羽根もくれたじゃないですか

 黎明れいめいの季。この時季のへドリスは一日を通してほの暗い。一年で最も日照時間が短く、夜の魔物の活動が極端に強まる季節だ。

 四角い窓枠からベッドにとどけられる弱々しい日差しが、面相筆めんそうふでの毛先になぞられたみたいな感触でくすぐったい。

 百八十五回。今日で百八十六回目。伸ばしたつるで手作りのカレンダーをめくった。これは彼の家で朝日を浴びた数。朝は待ち遠しい。なぜならご飯が貰えるから。私は待ちきれなくなって、隣で熟睡する彼をり起こす。

 彼はもごもごと寝言をいい、背中を丸めて夢の世界に旅立ってしまう。昨日は仕事が長引いたといってたっけ。

 仕事の大変さが魔物の私には分からないけれど、いつも疲労困憊ひろうこんぱいといった表情で帰ってくるので、まだ寝かせてあげようと思いなおした。でも、お腹は空いている。


「起きてくれませんかぁ……」


 小声で懇願こんがんするようにいってみる。彼が起きたのはそれから二時間も後のことだった。





 かつて私には名前がなかった。生物のめすに擬態し、おびき寄せた同種のおすを捕食する植物型の魔物だった。

 人間はアルラウネと呼び、彼はアイルと名付けた。名前は私を特別にしてくれる。そして頻繁に思うことがある。彼にアイルと呼ばれているとき、私はたぶん、彼の望む「アイル」を演じようとしているのだと。

 私はアイルなのではなく、アイルになろうとしている。生まれ変わりつつあるというべきか。

 悪い気分ではなかった。むしろ私は生まれ変わりを望んでいるのかもしれない。人間の少女になる魔法がけて以降、私の心の根幹には常に彼がいた。



 平民街での半年間で私たちが手にしたのは日常だった。二人で朝食を共にし、日中は彼が仕事に行って、私は夜まで留守番をする。その繰り返し。まさに絵に描いたような日常だ。

 あの一件から私たちは必要最低限の外出にとどめ、大半の時間を引きもって過ごした。

 それでも週に二度、付近の散歩には連れていってもらえる。私は散歩が好きだった。いつもながら脚がないため彼に背負われており、どちらかというと彼が散歩しているだけなのだが、季節のうつろいに合わせてせわしなく風貌を変える街並みには毎度おどろかされる。

 豊穣をいわう祭りのにぎわいだったり、雪化粧の商店街だったり、人間たちが飛びう〈飛行路〉という空のみちだったり、魔物使いによる移動式のサーカスだったり。

 鬱蒼うっそうとした森にはないかがやきに心を奪われる一方で、たくましく成長した路傍の花などを見かけると、郷愁めいた感情がけ巡ったりもする。

 森は好きだし、人間も好きだ。食糧としても、食糧以外の意味でも。

 私の瞳には、みわたる青空よりも街のほうが澄んでうつった。少ないながら出逢いもあった。

 平民街で風俗店をいとなむ〈サキュバス〉と私は仲良くなり、彼について話せる相談相手として重宝した。

 この頃になると、いよいよ私は自分ではどうしようもないほどに彼を愛してしまっているのだと認め始めていた。

 アルラウネが人間を愛するなど、ばかばかしい間違いだ。だからこそ私の間違いを肯定してくれる味方を欲した。その点において、人間との情事をかてとするサキュバスの右に出る魔物はいなかった。

 ある日、私は(魔物の言語で)サキュバスに彼が失魔症であることを打ち明け、解決策はないのかとたずねてみた。おもい人が男性であるならば、彼女の店に連れてれば誰でも「賢者」にしてやれるのだといっていた。

 私は喜んで依頼しようとしたのだが、無駄づかいできる金銭的な余裕がないと渋々あきらめた。するとサキュバスは、彼を賢者へとみちびく行為の手順を教えてくれた。

 失魔症が彼のコンプレックスであるのならば、一刻も早く取りはらってあげたかったので、その夜、私はさっそく教わった行為を実践しようとした。

 結末はいうまでもなく、彼が気まずそうに拒否して終わったのだけれど。後になって思えば、サキュバスは胡散うさん臭い笑みを終始たたえていたし、日陰で休憩していた彼に確認すべきだった。悪魔だけは信じてはならないと学び、捕食対象にサキュバスを追加しておいた。

 こんなふうに幸せな日々が過ぎていった。

 ジェイドの言葉通り魔術師による追跡はなくなったのだが、たまに別の形でおびやかされる。

 例えば――。

 扉が激しく叩かれ、〈開錠〉の魔法で強引に開かれる。数人ほどの怒気をまとった人間と、青ざめる彼。


「家賃の滞納」「今月まで」「出て行ってもらう」


 そんなような言葉を彼らは発する。人間の街に慣れきった私は、ほぼ完璧に状況を把握できた。弁明と交渉を持ちかける彼の情けない肩を、私は仕方ないといったていよそおって叩く。


「お金が必要なんですか」

「今すぐね」

「じゃあ……これをどうぞ」


 自分の身体の値打ちのある部位をみちぎって差し出す。傷口に体液がみてずきずきと痛むが、いずれ再生するので問題はない。山火事のときに魔法の剣を購入してくれた恩もあり、ここで返しておきたかった。


「ふん、マンドラゴラか」

「バクロの森が焼けちまって捕獲採取量が減ってるからな」

「今後の半年分も含めて、これで手打ちにしよう」


 それぞれの人間が好意的な反応を示して帰っていく。私たちはほっと胸をなでおろした。


「助けられたみたいだけど、きみはアルラウネだよね?」と彼がたずねてくる。

「えぇ、安心してください。素人には見分けつきませんよ。彼らが勝手に勘違いしただけですから、換金の際に絶望してもらいましょう」

「いいのかな、それで」

「わざと低く見積もった詐欺師さんたちには、ちょうどいい罰です」


 近縁種のマンドラゴラは、彼の滞納分と追加の半年分の家賃では釣り合わないほど高価なのだ。悲しいけれど。今回はそれゆえに助かったのだから良しとしたい。

 擬態にしろ、見分けにくい近縁種にしろ、私は何かをだますために生まれてきたみたいで複雑な心境になった。


「きみは人間より人間らしいな……」

「感心している場合じゃなくて、もっとちゃんと感謝してください」と私は溜息で返す。「だめ人間のクエレさん」


 魔物が人間のために身体を差し出すなど、本来では決してあり得ないこと。そういった常識を彼は理解していないきらいがある。

 散歩の際にあからさまに私をける人間がいるけれど、最近ではそちらのほうが魔物を正しく恐れていて好感が持てる。

 彼の異質さにかれてしまった私にも非はあるのだが、あやういと思う。


  

 暇ができると彼は絵を描いてくれた。ベッドのへりに腰掛ける彼につるを巻きつけ、身を乗り出して制作過程を見物するのが習慣化している。

 木製パレットを持ってあげたり、えの絵の具を取ってきたり、イーゼルをたたんだり、お決まりの所作は積極的に手伝ってあげる。そうすると彼は「ありがとう」と言ってくれて、なんでもないことなのだが、その「ありがとう」が嬉しかった。

 画用紙の上で鉛筆をすべらせる音が好きで、彼の捨てた作品の上からひたすらこすったりもした。

 ある時。彼の手をはなれて床に転がった筆を、私は何気なく絡め取った。


「アイルも描いてみるかい?」


 私の運命がさだまった瞬間だった。アルラウネという人食いの魔物が、芸術を知ったきっかけとなる言葉。

 このとき初めて私は本当の意味で、彼の隣に座ることを許された。


「ここはあつく塗ってみようか」

「はい」

「……うん、そうそう。上手だよ」


 魔物である私には、絵画自体に思い入れはなかったが、私の描いた絵を嬉しそうにながめる彼をみるのが好きだった。

 彼が喜んでくれるから、私は一心不乱に筆を動かした。初めのうちは木の幹をバケモノと勘違いされるくらい下手くそだった絵は、どんどん上達していった。でも彼は、最初の絵も今の絵も平等にめた。

 何をどんなふうに描いても私の絵を褒めてくれた。人間なのに目が三つあるような致命的なミスをしても、決して笑うことなく、まるで巨匠のほどこした仕掛けみたいに扱った。

 絵を描くのは、楽しかった。


「もっと美しい絵が描きたいです」

「……絵を美しいと思うのは、僕たちのひとみなんだ。本当に美しい絵は技術じゃない。技術じゃないから、誰もその描きかたを知らない」


 絵の神様は瞳のなかにいる。これが彼の口癖だった。神様は指先に興味がない。だから筆を握るものは手ではなく足でもいいし、つるでもいい。

 そして思うままに、ありったけを画用紙の余白にぶつけて描けばいい。迷いなく筆を動かして塗ればいい。そうすれば、「美しさ」はみずから絵に近づいてくるのだと。

 抽象的で参考にならないアドバイスをくれるのだが、やはり世の中には魔法のような絵を描く人がいて、自然の風景を精巧に描きうつす技術や、生き物のたましいを画用紙に閉じ込める技法がある。

 人々の視線を吸い寄せる絵。感嘆を喉の奥から引きずり出す絵。その域にまで達したいとは思わないけど、私の絵が、彼のいちばんになりたい。


「どうしたら一番になれますか?」


 焦燥に駆られて投げかけると、彼は困ったふうに笑って、「僕は一番になったことがないから分からないな」という。

 私は思いだす。一度、彼の心を死に至らしめたのは絵画だった。才能という概念に殺されかけたのだ。

 イーゼルにけた画用紙の余白をみて、私は少しだけ、芸術にのめり込みつつある自分が怖くなった。



 夜は一つしかないベッドを二人で分け合った。私は植物なのでベッドの上で一日を過ごすのだけれど、そこに彼が潜り込んでくるといった感じだ。

 アルラウネは外敵から身を守るためにとげのある部位で身体をおおい、縮こまって眠る。

 しかし人間の街には外敵がおらず、来るはずもない敵に備えるのはあまりに無為であるから、彼を真似まねて人間みたいに眠る癖がついてしまった。

 私は、彼の匂いが好きだった。ベッドの端で背を向ける彼をつるで抱きしめたり、引き寄せたりしてこっそり匂いをいでいる。相変わらず美味しそうな匂いだと思うし、彼の匂いに包まれていると不思議とよく眠れた。

 彼の体温も好きだった。熱が徐々にひろがって同化する瞬間がたまらなく愛おしい。ずっと密着していると火傷しそうにもなる。まぁ、こちらに関しては私の触覚が人間の肌とは異なるため、人間たちには共感してもらえないだろうな。

 あとはなんだろう。

 そうそう、このあいだ、甘噛あまがみのつもりで彼に怪我をさせてしまった。

 痛みにうめいた彼よりも取りみだし、怪我人になぐさめてもらうという魔物にあるまじき醜態をさらした。

 寝ぼけてみついたことも何度かある。


「怪我は治りましたか?」「治ったよ」「私のこと怖くないですか?」「全然、怖くないけど」「怖がってくださいよ」


 後日、そんな会話をした記憶が懐かしい。あのとき血の味に興奮しなかったのは、自分でもどうかしていると笑えた。

 思いをせていると、この日も彼が蠟燭ろうそくに魔法の火をともし、ベッドに横たわる。

 

「絵はね」いつもより半トーン低い声でいう。「僕がアイルにあげられるなかで、最も価値あるものなんだ」

「羽根もくれたじゃないですか」


 グリフォンの羽根は首飾りに加工してもらった。振ると微量の〈風〉が吹く。たまに意味もなく振って遊んでいる。宝物です、と私は独りごちる。


「拾い物だよ」


 目を細めて笑う彼をみながら、私は一番好きなものを思いだす。それは彼の「僕」という発音だ。

 私の基準でいうと人間の肉と同じくらい好きだった。録音用の魔道具があれば四六時中いていたい。





 今日は彼の仕事が五日ぶりの休みだったのだけれど、起きてすぐ食材の買い出しに出掛けてしまい、先に述べたように私はひとりで留守番をする。

 その間、ずっと絵をき続けた。

 結局のところ、いかに芸術が怖かろうが彼の家には画材道具しかないので、私は必然的に筆をった。

 紙とインクがそろえばいくらでも時間を食いつぶしてくれる。動けない身体も気にならない。

 何でも描いた。自由に描いた。自由を描けた。自由という言葉は、彼のお気に入りの言葉だった。だから私のお気に入りの言葉だった。

 

 千年以上も燃え続ける篝火かがりびの大地。海原うなばらを割る絶壁が連なった海竜のみさき

 夜空がしずみ息える星屑ほしくずの湖。白銀の雪が降り積もる六花りっかの砂漠。天空の洞穴ほらあな。宝石の城……私だけの世界が画用紙の余白を埋めていった。


 ひとたび筆をれば、グリフォンは私の敵ではなかった。竜ですら剣のひと振りで倒してしまえた。

 私はよく、自分の絵に一組の男女を登場させた。私と彼をモデルにしている。現実では馬鹿げた話だが、絵画の中でなら、二人はいくらでも愛し合えた。

 自分では意識をせずにいたが、私は絵を描く――芸術という分野においてもっとも重要なものを二つ持っていた。一つは時間である。植物の私には、創作の邪魔となる生きるためのしがらみがない。

 もう一つは無知である。知識は想像力に制限をかける。私は無知であるからこそ、知識にとらわれない作品を生み出せた。

 ふと彼のことが脳裏によぎる。

 どれほど芸術を愛していても、芸術が愛してくれるとは限らない。芸術とやらは我儘わがままな人間の生きうつしみたいだ。


「それはそうでしょうよ」とフーカがいった。「神様は自分たちに似せて人間をつくり、人間は自分たちに似せて芸術を創ったの。お似合いでしょ」 


 描画びょうがに夢中で忘れていたが、彼の留守中にフーカがたずねてきたのだったな。

 いつもは彼が腰掛ける位置に彼女が座り、怪訝そうに絵をにらんでいる。


「なに描いたの? 肉?」

「花です。肉を咲かせる花。美味しそうでしょう」


 渾身の力作だった。血の匂いを放ち、肉の大輪が食欲をそそる。この花の名前は、〈美味草オイシソウ〉にしよう。


「……奇妙なものを描くわね。でもまぁ、あんたの絵はクエレよりウケると思うわ。絵が楽しそうにしてるし」

「かれの絵は」

「クエレの絵は、苦悶の表情って感じなのよ。ずっと昔から。うまいとは思うけどね」


 言い得て妙だと思った。芸術に関わってからというもの、彼の絵に閉じ込められた苦しみを感じ取れるようになっていた。


「フーカさんはよく見てますね……」

「まーね。たまに売れ残りを買ってあげてるの。匿名とくめいで」フーカが何でもないふうに暴露する。「かもし出す雰囲気? みたいなのが暗すぎて客が逃げちゃいそうだから、店にも飾れずじまいなのよね」

「そうなんですか」

「クエレには内緒にしといてね。調子に乗られてもうざいし」


 そういって唇に人差し指をあてがう仕草が綺麗だった。なんだか以前よりも綺麗になっている。

 気がかりなこともあった。フーカの来訪頻度が、初めは月に一回だったのに、二回、三回としていることだ。私を置いて二人きりで出掛けることが増えたのも、妙に引っ掛かる。


「お金を稼ぐのは大変だと聞いています。友人とはいえ、簡単にあげてもいいのでしょうか」

「よくはないわね」とフーカは眉根を寄せた。「……クエレには大きな借りがあるのよ」


 彼女がてのひらを開くと、大切そうに〈保護〉された一枚の硬貨が出現する。強い魔法でまもっているわりには色せて汚い。でもなんとなく私には理由がわかった。


「かれに貰ったんですか?」

「そうよ。あたしの病気が酷かったときにね」

「ですが、それでは……」


 何の変哲もない硬貨だ。彼の絵のほうがずっと高いはず。


「この街ではパンの一切れも買えない」フーカが可笑しそうにいう。「でもこの硬貨だけはね、誰にも買えないの」


 不思議なことを言いだすフーカが、とても羨ましかった。私の知らない彼を知っていて、私にはない彼との思い出が彼女にはある。

 いかなる絵描きにも思い出だけはけない。私にそれを手に入れるすべはなかった。

 そうこうしているうちに彼が帰ってきた。テーブルに荷物を置き、若干、やつれた顔で「ただいま」と私たちにいった。日々の疲労が溜まっているのかな、と心配になる。

 フーカは無言で彼に近づき、杖の先端をひたいに向けた。それから頬をつかみ、唇が触れるのではないかと思うくらいに顔を寄せ、彼の瞳孔どうこうを凝視する。 


潮時しおどきね」苦々しくつぶやいたフーカが、今度は私の身体を魔法で〈浮遊〉させる。「今日はペットを借りてくわ」


 私を連れて出て行こうとする彼女の腕を、彼が掴んで引き留めた。「どこに行くんだ?」


 警戒しているようだった。フーカはすこし笑った。

 

「買い物に付き合ってもらうだけよ、心配性ね」


 そうか、と力なく彼の腕が垂れる。 


「二人とも、いってらっしゃい」

「いってきます」


 私がを振った拍子に、それとは関係なく塗料の入った瓶がテーブル上で倒れた。

 絵の最後に使おうと決めた、終わりの色だった。




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