杖になれます
二度目か、三度目か。
森の悲鳴と重なる。
彼の話し声が遠い。
感嘆詞だけの会話をどうにか成立させ、不調は気のせいだと片付けた。思い返せば、今すぐに
青女の日に開かれる
橋の双曲に分断された斜陽が、前を歩く魔術学徒の制服に夕刻の影を
夜市に向けて準備中の屋台から香ばしい匂いが漂いだし、これは一体どんな
それから世話好きな雰囲気を
――あらあら。アルラウネも焼きもちを
なんて言って、余裕の笑みで蔓を握られる。それはそれで嬉しかったりするのだけれど、彼女への敗北感がすごかった。
間もなく後方で起きたヒステリカルな言い争いの仲裁に入る彼女を見送り、私たちはどちらともなく息を吐いた。
「
アルラウネの私と悪臭のケライノ。二つの立派な
「自覚なしはさておき、変な嘘ついてませんでした? 高級素材のペットフードをすらすらと並べ立てていましたが、それ、私一度も食べさせてもらったことないのですが」
「見栄」
「は?」
「綺麗だったからつい……魔法かな、ははっ……
「すみません、つい。
「鳩尾に穴が開くかと思ったよ」
「開けばよかったのに」
さらに唾でも吐きかけてやりたい気分だが、私の体液には若干の鎮痛作用がある。馬鹿に薬をつけたらもったいない。いい具合に悶絶しているので置いていこう。
すると彼に
「ひとりで歩くと危ないよ」
「離してください。私は強いですから」
「いや、危ないのは僕の身だ」彼は真面目な顔をして言う。「この人混みのなか、きみが離れているあいだに財布を盗まれでもしてみろ、たちまち一文無しになるぞ。僕では今夜の夕食すら守れない自信がある」
「はぁ……」
あろうことか夕食を人質に取るとは情けない。悪い意味での彼らしさに毒気を抜かれてしまい、私は大人しく従った。
行列をなす人びとの熱気に揉まれ、足の裏に疲労が蓄積し始めた。得体の知れない焦燥も喉の奥にへばりついたままだった。
市場の中央を越え、彼はローブ売りの区画で歩みを止めた。古式床しい
「透明ローブだって。しかも半額だ」
「〈光〉に反応する魔法だと思いますが、これは……」
値札の横に添えられた注意書きをみる。ふむふむ。着用者が透明になれるのではなく、ローブのみが透明になる。要するに下着が透けるだけ。詐欺まがいの商品に、こういうのがいいんだよ、と彼は上機嫌でいった。
「
感慨深げに
「ひつみのぬけみち……?」
「これは〈
「あなたがたが、ひみつきち、と呼んでいた」
「話したっけ」
「それくらい、話さなくても知りますよ」私は小さく笑いかけた。「働きながら学ぶことも多いのです。こうみえてフーカさんが留守のあいだ、お店を任されたりしちゃってます。魔法薬を台無しにする頻度も減りました」
「アイルがきてから店の瓶が半分になったと嘆いていたね……」
彼の声にわずかな落胆が混じる。それは私に対してではなく、封鎖された足場に向けられているようだった。
長きにわたって子どもたちの侵入を見守った賢者の遺産は、魔力の劣化によって自然消滅したのだろう。
「へドリスは小さなローブ売りの町から発展した。とにかく古くて、泥臭くて小汚い、砂埃と伝染病が蔓延しているような場所だった。今の平民街よりもずっと貧しかった。売り物の服だけはどうにか背伸びして
「自然で喩えると?」
「山や森が終着点なのだとしたら、その頃は言わば、文明の荒野かな。魔法も大して役に立たなかった。想像力は余裕ありきで育つものだからね。……人びとは愛し合った分だけ争って、街を大きくして、未来に知恵を
私は唇を湿らせてから、彼の手首に蔓を巻きつける。
「まるで、お気に入りの木が枯れてしまった、とでも言いたげな顔です」
得意気に歴史を講ずる最中でさえ、彼は落書きを凝視していた。寂しそうに伏せられた目が、周りの景色に上手く馴染めずに浮き上がる不器用な色を思わせた。
「僕はこういった温かみのある魔法が大好きだったんだ」
「魔法の温かみ」
「なんて言えばいいのかな。直接誰かを幸せにしたり、悩みを解決したり、豊かにできるわけではないんだけど、それがあるだけで生きるのがほんの少し、楽しみになるような……僕たちだけがその秘密を知っている気持ちにさせてくれる」
「絵のような」
「家の壁に飾るくらいしか使い
「暖炉のそばに飾るからですよ」
かすかに熱を帯びた耳元に、彼の声が届く。「やっぱり、アイルといるだけで元気が出るよ」
再び、彼は行列に沿って歩き始める。手首に巻きつけた蔓をほどいて、その一歩後ろを付いてまわりながら、口内に溶かし込んだ空気を押し出す。
「……わ、私でよければ、あなたの杖になれます」言っているうちに恥ずかしくなって、私は顔をそむける。「もっともっと練習して、それから」
彼の好きな魔法を習得できたら、寂しい思いを少なくとも一回分は減らしてあげられる。
美しいねえ、と他人事めかした口ぶりで彼がいった。これは美しいのかな。叶わない願いではないのにさ。
ローブ
ケライノのけたたましい鳴き声が、二人の
「ケライノが
「おおよそ言語と呼べる音ではないので何とも……」
嫌な予感はした。この先に不穏な気配があるにはあるのだが、魔力を
街全体が魔力的に不透明であり、ハルピーの生態に詳しいわけでもないので、私は考えあぐねていた。
「鳥獣
「古い石材が苦手とか」
「そんな鳥がいるとでも?」
この辺りの建物は古いが手厚く〈保護〉されたものばかりだ。石材が苦手というくらいなら、魔法の一つを天敵と誤認しているほうがまだあり得る。成体の知能の高さを考慮すると、これも限りなく低いか。
「首を捻って静かにさせるのはだめですよね」
「きみはいつも物騒だな」
「冗談ですよ。しかし、鳴き止まないのは気がかりなので、ここは一旦、引き返し――危ないッ!」
すれ違うはずの蹄獣車が突如、バランスを崩してこちらに突進してきたのだ。私は彼を突き飛ばし、しっかりと車輪に
「だいじょブ、カ」
大丈夫ですか。のそのそと
「どこ見て走っているんですか! 轢いたのが私じゃなかったら、あなた大変なことになっていましたよ!」
「ワダチに
馭者が謝罪する。単に喋るのが苦手な人間ではなく、この馭者は土くれの精霊だった。青銅の鎧とぼろぼろの
「ふん。潰れた爪先から気持ち悪い体液止まりませんが?」
「魔獣医を呼ビマス。
「結構です、五分で治りますので。それと呼ぶなら樹木医です。
なんともないは片足が潰れた程度のほぼ無傷という意味だ。
「ドウしたら、イい?」
「かれに
患部を押さえ、ふらふらと立ち上がる彼を支えながらいった。
「この子の気が立ってるのは、ぶつかられてびっくりしてるだけです」彼が穏やかな口調で私の肩を小突いた。「ほら、アイルも。〈
「気のせいです」
「そうかい」
彼は
「あなた、魔物の扱いには詳しいですよね」
「仕事デスので」
ゴーレムが頷く。
要領を得ない受け答えからは知能の低さが垣間見えるけれど、精霊の括りでは極めて高い部類に入る。ここでは主に
「ケライノ……この子がどうして鳴いているのか分かりますか?」
ゴーレムは少し考えてからいった。
「
「競争……」
母性の象徴としても描かれるハルピュイアは、子育てと狩りを
その性質から求愛方面での争いは起こらないと判断していい。縄張りを共有するのでそちらの線も消える。
「居住区域でハルピュイア同士が揉めるとは考えにくい」
彼が、私の考えを代弁してくれた。多くの鳥獣は視線による注目を嫌う。人間の街で不用意に目立ちたくはないはずだ。
「人馴れしているケライノが、人間のことをたとえば……姿が違うハルピュイアだと思い込んでいたりしたら、どうでしょうか?」
「ソれはニンゲンの喧嘩、ですカ?」
「はい。人間同士の」
「……前例ナシ。ただシ、ニンゲンとハルピュイア、ならば可能性アリ」
「くわしく」
「根掘り葉掘り」
私たちは声を揃えて続きを
「先程。あちらのホウ。魔術師サマとの、取引でハルピュイアを護送しマシタ。大人しいデスガ、若輩者デハ手に負えなくナる、コトも、しばしば……」
ゴーレムが坂の螺旋の中腹あたりを〈光〉で示す。背伸びをしても目視できる距離ではなさそうだった。
「ありがとう。ちょっと様子を見てくるよ」
「どういタシマ、して。……しカシ、不能のアナタでは、推奨できナい」
「よく言われるんだ」
さも当然のように歩きだそうとするものだから、私は慌ててまわり込み、蔓を左右目一杯に伸ばして立ちはだかる体勢をとった。
「待ってくださいッ! あなたが駆けつけたところで、どうにかなる魔物ではありません!」
「きみが来てくれるなら大丈夫さ」
「そういうことではないのです! ……過去にハルピュイアと対峙したジェイドさんが、誰を助けようとして、何を失ったのか、忘れてしまったとでもいうのですか?」
「……憶えてるよ」
「ならば、あなたは逃げなくてはいけない人です。弱いからではありません。あなたに何かしらの秘策があるのだとしても……仮にハルピュイアよりも強いのだとしても、救われた命である以上、かれらには近づくべきではないのです」
それで彼が死んでしまったら、ジェイドの犠牲をも踏み
決まりが悪そうに口元を歪め、彼が食い下がる。「まだハルピュイアが暴れていると決まったわけじゃないだろう?」
「それはそうですが……」
入手できた情報は魔術師に引き渡したという一点のみ。ケライノの
「ケライノの異変が魔物によるものだったと分かったら、僕は一目散に逃げると約束する。それより早くに彼女の具合が落ち着いたら夜市に戻ろう」
これでいいか、と彼の瞳が訊ねてくる。その背後では橋の上から届いた薄橙の斑点が重なっている。夜の顔がぐっと近くなった。
「約束するよ」
念を押すような彼の言葉が、見せかけの耳朶を打つ。
「……時間はありますからね」私はすでに彼のほうを見ていなかった。「ところでゴーレムさん。私の荷物を預けてもよろしくて?」
「お詫ビでシたら、喜んデ」
またしてもゴーレムはのそのそとした動きで荷台に向かうと、使いさしの荷造りの紐束を
「アイル……?」
「あなたはジェイドさんでも、フーカさんでもありません。はっきりいって足手まといです。そして私は私なりに、あなたの気持ちも、あなたが取るであろう行動もわかっているつもりです。もしも何かが起きていたら、適当にお節介を焼いてきたらいいのでしょう?」
きつい言いかたになってしまったが、これが最善に思えた。賽の目の出方が分からないのなら、決して裏返らないように細工しておけばいい。
「でもきみだけを危険に巻き込むのは」
「まだ決まったわけじゃない」
ほとんど被せるようにいった。
「行けと
僕はここで待ってるから見に行ってくれ。彼がそのような合理の軽薄さを持ち合わせていたらどんなに安心できたことか。
あなたが望むなら、私は傷つくことなんかどうだっていいのに。もちろん思いやりは嬉しい。しかし彼の青っ
自然は強者をことのほか寵愛する。なぜなら自然こそが寝返り一つであらゆる生命を
鋭く強大な魔力が
抗議の意思を感じたので
「魔法は一時間で解けますが、早く片付けば〈地図〉を辿って回収しに行きます。ゴーレムさんは自分の仕事に戻ってください」
ヘカーテ、と小さく付け加える。
「ご依頼、承リまシタ」ゴーレムは蹄獣の背に
「間に合わせます」
「ご
規則正しいリズムで遠ざかる蹄鉄の音を聴きながら、私は駆けた。全身に力が
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます