡した。すこし硬い。直ちに魔法で柔らかい羽毛を再現する。強度は弄っていないので、たとえば活きが良くて大きめの生き物を縛りつけたとして、それが多少暴れたくらいではびくともしないだろう。――こんなふうに。


「アイル……?」


 はりつけにされた彼の唇が困惑をらす。ごみ袋を縛ったみたいな恰好が不満なのかな。後ろ手に変えてあげよう。


「あなたはジェイドさんでも、フーカさんでもありません。はっきりいって足手まといです。そして私は私なりに、あなたの気持ちも、あなたが取るであろう行動もわかっているつもりです。もしも何かが起きていたら、適当にお節介を焼いてきたらいいのでしょう?」


 きつい言いかたになってしまったが、これが最善に思えた。賽の目の出方が分からないのなら、決して裏返らないように細工しておけばいい。


「でもきみだけを危険に巻き込むのは」

「まだ決まったわけじゃない」


 ほとんど被せるようにいった。


「行けとめいじなかったのは、あなたらしくて好感が持てました。それでは私のゆびでも咥えて、ごゆっくりどうぞ」


 僕はここで待ってるから見に行ってくれ。彼がそのような合理の軽薄さを持ち合わせていたらどんなに安心できたことか。

 あなたが望むなら、私は傷つくことなんかどうだっていいのに。もちろん思いやりは嬉しい。しかし彼の青っちろい誠実を、そうですかとみ下してあげられるほど自然が綺麗だったことはない。

 自然は強者をことのほか寵愛する。なぜなら自然こそが寝返り一つであらゆる生命をおびやかすほどの強者であるからだ。強き同胞には弱者を護る自由を与えてくださるが、これも全てとはいかない。護るためには引かなければならない線もある。

 鋭く強大な魔力がほとばしった、今、わかった。善悪どちらにせよ、そこには魔物がいる。

 抗議の意思を感じたのでわたしくつわを噛ませておいた。ケライノ共々。苦いかな。犯罪臭もしますね。


「魔法は一時間で解けますが、早く片付けば〈地図〉を辿って回収しに行きます。ゴーレムさんは自分の仕事に戻ってください」


 ヘカーテ、と小さく付け加える。


「ご依頼、承リまシタ」ゴーレムは蹄獣の背にまたがり、手綱をたぐり寄せる。「よルいちは二時間ゴ」

「間に合わせます」

「ご武運ブウンヲ。何卒、ナニトゾ……」


 規則正しいリズムで遠ざかる蹄鉄の音を聴きながら、私は駆けた。全身に力がこもる。肉とステーキ。とびきりに高いやつ。ご褒美くらい、ねだっても構いませんよね。空きかけのお腹に喋りかける。

 




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