2-5


 事件が起こったのは、それから一週間後のこと。


「テオフィルス殿でんぁ~んっ!」


 執務室にて読書にふけっていたところ、ノックもそこそこにとびらが開かれ、かんだかくねちっこい声が放たれた。聞きなれないうすわるさに、思わず背筋がゾクッとする。


「エヴェ……っ!?」


 私より先にテオが反応した。彼は慌てて立ち上がると、テーブルやソファにぶつかりながら「エヴェ」と呼んだ女性から可能な限りの距離を取った。

 女性はじょを引き連れて、赤とむらさきと黄色のあざやかなドレスを身にまとっていた。私の部屋にものがおでズカズカと立ち入り、テオに向かって一直線にすすむ。


「やっやめろ、近寄るな!」


 ただ、テオは逃げているけれど。


「イヤですわテオフィルス殿下、照れないでくださいまし。ああ、お会いしたかったわぁ……!」

「照れてなどいない! やめろ、来るな、動くな! 止まれっ!!」


 部屋の中央に置いてあるソファとテーブルのセットを囲み、私そっちのけで追いかけっこをする二人。


「あの~……ごめんなさい、テオ? この状況について説明を求めてもいいかしら?」


 テオのきょぜつぶりからしてなんとなく予想はついているが、念のため質問をしてみた。テオは彼女を注視したまま、早口で手短に告げる。


「ハーパニエミしゃくの長女、エヴェリーナ嬢。俺とは他人で無関係だ」


 ハーパニエミ子爵家といえば、信者ではないけれど年に一度じょうざいを下さる貴族だ。ご当主とは以前に一度、アピオンさまとともにお会いしたことがある。

 そのごれいじょうに対し、テオの言い方は冷たすぎるのでは? と私が口を挟むより早く、エヴェ改めエヴェリーナさまが非難する。


「まあぁテオフィルス殿下ったら! あたくしたちの仲はいずれおおやけになりますのに、早く慣れてくださらないと困りますわぁん」

「違う! 十年以上前から面識があるだけ、、の他人だ! セルマ信じてくれっ」


 テオの顔色は真っ青。顔も態度も言動も、拒絶の仕方が群を抜いて強烈だ。


 ――もしや、この方がテオの女性恐怖症の原因? それにしたってこんなに怖がる?


「エヴェリーナさま、テオは現在職務中なのです。私的なお話をなさりたいのなら別室でお待ちくださいませんか?」


 私が間に入ろうとすると、彼女にギロッと睨まれた。


「あなた、どなた? 殿下を『テオ』と軽々しく呼ぶなんて無礼よ、気に入らないわ」


 ウェーブのきいたかやいろの髪をバサッと後ろへひるがえす。おうへいで、私を見下していることを隠そうとすらしていない。


「わたくしはセルマと申します。初めまして、エヴェリーナさま」


 私は営業スマイルを浮かべ、いつも通りの名乗りをした。エヴェリーナさまが眉をピクリと動かし、ニヤリと口元を歪め笑う。


「セルマぁ? どこかで聞いたことのある名ね」


 本当に知らないのか、知らないふりをしているのか。


めずらしい名ではありませんから。それよりも、本日はどのようなご用事で? 礼拝におしくださったのなら、そちらにご案内しましょうか?」

「いいえ、結構。あたくしは、テオフィルス殿下に用があってきたのよ」


 どうやら彼女の視界にはテオしか映っていないみたいだ。こちらの提案を突っぱねて、再び彼に話しかける。


「テオフィルス殿下、一刻も早くあたくしと王宮へ戻りましょう。せんな者が大勢集まる場所にいるなど、想像しただけでとりはだが立ちます。さ、いやしさが感染うつる前に、さあ!」

「断る、誰が戻るものか! ……め、女神ヲウルの教えを学びたいのだ。ここで投げ出すわけにはいかない」


 そくに否定され、キイッとエヴェリーナさまが声を上げた。両手で頭を乱暴にき、いらっていることをあらわにする。


「ああ忌ま忌ましい、女神などにうつつを抜かすなど! そうめいであらせられる殿下には宗教など不要、国のことだけお考えになったらいい。ほら、あたくしを信じて」


 エヴェリーナさまが説得に夢中になっている一方で、テオは私をチラチラ窺っている。

 何か言いたげな表情だ。

 私はエヴェリーナさまに問いかける。


「お言葉ですが、あなたさま個人に彼の行動を制限する資格はないのでは?」

「はあああ? あたくしはテオフィルス王弟殿下のこんやくしゃよ! 未来の夫の行動に意見することが許されていて当然でしょう? 頭の回転がおそいわね、どうしておまえみたいにな女が殿下と一緒にいるのか……信じられないわっ!」


 敵意剝き出しの罵倒だ。これくらいで腹を立てたりはしないけれど、むしろ、貴族令嬢の言動としていかがなものかと疑問に思う。

 婚約者ねぇ……と白い目で見ていると、私の代わりにテオが声をあららげた。


「はっ!?いつ……こ、こんやく……!? してない、婚約など、してないっ!!」

「どうやらテオと話が噛み合っていないみたい。エヴェリーナさま、どういうことです?」


 クスッと笑って怒りをさそうも、エヴェリーナさまは私を無視しテオをかいじゅうしようとす

る。


「殿下、いい加減お逃げになるのはおやめください。あたくしはずっと子どもの頃から、殿下だけをお慕いしておりました」

「俺はずっと断り続けてきただろう!」

「まさかあの日のことをお忘れですか? あんなはずかしめを受けたあたくしを、他の殿とのがためとってくださるとでも!? ひどすぎます、張本人ならば潔く責任を取ってくださいませ!」


 あの日のこと。あんな辱め。張本人。……随分とおんな単語が飛びだした。泣き落としにかかるエヴェリーナさまと、とにかく否定したいテオ。


「セルマ、違う、誤解だ!」


 ――別に、あなた方の間に何があっても私には関係ないんだけどなあ……。


 とはいえ、誤解であることは正しいだろう。何かがあったとするならば、たぶんエヴェリーナさまに仕組まれたのだ。テオと過ごしたこの半年は、彼が卑怯なことをする人間でないと知るのに十分すぎる時間だった。


「エヴェリーナさま、そんなことがあったのですね。いつだって傷つくのは女。さぞかしお辛かったことでしょう、お気持ちお察しいたしますわ」


 呼吸を乱し、ポロポロとなみだをこぼす彼女の手を取る。


「テオは混乱しているだけです。わたくしが彼に話をしてみますから、その間この部屋でお待ちくださいますか? 後でお茶を届けさせますわ」


 執務室をエヴェリーナさまと彼女の侍女に明け渡し、テオの腕をつかみ私は階段を下りた。


「セルマ、話を聞いてくれ! 女神にちかってもいい、俺と彼女は何もないんだ!」


 どこへ向かっているか知らないテオは、必死で私に弁解しようとした。階段には、足音と一緒に声が大きく響いている。


「全部わかってる。だから黙って」


 私が小声で手短に答えても、テオは察してはくれない。


「いいや、わかっていない! エヴェリーナ嬢は――」

「悪魔憑きなんでしょう? 侍女は違う。エヴェリーナさまだけが悪魔憑き」


 声が聞こえない位置にまでしっかり遠ざかってから、私は足を止めテオを見上げた。手首から感じる彼のしんぱくすうはかなり速い。よほど焦っていたのだろう。


「ど、どうしてわかったんだ!? まさか、ついにセルマにも聖なる力が……?」


 このに及んでその可能性を考えるあたり、失笑してしまう。私のどうさつりょくを甘く見すぎだ。


「なんでそうなるのよ。あのね、ハーパニエミ家のごそくじょよ? 国教のことくらい知っていて当然の身分にもかかわらず、私の名を聞いても聖女と結びつけようとしない。加えて、神殿にちがいすぎる毒々しい色のドレス。あんなものを堂々と神聖な場に着て来られるのは、ここがどんな場所か一切知らないか、悪意を持っている者のどちらか」


 エヴェリーナさまの場合は後者だ。


「そして何より、心拍数。さっきエヴェリーナさまが泣いてらした時、手首から脈を測らせてもらったの。あんなにさめざめと泣いているのに、平常心も平常心。今のテオとは正反対ね」


 えっ、とテオが私の手をはらった。だが残念、彼の脈拍はすでに確認済みだ。

 もっとも、テオの考えていることなんて表情だけでわかるけど。


「それでセルマ、これからどうするつもりだ?」

「決まっているじゃない、悪魔祓いをするのよ。せっかく神殿をおとずれてくださったのだもの、エヴェリーナさまにも女神のご加護を味わっていただきましょう」


 しばらくして、私は一人でエヴェリーナさまを呼びに戻った。

 お茶のおかげか大人しく待ってくれていたようだ。テオの説得が終わったことを告げると、エヴェリーナさまはじょうげんになりとして私の誘導についてきた。

 行き先は、悪魔祓いでお馴染みの瑠璃の間である。

 しかし、それ専用の部屋であると知っているのは一部の聖職者のみ。しかも扉は他の部屋と変わらないので、中に入るまで気づけない。入ったところで、気づかない者は気づかないだろうけれど。

 エヴェリーナさまを先頭にして、私たちは部屋の前に立った。修道騎士に目配せし、扉を開けてもらう。


「あなた、セルマと言ったかしら。案外役に立つのね、礼を言ってあげてもよくてよ」


 背中しに私に言い放ち、部屋の中で待機していたテオを見つけるやいなや、エヴェリーナさまは両手を広げて彼の胸に飛び込もうと駆け出した。

 しかし、彼女がテオに触れることはなかった。扉の内側に隠れていた修道騎士が、その腕をひねり上げたのだ。 固まる侍女を部屋の隅へとなんさせ、急ぎ準備に取り掛かる。


「あっ!?痛……なに? これは何事? 汚らわしいわ放しなさいっ、テオフィルス殿下、お助けをっ!」


 身動きが取れず混乱している隙に、私はさっと近寄った。


「なによこれ、どういう……ギャッ!?」


 ラーシュから受け取った聖水をかけ、魔除けのハーブを辺りに散らす。


「女神ヲウルはおっしゃった。我は天へ、闇の眷属は根の国へ――」


 早口できよめの口上を述べる間中、エヴェリーナさま││ 正しくは、彼女の中にいる悪魔――は叫び喚き続けていた。


「ひどいわ! あたくしにこんなくつじょくを……お父さまが黙っていないわよ!」


 最後の最後まで、悪魔であることを彼女は認めないようだ。キャンキャンさわぐ一切を無視し、口上を終えたら肩をたたく。そして噴き出す黒い蒸気。


 ――さて、次は……。


 捜すまでもなくテオと目が合った。これから何をするか予測がついているからだろう、彼の顔がっている。


「テオフィルス。あなたに聖なる力を授けます」


 彼に近づき、事務的な宣言をする。


「……これ、毎度やらないといけないのか?」

「すぐ終わるんだから黙って受け入れなさい。ほら、ラーシュたちが見てるでしょ」


 テオの不満を抑えつけ、私は彼にキスをした。

 ほんのいっしゅんちゅっと触れただけだ。儀式としての形だけ整えられればいいのだから、それで十分だった。

 ね、すぐに終わったでしょ? と納得しきれていなそうな彼の目にうったえてから、力が抜けた演技をする。


「あとは……っく、任せました」

「またか。また倒れるのか」


 うんざり、というようなため息を吐き出すくせに、倒れる私をテオはちゃんと抱きとめてくれた。駆け寄ってきたラーシュに任せ、自由になった手で剣を抜く。

 あっという間に決着がついた。まさに先手必勝、無駄のない動きだった。

 ……と言っても、私は絶賛意識消失中なので音で判断しただけだけど。


「なによ、どういうことよ! 聖女はにせものなんでしょう? 悪魔祓いができるなんて聞いてないわよ!」


 めいしょうを与えても、完全に灰となるには少しの時間がかかってしまう。その間、悪魔が減らず口を叩く。


 ――……この悪魔も、違う。私の捜す悪魔じゃない。声も口調も、性格も違う。

 ――それより、私が偽物? 誰から聞いた?

 ――テオじゃない。テオは絶対に他人に漏らしたりしない。


「テオフィルス殿下、どうしてあたくしを受け入れないの!? あたくしのどこがダメ? こんなにも殿下を愛して……どうして、ファリエルさま……助け――」


 また「ファリエル」だ。一体誰のことを指しているのだろう。

 悪魔について一つわかればまた一つ、新たな疑問がいてくる。ラーシュの腕に抱かれながら、私は考えあぐねていた。

 悪魔が抜けたエヴェリーナさまは、私とは異なり本当に昏倒した。その後神殿の客間にまらせた彼女が意識を取り戻したのは、翌朝。


「おはよう、テオ。先ほど彼女が起きたと聞いたから、会いに行くわよ」

「……俺も行かねばならないのか? すこぶるゆううつなのだが……」

「つべこべ言わずについて来なさい」


 テオが執務室に顔を出してすぐ、私たちは彼女が泊まる部屋へと向かった。

 操られていた間の記憶は、その人に残ると思っていた。過去の二例がそうだったからだ。


 悪魔祓い後しばらくしてから対話を実施してみたところ、クヴァーン家のご令孫は「氷で固められたみたいに全然動けなくて怖かった」と語り、お茶売りの青年は「商人として何よりも大切な信頼を失う真似をするなんて」とひどく落ち込んでいたのだ。

 ただ、エヴェリーナさまは違った。三年間もの記憶が、彼女の中から完全に吹き飛んでいたのである。

 報告によると、エヴェリーナさまは目が覚めると同時に、見ず知らずの部屋にいることに取り乱したらしい。隣室で休んでいた侍女が駆けつけなだめるも、会話のから記憶を失っていることに気づき、三年前から今日この日まで、何があったのか説明をしたそうなのだけど……。


「信じられない、わたくしがそのような真似を? ……あなたを疑ってはいない、自分で自分が信じられないだけ。王族の方にしつこく付きまとうなんて、お父さまに合わせる顔がない……恥ずかしさで死にそうよ!」


 部屋に入るよりも先に、落ち着かせようとする侍女を相手に泣き喚くエヴェリーナさまの声が聞こえた。テオをチラリと窺うと、眉間に皺を寄せ首を振り、「入室はやめよう」と言わんばかりの表情をしていた。

 私は見なかったことにした。再び扉に向き合って三回ノックを済ませると、躊躇ためらうことなくドアノブを回し部屋に足をれた。

 私と、その背後にいるテオ。両手を顔に当て泣いていたエヴェリーナさまは、指のすきから我々を確認した途端、俯いてぎゅっと身を硬くした。

 ――震えてる。本来のエヴェリーナさまは、内向的なのね。

 私は息を吸い込んで、明るくエヴェリーナさまに告げる。


「おはようございます、わたくしはセルマ。昨夜はよくねむれましたか?」

「…………」


 ベッドにいるエヴェリーナさまと、側に立つ侍女。私は侍女に場所を替わってもらい、エヴェリーナさまに近寄った。


「ここ三年間の記憶がないそうですね。その間のご自分の行動を聞き、信じられず戸惑っているのだと。……わたくしにはあなたの気持ちがよくわかる。あなたは今、消えてしまいたいほどにおのれの行いをじている。それと同時にこれまでの行いをどうやってばんかいしたらいいかわからず、ほうに暮れているのよね」


 まだ顔を上げないまでも、耳は傾けてくれているようだ。呼吸に合わせて肩が激しく上下していたが、少しずつはばが落ち着いてきたのがその証拠だ。

 私は続ける。


「我々はあなたを責めません。これまでの行いは、あなたに取り憑いた悪魔によるもの。だから、エヴェリーナさまのせいではないのです。女神もそうおっしゃっているわ」

「女神、さまが?」


 エヴェリーナさまは顔を覆っていた手を下ろし、両手でキュッとドレスを握った。


「あなたのこと、女神が教えてくださいました。本来のあなたは分別がありおんこうで、協調性を重んじる奥ゆかしいしゅくじょ。緑や青の静かな色合いが好きで、しゅは読書、子どもの

頃の夢は、書記官としてお父上のそばで働くこと」


 私が告げた性格分析の前半は、典型的ではんてきな貴族令嬢のとくちょうを述べたにすぎず、後半は彼女の育った環境や仕草、以前お会いしたハーパニエミ卿との会話などからすいそくしたものだ。

 エヴェリーナさまが涙ながらに打ち明ける。


「そうよ。王族との繫がりを夢見るほど、わたくしは身の程知らずではなかったはず。この下品なドレスも、着ていることが信じられないわ。三年間、きっとお父さまはずいぶんとわたくしに失望したでしょうね……っ」


 聖典には、悪魔とは「宿主を操り犯罪へと走らせたり、感情を食らいり殺す」と記されている。記述の通り、悪魔は少しずつ宿主を食らい、その影響で最終的に死に至らせるのだとしたら、彼女の記憶の消失は悪魔に「食われた」と言えるのかもしれない。

 エヴェリーナさまには記憶がない。その間、自分が何をして誰からどのように思われていたのか、ひとてに聞いても全て把握することは難しい。

 彼女はこれから行く先々で、覚えてもいない己のこうを聞かされることになるだろう。

 それがどれだけ恐ろしく、恥ずかしく、苦しいことか。さらに彼女はこれから、それを自力でばんかいせねばならないのだ。


「セルマさま、悪魔を追い祓ってくださったこと、心よりお礼申し上げます。……でも、もう、わたくしは――」

「悲観してはダメよ」


 生きていたくない。そんなことを言い出しそうな彼女に、私はさとすように告げる。


「殿下が、あなたをここに導いたのです。彼がナミヤの信徒になっていなければ、あなたはここに来なかったし、悪魔祓いもできないまま理想とは真逆の女性として最期を迎えていたでしょう。これは女神のおぼし召し。あなたに生きろとおっしゃっているのよ」

「そ、そう……なのでしょうか?」


 ――テオとしては、「何もしていない、勝手なことを言うな」というところだろうけど。


 エヴェリーナさまがキョトンとして、不思議そうに私とテオを交互に見ている。チラッとテオを確認してから、私は彼女に微笑みかけた。


「ハーパニエミ卿のことは、わたくしも存じ上げています。ナミヤ教徒ではないのに、貧しき者に使ってくれと毎年じょうざいを恵んでくださる、とても慈悲深く優しいお方。その方が、まなむすめを見捨てるわけがない。それどころか本来の自分を取り戻したあなたを見て、喜ばれるに違いないわ。不安なら、わたくしや殿下が喜んで口添えいたしましょう」


 テオは私の背後に立って、沈黙したままうでを組んでいた。エヴェリーナさまは目に涙をめ、テオをじっと見つめている。


「テオフィルス殿下……ありがとうございます。わたくし、ずいぶんひどいことをしたのにっ」


 再度振り返ったら、困り果てているテオと容易に目が合った。私はウィンクを返す。

 このウィンクは「話を合わせてね」であり、「好きなように答えたら?」でもある。過去を水に流してもいいし、女性恐怖症におちいったうらごとをぶつけてもいい。要するに、テオに任せるということだ。

 エヴェリーナさまはもう大丈夫だろう。表情も明るくなったし、私が支えになってあげられる。

 だからテオがどんな言葉をかけようが、私は心配していなかった。


「……あー、その、気にするな。俺も酷い言葉をぶつけてしまったこと、謝罪する」


 結局のところテオは積年の恨みをグッとこらえ、温かい言葉をかけた。察するに、彼の本音は「どうでもいいからとにかく早く帰ってくれ」だろう。

 彼女ほどごういんに迫られれば、誰だって恐怖を覚えて当然だ。にもかかわらず相手を思いやれるテオのかんだいさに、私は心の中で賛辞を送った。


「人はいつでも変われるものです。今のかざらないエヴェリーナさまは、とてもてきに思います。必ずや、みながかんげいしてくれるでしょう」


 ね、と侍女に話を振ると、彼女も頰を上気させて頷いた。


「三年間の空白を埋めるのは、簡単なことではありません。でも、あなたならきっとできる。エヴェリーナさまに、女神のご加護があらんことを」

「ありがとう。セルマさまにも女神のご加護があらんことを」


 エヴェリーナさまは何度も私に礼を言い、晴れやかな笑顔で帰っていった。


「――悪魔は恐怖をもたらす存在……」

「どうしたの?」


 神殿の前庭でエヴェリーナさまの馬車を見送った後、廊下を歩きながらテオが呟いた。


「少女は体が動かなくなることが怖かった。商人は客の信用を失うことが怖かった。エヴェリーナ嬢は父上に恥をかかせることが怖かった……のか」

「テオ? だから何を――」

「悪魔は人間に取り憑き、その者が最も恐怖に感じることをするのではないだろうか? それで、絶望する人間を見てたのしんでいると。……そう思ったのだが」


 彼の考察に私はハッとさせられた。


 根の国の住人は人間と女神をねたんでいる。絶望し、恐怖し、苦しめ――と。

 神話を振り返ってみても、テオの仮説は当たっている気がしてならない。もしそうなら、悪魔に取り憑かれた父が真っ先に母を殺した理由もわかる。


 ――父が最も恐れたのは、母と私を失うこと。父は家族を愛していた……。


「そうだとしたら悪魔ってほんと、悪趣味ね」


 言ってすぐ、私は唇をんだ。子どもみたいに何にも気にせず泣きたい衝動に駆られたからだ。


「だが、それだけ大きな恐怖におののいていた者を笑顔にさせてしまうのだから、セルマは……不思議だ」


 私のことをかつのごとく嫌っていたはずのテオに、思いがけず褒められた。どこをどうしたらその結論に行き着くのかわからないが、涙も引っこんだことだし、私はしれっと返すことにする。


「人はみんな、自分のことを理解してほしいと思ってる。その願いをかなえてあげれば、心を開くようになるの。どんなにへんくつな人でも、最初は純粋だったはずだもの。生きていくうちに自分を守る鎧を身につけすぎただけなのよ」


 私が大きいことを言ったからか、テオがフンッと鼻で笑った。


「世界中の人間全てを見てきたみたいに言うな」


 それは確かにそうだけど、私はなんだか気分がよかった。


「テオもそうよ」


 横を歩くテオに告げると、わざわざ彼は足を止めてまでいぶかしげな視線をした。


「テオは新しいものが苦手な一方で、信じやすくがたい。自分よりも人のための苦労を惜しまない優しい人。今はいないかもしれないけど、あなたの理解者は必ず現れるわ。女性に対する苦手意識も、その人がきっといやしてくれる。……かもね」


 知らんけど、というじゃっかん投げやりな決め台詞を最後に放ったら、おかしくなってふふっと漏れた。これ以上笑っては締まりがない、と笑いを噛み殺しながらテオよりも先に進んだところで、背後から呟きが聞こえる。


「――そうか、セルマは聖女なんだな」

「今更言うこと?」


 振り返るとすぐ、彼のしんけんまなしと目が合った。


「セルマがいい。俺は君に理解してほしい」


 ――ん?


 意味がわからなくて一瞬固まる。その間に、テオのついげきがやってくる。


「俺がセルマの一番の理解者になる。だから、セルマも俺の一番の理解者になってくれ」


 目力。姿勢。声。表情。どこをどう観察しても、私をからかっているようには見えない。


 ――んんん? どういうこと? なんか……愛の告白のように聞こえるんですけど?


 そんなわけない。あのテオが私を好きになるわけが。そもそも、私への好感度はじょばんのうちに地に落とすどころか地面にめり込ませてある。ちょっとやそっとで上がるわけがないのである。


「………………あ、そう」


 私は流すことにした。

 その結果が、ぼうとうに至るわけである。

 祝福の接吻が私からではなくテオから情熱的に授けられるようになった異常事態を、説明できる人はいませんか……?



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