こんなに幸せでいいのかな



 そのひるかた、王宮街行きの飛空艇ひこうきを下船すると波止場に停泊していたもう一隻の方向から彼が駆け寄ってきた。


飛空艇ひこうき、めずらしく遅れたんだね」

「魔力検査に引っ掛かっちゃいまして。私、検査官嫌いです。寄ってたかって質問攻め。アルラウネに厳しすぎます!」


 彼は平民街から、私は中心街からそれぞれの〈空港ふなと〉にて飛空艇を利用したのだが、やはり魔物由来の魔力であるせいか警報が鳴った。


 ――乗船手続きの際に飼育許可証と航空券を提示できるくらいだから大丈夫だとは思うけど、お時間をいただけるかな。

 ――へえ、君は野生種のアルラウネなんだね。……主食は人間かあ。いい子だからひとまず別室に移動しようか。

 ――いやいや、魔物差別だなんてとんでもない。この船は魔物連れのお客様も多くご利用になられている。ただねぇ、アルラウネの単独乗船は前代未聞でね。君のご主人に連絡取れるかな。


 受付係の検査官は物腰柔らかな人だったが、なかには高圧的な態度の人もいて気孔きこうふさがりかけた上に、呪詛じゅその文言みたいな質問の連続で頭がおかしくなりそうだった。

 やつらの毛髪を頭皮ごと引きがして筆にしてやりたい。ぶちまけた脳漿と血液をかき混ぜる妄想もはかどった。


「災難だったね。……そうはいっても仕事だしさ、アイルをいじめるつもりはなかったと思うんだ」

「やつらの肩を持つと、そこの魔力くさい湖底に沈めますよ」

「きみは僕に厳しい」

「愛のむちです」

「痛いのは苦手だよ」


 彼は靉靆あいたいとした笑みを浮かべていった。


「翼の折れたグリフォンみたいな顔で突っ立ってますけどね、なにか私に言うべきことがあるのでは?」

「雰囲気が大人っぽくなった、かな。フーカの私服も似合ってる」

「……及第点です」


 私たちはとても自然な流れで腕を組んだ。馴染なじむ温度。履きなれない靴。たまにもつれる足音が調子はずれで面白い。

 脚を願ったのは彼の隣に立つためだ。彼と並んで歩くことが夢だった。あなたがそっぽを向いた瞬間に、それが叶ったということを、あなたは気づいているだろうか。

 はやしたてるように湖面が〈風〉を吐く。季節外れの冷気が身にみる。よくできた魔法だ。

 王宮街には精霊園より供給された魔力の増幅装置となる〈精霊炉せいれいろ〉が点在し、それにより莫大な魔力を付与することで自然現象を再現している。飛空艇の出入りする〈空港ふなと〉も精霊の魔力を借りて開発された人工湖である。


「脚さ、良かったね」

「えぇ。あなたのほうこそ無事でなにより」

「僕の心配をしてたの?」

「昨日の今日で願いが叶うのは、いささか虫の良すぎる話ですから。あなたの脚を奪ってしまったのかと」


 世界はパステルピンクで描かれているわけじゃない。目をらすと配色がでたらめだったり、顔をそむけたくなるようなかげができていたりする。代償があると疑うのは当然だ。

 ともすると、あの場に居た彼が支払わされる事態を憂慮していた。彼の脚を奪ってまで叶えたい願いではなかった。まったくの杞憂きゆうに終わってくれたことに胸をなでおろす。


「僕の脚か!」彼の哄笑こうしょうが響き渡る。「奇蹟の正体が何者であれ、僕らの入れ替わりをたのしむへきはないだろう」

 

 あまりにも真っ当すぎて身体が火照りをおぼえる。


「笑わないでくださいッ! わりと本気だったんですよ、こっちは!」 


 彼はまたしても大きく笑い、王宮街の入り口ではためく〈青女の旗〉をみる。この旗は雪となった村娘になぞらえて氷の結晶をモチーフにしており、グレイシャーブルーで描かれた霜柱のデザインが可愛らしい。

 悲しい物語であるから、せめて象徴くらいは明るくしようと頑張ったのかな。そう考えると、ランタンの火が灯ったみたいに心があたたまった。

 すれ違いざまに蔓で触れてみる。あっ、と声が出る。周囲をただよう魔力に隠されていたが、旗だけは手作りだった。

 記憶のふたが開く。手間をかけたからこそ、なんかこう、魂を揺さぶられる感覚になるだろ。

 これはこれは、まいりました。さすがにみとめざるを得ませんね。

 

「……本、読んだことあるのかい?」


 青女の旗に魅入みいられる私がよほど意外だったらしく、彼は目をぱちくりとさせていた。


「『青女の祈り』ですか?」

「うん」

飛空艇ひこうきの待ち時間に読みました。王宮街に行くなら読んでおきなさいと、フーカさんに貸してもらいましてね」


 私は、本棚を漁っている彼女の姿を思い浮かべながらいった。


「フーカはいい母親になりそうだね……。アイル的にはどうだった?」と彼がいた。魔物視点での感想に興味津々といったオーラが前面に出ている。

「面白かったですよ」


 これも素直に認めた。私は芸術の世界に触れてからも物語だけは嫌いだった。人間を楽しませるために作られた文章は虚無だと思い込んでいた。

 実際、読みかけるまでは気乗りしなかったし、デートに役立つと自分に言い聞かせてページをめくったくらいだ。

 あれほど嫌っていた物語だが、いざ読んでみると新鮮で、文字のみでえがかれる白黒の世界にき込まれていった。結びの余白まで目を通した直後にどっと降りかかる疲労感もたまらない。何度も読み返した。

 考察にもふけった。青女が霜や雪そのものを指す単語なのは物語に由来するのかな、とか。竜はどうして彼女を雪に変えたのだろう、とか。霜垂しもしずりは実在するのか、とか。

 フーカの研究室には、〈火〉の魔力の生成異常が原因とされる〈全身性発火症〉にまつわるレポートがじてあったので、実在するとしたらその辺りだとは推測できる。


「そうか」と素っ気なく返す彼は、心なしか頬の筋肉をこわばらせていた。入退管理の魔術ゲート付近に立ち並ぶ屈強な警備員のせいだと察する。


 私はフーカたちの付き添いで何度も訪れた経験があり、後ろめたいこともないのですんなりと通過した。一方で失魔症の彼は普段から様々な魔道具を持ち歩くため、その内の何かに反応したのか、数名の警備員に取り囲まれていた。よくある誤作動らしく、落ち着いた口調でいくつかの質問をし、最終的に手動でゲートを開けてくれた。


「緊張したよ。護身用の魔道具に反応しがちでね。本職の魔法には見劣りするけど、他者を攻撃できる武器ではあるから」と彼はわざとらしく額をぬぐって簡易杖クラムジーを取り出す。「ほら、アイルがくれたやつ」


 働きたての頃、誕生日という文化を教わった私が、無防備な彼の身を案じてプレゼントした杖だった。誰にでも使えるようにあらかじめ迎撃用の魔法が装填された、ちまたで話題のバリアフリーな杖。ただしそれ以外の魔法は不発となるため、不器用な、の異名を併せ持つ。


「これ見よがしに出さなくていいです。……あとなんですか、その形容しがたいポーズは」


 彼は得意げに杖を構え、腕を交差させるヘンテコなポーズを決めていた。絶妙にダサく、注目をびていて嫌なのですが。


「真の力」

「は?」

「いや、だから真の力」


 なんなんでしょうね、この人は。


「子どもじゃないんですから……。浮かれてないで行きますよ。空港階段ふなとかいだんにはあなたの設定よりも見るべきもので溢れています。実はですね、入ってみたいお店があったんですよ。今日は付き合ってください」


 私はすでに点数稼ぎなどはどうでもよくなり、彼をエスコートすることにした。期待を諦めさせる力が不思議と彼には備わっている。それを真の力と呼ぶのなら、そうかもしれない。

 彼の手を取り、ユニコーンのたてがみのように白亜の雑踏に混じる。カラフルな衣服の人波を突っ切ると、つぶらな屋根の宿屋があり、その横で「王の都」を意味する碑文いしぶみが〈原木〉の枝に覆われていた。

 栄華を求めた人びとの欲望のしるしでもある王宮街はマナの木の古代種、すなわち巨大なマナ原木を基盤として開拓された樹木の街だ。幹回みきまわりは街一つ分に匹敵し、この木を中心に螺旋らせんを描いた構造の街並みが特徴とされる。いただきの王宮へと繋がる渦巻き状の坂――〈巨人の肋骨リブズ・ヒル〉の古風な建造物がかもし出す厳格さは、迫力こそあれど面白味に欠けると観光客の間で人気低迷が顕著なものの、外側で栄えるはなやかな色彩の住宅地やあきないのみちである空港階段ふなとかいだんはその限りではない。

 流行の変遷へんせんに先駆ける奇をてらった外装の店舗群、最先端の魔法技術を展示披露する博覧会場、アーティスティックな壁画、多文化共生のメッセージ性に富んだ観光スポット、または富裕層のみをターゲットに絞った高級志向な飲食物といった、一般市民にも分かりやすい基準の娯楽が充実しており、まつりごとと縁遠いデートであればこの場所で事足りる。

 私たちはまず、雲の輪郭を写し取った形の装身具で有名な「ホメオスタシス」というブランドの服飾店に入った。お揃いのブレスレットを買った。

 性別不問がコンセプトの「ギュノスアンドロゥ」という店も気になっていたので立ち寄る。脚の影響か、私は衣服にただならぬ関心をいだいた。たんに着飾ってみたい欲求はもちろんだが、自分には無関係と排除していたものを身近に感じられたことが大きい。とりわけドレスの流線形が心の琴線を震わせて仕方がなかった。彼にねだって、陽光のドレスを買ってもらった。


「ハイブランドってやつだと思うんですけど、大丈夫なんですか?」


 もし値札をみてこの世の終わりみたいな表情をされたら自分で買うつもりだった。困らせてやりたい出来心のはずが、逆に花弁をつままれた気分だ。


「構わないさ。僕の作品が高く売れてね。お裾分けだと思ってくれ」と彼は嬉しそうにしていた。

「へえ……」


 購入者はたぶん、フーカさんですよね。実質フーカさんに買ってもらったのでは? と邪推したり。

 次に口寂しさを感じたあたりで通りがかったのは、パンケーキみたいに屋根の上に屋根をかさねた外観の飴細工あめざいく専門店。そこで飛竜をかたどった鼈甲飴べっこうあめを二つ、彼は購入してくれた。腰掛けたベンチで飴をかじると、彼がいたずらっぽく笑う。


「アルラウネも飴を食べるんだね。美味しいのかい?」


 実のところ、飴が美味しいのかと言われると微妙であった。

 原材料は植物であるからどう転んでも共食いな気がしてならないが、何と答えれば彼が喜んでくれるのかを心得ていた。


「美味しいです」

「なら、よかった」彼がもう一つの飴をに絡ませる。「僕のも食べな」

 

 どうやら彼は、食べ物を頬張る私をみるのが好きらしい。共食い万歳だ。私は二つとも平らげた。

 些細ささいな揉め事にも遭遇した。彼がごみを捨てるために席を外したときかな。若い女性にしつこく声を掛ける二人組の男がいた。どこにでも性欲を持て余した人間はいるものだな、と辟易へきえきしつつ、彼と同じ人間の欲望であることに気づき興味がわいたので割って入る。私の強大な魔力に狼狽うろたえたのか、フーカの美貌ゆえか、二人組の男は大人しく質問に応じてくれた。

 いわく、乳房がみたいのだという。なんだ、そんなことか。女はその程度を嫌がるのか。なら私のちちを揉ませてやるといった。しかしデートの時間を削りたくなかったので、私は乳房を切断し、片房かたふさずつ持たせてやった。女性器とやらも半分ずつ引きずり出してやろうかと提案したが、二人組はもの凄い勢いで首を横に振った。謙虚で可愛いやつらだ。

 結果的に助けてやったはずの女性も二人組も微妙な顔で解散してしまい、一部始終を目撃したらしい彼は腹を抱えている。


「きみは最高だよ!」

「こちらは最低ですよ。優しさというものは、過剰に押しつけてはいけないのですね」

「いや、ほんと……なんだろうね。アイルは正しくない方法で、正しいことを学んでいる感じがする」

「馬鹿にしてます?」

「まさか、まさか。面白いって意味さ」

「それ馬鹿にしてますよね!」


 蔓でぽかぽかと叩く私の抗議は適当にあしらわれた。


「いいかい。面白さはアイルの魅力だ。僕がきみの才を馬鹿にしたりするものか」


 真意の伝わりづらい言い分でのらりくらりとかわされる。彼はこういった禅問答のような会話を好む。

 なんでもないやり取りが、幸せだなぁ、と私は思う。

 何をするでもなく、ただ街を歩くだけで楽しかった。あなたとなら、どこへでも行けそうだ。

 私が今日、彼の腕に蔓を巻きつけて歩いている、と教えたところで昨日の私は信じないだろうな。


「こんなに、幸せでいいのかな」


 いまなら死んでもいい。この瞬間に命が尽きれば、私は幸せの絶頂で死ねたことになる。文句なしに究極の勝ち逃げだ。最高の生だったと胸を張れる。


「よく考えてみなよ。きみに脚が生えたところでさ、他のアルラウネがうらやんだりはしないだろう。貰いすぎってわけでもないと思うんだよね」


 肯定しかけた姿勢のまま、私は首をひねった。


「自分で餌を探せるのはメリットですよ」

「意外と冷静だ」

「えらいでしょう」


 そこで彼は少し、意地の悪い表情に作り変えた。


「ということはさ、冷静なアイルは、冷静じゃない理由で欲しがったことになる」

「う、うるさいですねえ」


 それから路上でもよおされた旅芝居一座による演目「魔物姫」を鑑賞する。呪いの魔法で魔物に変えられたお姫様と、人間の王子様の恋物語。口付けで呪いがける予定調和のシナリオ。実に馬鹿げていると思った。でもめちゃくちゃ嫉妬した。私だって人間に戻れるなら戻りたいもの。

 雑貨店では空飛ぶほうきを買った。〈箒持ちゴブリン〉がよく持っているやつ。魔力を込めると砲弾のような速度で箒だけが飛んでいき、北の内海うちうみうしおのうねりにみ込まれた。私たちは顔を見合わせて笑うしかなかった。

 縁結びのやしろでは、お御籤みくじを引くついで、告白もした。短冊に長ったらしい文字が詰まっていたので読まずに捨てた。彼と一緒に引く行為にはどきどきした。


「結果は、どうだった」


 彼がたずねる。すると、ごく自然に私たちは見つめ合う。そうですねえ、と私は言う。


「好きです」瞳に水がっていくのがわかる。「あなたのことが、とても」

「僕もだよ」と彼が微笑む。

「そうじゃなくて」小雨が降ってきた、みたいなトーンで返されても私はちっとも嬉しくない。「……そうじゃなくて、ほんとうに好きなんです」

「僕もだって」


 すぼめた肩を、蔓で小突いてやる。これくらいで勘弁してやろう。

 ぱらぱらと、本当に雨が降ってきた。

 雨宿りを兼ねて美術館を巡った。目ぼしいイベントは開催されておらず、常設展示室を三十分ほどかけて歩き回った。奥の額縁には魔物が描いた絵も飾られていた。絵を描ける魔物は私だけではないと、内なる世界の広がりを満喫した。

 美術館を後にすると、ちょうど通り雨は止んでいて、うっすらと虹の半円がかってみえた。かすかに魔力の匂いがして、人工の雨と虹だとさとされたとき、何を信じればいいのか分からなくなった。

 最後に私たちは、水を噴き出す街路樹のいとなみでれそぼる高台広場に行き着いた。木の葉のみちを歩き、吹きさらしの教会を抜け、〈祈りの鐘シスター・ベル〉の前に立つ。膝を折って祈る少女と相対する竜の彫刻。

 青い少女が、ここにもいた。


 ずっと昔から、彼女のことを知っていた気がする。

 潮風の匂いにくすぐられた気がする。

 身体は青銅の鐘よりも冷たかった気がする。

 この邂逅かいこうに、意味がある気がする。


 吐き出した息は凍らない。私はひどく安堵している。魔力の乱れによる立ちくらみでよろめいた私は、しゃがんで呼吸を整える。ちょうど噴水樹の花壇から流れる水が木道もくどうの用水路に滑りだす。

 耳をませば人間の話し声。濡れた板と靴底が奏でる音。空をあおげばせわしなく飛びう大人たち。彼らの描いた五線譜みたいな飛跡雲ひせきぐも

 差し出された彼の手につかまり、立ち上がる。あの既視感は何だったのだろうか、と考えているうちに既視感のほうを忘れてしまった。

 彼の視線も、少女の彫刻に釘付けだった。声を掛けようとすると、息の吸いかたを思い出したみたいに彼が口を開く。


「『青女の祈り』の結末は、青女が雪になった描写で終わる。今はもう、ほとんどの人が忘れてしまったのだけど、物語には続きがあるんだ。きみなら、どんな続きを用意する?」


 私が物語に続きを書き加えるとしたら。降りしきる大雪が青年の所属する部隊の行進をはばみ、その日死ぬはずだった彼の命が助かる。間もなく終戦し、青年は無事に故郷への生還を果たす。それくらいの幸福がなければ、彼女の不幸に釣り合わない。

 そのように話すと、彼は目を細めて、青銅となった娘の頬に触れた。


「アイルが物書きなら、この上なく優しい物語を書くんだろうね。僕は見てみたかったな」

「では本物の続きは?」と私がうながす。

「彼女の願いは、ちゃんと叶ったんだよ。竜の力によって」


 永遠を生きると語りがれる種族。生命の王。鮮血ですら伝説になるくらいだから、摂理を超越した力の一つや二つは持っているのだろう。


「竜は願いに忠実だ。娘の最期の祈りの声が聴こえたとき、異国の地で恋人はすでに死んでいた。竜でさえもそれはどうしようもなかったし、亡骸を連れ帰ったところで娘を悲しませるだけだから、彼女の姿を雪に変えて、手向けの雪花はなとして『あの人に会いたい』という願いを叶えた。転じて、願いが叶う日を、『青女の日』と人びとは呼ぶようになった」


 恋人はすでに死んでいた、目を覆いたくなる真実にため息が出る。

 馬鹿だなぁ……。

 最初から叶わない願いだったのか……。


「全然、かなってなんか、ないですよ」

「……そうともいうね」といって彼は眉間に寄ったしわをほぐす。「文献では他にも、青年は竜だったのではないかとする説。物語自体が死の間際の走馬灯だとする説もある。僕はこのなかでも、やっぱり、最初のストーリーをしたい。なぜなら――」

「美しいから」と私はつむいだ。

「あぁ、美しいから。決して叶わない願いほど美しいものはない。美しさのためなら、彼女にとって、もっとも残酷な結末であってほしい」


 僕が物書きならそうする、と彼は断言した。


「それがさがというのであれば、物書きは好きになれません。病気も治して、恋人も生きてて……美しくないほうがいいです」


 青女の話が過去の事実にせよ、架空の物語にせよ、悲しいだけの結末はお断りだ。一人ずつ正座させて殴りつけてやる。もっと幸せにしろ、ってね。


「せめて筆で戦いなよ。僕らは絵描きなんだから」


 独り言になっていたようだ。したり顔がむかついたけど、ぐうの音も出なくて、牙をいてうなってやった。


「青女の日だったんですね」


 萌芽ほうがじみた淡緑をまとう文字列を、私は蔓で読み取る。


「年に一度、どんな願いも叶う日だ。あまり明るい話とはいえないから、表立って祝祭ともいかなくてね」


 過去を懐かしむ、そんな声音の柔らかさに驚かされる。驚きはすぐに脚への意識が塗りつぶす。

 願いが叶う日。だからといって脚が生えるとは到底思えない。それを言葉にするより先に、伸ばされた彼の腕が蒼穹をとらえる。

 

「燃えてしまったバクロの森は、雪が降った場所とされている。その雪雲は王宮街の北部を分断する内海うちうみからやってきた……というのが専門家たちの見解なんだけど、所詮はただの物語だからさ。彼女がどこで生きていたのか、よくわかってないんだ。でもこうしてきみの脚が生えたのだから、青女はどこかで、僕たちと同じように青い空を眺めていたのだろう」 


 彼の瞳に熱がこもっていく。私は赤らんだ顔を覗き込む。「……なにか、言いたげですね」


 たずねても照れくさそうに首の後ろをくばかりだ。根気よく台詞せりふを待つつもりでいた。

 風が吹いた。

 同時だったかな。


「もうじき鐘が鳴る」と彼がいう。

「鐘?」

「青女の日に、シスター・ベルの鐘のを聴いた男女はね」その時、鐘が鳴る。「残響を忘れる前にキスをしなければならない」

 

 青銅が空気を揺らす。


「キス」

「うん」


 二度、三度、鐘が鳴っている。


「私は、女ではありませんよ」

「えっと、あぁっ、そうだ! ……忘れてた。男女じゃなくて、そう、生き物だ。おすめす。大体、そんな感じの言い伝え」


 残響が尾を引いている。まだ尻尾は消えない。


「ふうん。生き物ですか」しどろもどろになる彼がおかしくて、私の頬は弛緩しっぱなしだ。「――じゃあ、仕方ないですね」


 ならわしに従い、新雪を踏むようにそっと目を閉じる。

 もう一度、青銅あおがねが空をつかんだ。同じく彼に掴まれていたのは私の肩だ。

 足の裏に力が入る。

 私は残響を覚えている。

 湿った息がかかる。

 私は残響を覚えている……。

 鼻先が触れる。

 あーあ、ぜんぶ忘れた。

 彼は唇の端に、花のひとひらを引っかけるような、とても短いキスをした。





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