2-5
事件が起こったのは、それから一週間後のこと。
「テオフィルス
執務室にて読書に
「エヴェ……っ!?」
私より先にテオが反応した。彼は慌てて立ち上がると、テーブルやソファにぶつかりながら「エヴェ」と呼んだ女性から可能な限りの距離を取った。
女性は
「やっやめろ、近寄るな!」
ただ、テオは逃げているけれど。
「イヤですわテオフィルス殿下、照れないでくださいまし。ああ、お会いしたかったわぁ……!」
「照れてなどいない! やめろ、来るな、動くな! 止まれっ!!」
部屋の中央に置いてあるソファとテーブルのセットを囲み、私そっちのけで追いかけっこをする二人。
「あの~……ごめんなさい、テオ? この状況について説明を求めてもいいかしら?」
テオの
「ハーパニエミ
ハーパニエミ子爵家といえば、信者ではないけれど年に一度
そのご
「まあぁテオフィルス殿下ったら! あたくしたちの仲はいずれ
「違う! 十年以上前から面識がある
テオの顔色は真っ青。顔も態度も言動も、拒絶の仕方が群を抜いて強烈だ。
――もしや、この方がテオの女性恐怖症の原因? それにしたってこんなに怖がる?
「エヴェリーナさま、テオは現在職務中なのです。私的なお話をなさりたいのなら別室でお待ちくださいませんか?」
私が間に入ろうとすると、彼女にギロッと睨まれた。
「あなた、どなた? 殿下を『テオ』と軽々しく呼ぶなんて無礼よ、気に入らないわ」
ウェーブのきいた
「わたくしはセルマと申します。初めまして、エヴェリーナさま」
私は営業スマイルを浮かべ、いつも通りの名乗りをした。エヴェリーナさまが眉をピクリと動かし、ニヤリと口元を歪め笑う。
「セルマぁ? どこかで聞いたことのある名ね」
本当に知らないのか、知らないふりをしているのか。
「
「いいえ、結構。あたくしは、テオフィルス殿下に用があってきたのよ」
どうやら彼女の視界にはテオしか映っていないみたいだ。こちらの提案を突っぱねて、再び彼に話しかける。
「テオフィルス殿下、一刻も早くあたくしと王宮へ戻りましょう。
「断る、誰が戻るものか! ……め、女神ヲウルの教えを学びたいのだ。ここで投げ出すわけにはいかない」
「ああ忌ま忌ましい、女神などにうつつを抜かすなど!
エヴェリーナさまが説得に夢中になっている一方で、テオは私をチラチラ窺っている。
何か言いたげな表情だ。
私はエヴェリーナさまに問いかける。
「お言葉ですが、あなたさま個人に彼の行動を制限する資格はないのでは?」
「はあああ? あたくしはテオフィルス王弟殿下の
敵意剝き出しの罵倒だ。これくらいで腹を立てたりはしないけれど、むしろ、貴族令嬢の言動としていかがなものかと疑問に思う。
婚約者ねぇ……と白い目で見ていると、私の代わりにテオが声を
「はっ!?いつ……こ、こんやく……!? してない、婚約など、してないっ!!」
「どうやらテオと話が噛み合っていないみたい。エヴェリーナさま、どういうことです?」
クスッと笑って怒りを
る。
「殿下、いい加減お逃げになるのはおやめください。あたくしはずっと子どもの頃から、殿下だけをお慕いしておりました」
「俺はずっと断り続けてきただろう!」
「まさかあの日のことをお忘れですか? あんな
あの日のこと。あんな辱め。張本人。……随分と
「セルマ、違う、誤解だ!」
――別に、あなた方の間に何があっても私には関係ないんだけどなあ……。
とはいえ、誤解であることは正しいだろう。何かがあったとするならば、たぶんエヴェリーナさまに仕組まれたのだ。テオと過ごしたこの半年は、彼が卑怯なことをする人間でないと知るのに十分すぎる時間だった。
「エヴェリーナさま、そんなことがあったのですね。いつだって傷つくのは女。さぞかしお辛かったことでしょう、お気持ちお察しいたしますわ」
呼吸を乱し、ポロポロと
「テオは混乱しているだけです。わたくしが彼に話をしてみますから、その間この部屋でお待ちくださいますか? 後でお茶を届けさせますわ」
執務室をエヴェリーナさまと彼女の侍女に明け渡し、テオの腕を
「セルマ、話を聞いてくれ! 女神に
どこへ向かっているか知らないテオは、必死で私に弁解しようとした。階段には、足音と一緒に声が大きく響いている。
「全部わかってる。だから黙って」
私が小声で手短に答えても、テオは察してはくれない。
「いいや、わかっていない! エヴェリーナ嬢は――」
「悪魔憑きなんでしょう? 侍女は違う。エヴェリーナさまだけが悪魔憑き」
声が聞こえない位置にまでしっかり遠ざかってから、私は足を止めテオを見上げた。手首から感じる彼の
「ど、どうしてわかったんだ!? まさか、ついにセルマにも聖なる力が……?」
この
「なんでそうなるのよ。あのね、ハーパニエミ家のご
エヴェリーナさまの場合は後者だ。
「そして何より、心拍数。さっきエヴェリーナさまが泣いてらした時、手首から脈を測らせてもらったの。あんなにさめざめと泣いているのに、平常心も平常心。今のテオとは正反対ね」
えっ、とテオが私の手を
もっとも、テオの考えていることなんて表情だけでわかるけど。
「それでセルマ、これからどうするつもりだ?」
「決まっているじゃない、悪魔祓いをするのよ。せっかく神殿を
しばらくして、私は一人でエヴェリーナさまを呼びに戻った。
お茶のおかげか大人しく待ってくれていたようだ。テオの説得が終わったことを告げると、エヴェリーナさまは
行き先は、悪魔祓いでお馴染みの瑠璃の間である。
しかし、それ専用の部屋であると知っているのは一部の聖職者のみ。しかも扉は他の部屋と変わらないので、中に入るまで気づけない。入ったところで、気づかない者は気づかないだろうけれど。
エヴェリーナさまを先頭にして、私たちは部屋の前に立った。修道騎士に目配せし、扉を開けてもらう。
「あなた、セルマと言ったかしら。案外役に立つのね、礼を言ってあげてもよくてよ」
背中
しかし、彼女がテオに触れることはなかった。扉の内側に隠れていた修道騎士が、その腕を
「あっ!?痛……なに? これは何事? 汚らわしいわ放しなさいっ、テオフィルス殿下、お助けをっ!」
身動きが取れず混乱している隙に、私はさっと近寄った。
「なによこれ、どういう……ギャッ!?」
ラーシュから受け取った聖水をかけ、魔除けのハーブを辺りに散らす。
「女神ヲウルはおっしゃった。我は天へ、闇の眷属は根の国へ――」
早口で
「ひどいわ! あたくしにこんな
最後の最後まで、悪魔であることを彼女は認めないようだ。キャンキャン
――さて、次は……。
捜すまでもなくテオと目が合った。これから何をするか予測がついているからだろう、彼の顔が
「テオフィルス。あなたに聖なる力を授けます」
彼に近づき、事務的な宣言をする。
「……これ、毎度やらないといけないのか?」
「すぐ終わるんだから黙って受け入れなさい。ほら、ラーシュたちが見てるでしょ」
テオの不満を抑えつけ、私は彼にキスをした。
ほんの
ね、すぐに終わったでしょ? と納得しきれていなそうな彼の目に
「あとは……っく、任せました」
「またか。また倒れるのか」
うんざり、というようなため息を吐き出すくせに、倒れる私をテオはちゃんと抱きとめてくれた。駆け寄ってきたラーシュに任せ、自由になった手で剣を抜く。
あっという間に決着がついた。まさに先手必勝、無駄のない動きだった。
……と言っても、私は絶賛意識消失中なので音で判断しただけだけど。
「なによ、どういうことよ! 聖女は
――……この悪魔も、違う。私の捜す悪魔じゃない。声も口調も、性格も違う。
――それより、私が偽物? 誰から聞いた?
――テオじゃない。テオは絶対に他人に漏らしたりしない。
「テオフィルス殿下、どうしてあたくしを受け入れないの!? あたくしのどこがダメ? こんなにも殿下を愛して……どうして、ファリエルさま……助け――」
また「ファリエル」だ。一体誰のことを指しているのだろう。
悪魔について一つわかればまた一つ、新たな疑問が
悪魔が抜けたエヴェリーナさまは、私とは異なり本当に昏倒した。その後神殿の客間に
「おはよう、テオ。先ほど彼女が起きたと聞いたから、会いに行くわよ」
「……俺も行かねばならないのか? すこぶる
「つべこべ言わずについて来なさい」
テオが執務室に顔を出してすぐ、私たちは彼女が泊まる部屋へと向かった。
操られていた間の記憶は、その人に残ると思っていた。過去の二例がそうだったからだ。
悪魔祓い後しばらくしてから対話を実施してみたところ、クヴァーン家のご令孫は「氷で固められたみたいに全然動けなくて怖かった」と語り、お茶売りの青年は「商人として何よりも大切な信頼を失う真似をするなんて」とひどく落ち込んでいたのだ。
ただ、エヴェリーナさまは違った。三年間もの記憶が、彼女の中から完全に吹き飛んでいたのである。
報告によると、エヴェリーナさまは目が覚めると同時に、見ず知らずの部屋にいることに取り乱したらしい。隣室で休んでいた侍女が駆けつけ
「信じられない、わたくしがそのような真似を? ……あなたを疑ってはいない、自分で自分が信じられないだけ。王族の方にしつこく付き
部屋に入るよりも先に、落ち着かせようとする侍女を相手に泣き喚くエヴェリーナさまの声が聞こえた。テオをチラリと窺うと、眉間に皺を寄せ首を振り、「入室はやめよう」と言わんばかりの表情をしていた。
私は見なかったことにした。再び扉に向き合って三回ノックを済ませると、
私と、その背後にいるテオ。両手を顔に当て泣いていたエヴェリーナさまは、指の
――震えてる。本来のエヴェリーナさまは、内向的なのね。
私は息を吸い込んで、明るくエヴェリーナさまに告げる。
「おはようございます、わたくしはセルマ。昨夜はよく
「…………」
ベッドにいるエヴェリーナさまと、側に立つ侍女。私は侍女に場所を替わってもらい、エヴェリーナさまに近寄った。
「ここ三年間の記憶がないそうですね。その間のご自分の行動を聞き、信じられず戸惑っているのだと。……わたくしにはあなたの気持ちがよくわかる。あなたは今、消えてしまいたいほどに
まだ顔を上げないまでも、耳は傾けてくれているようだ。呼吸に合わせて肩が激しく上下していたが、少しずつ
私は続ける。
「我々はあなたを責めません。これまでの行いは、あなたに取り憑いた悪魔によるもの。だから、エヴェリーナさまのせいではないのです。女神もそうおっしゃっているわ」
「女神、さまが?」
エヴェリーナさまは顔を覆っていた手を下ろし、両手でキュッとドレスを握った。
「あなたのこと、女神が教えてくださいました。本来のあなたは分別があり
頃の夢は、書記官としてお父上のそばで働くこと」
私が告げた性格分析の前半は、典型的で
エヴェリーナさまが涙ながらに打ち明ける。
「そうよ。王族との繫がりを夢見るほど、わたくしは身の程知らずではなかったはず。この下品なドレスも、着ていることが信じられないわ。三年間、きっとお父さまはずいぶんとわたくしに失望したでしょうね……っ」
聖典には、悪魔とは「宿主を操り犯罪へと走らせたり、感情を食らい
エヴェリーナさまには記憶がない。その間、自分が何をして誰からどのように思われていたのか、
彼女はこれから行く先々で、覚えてもいない己の
それがどれだけ恐ろしく、恥ずかしく、苦しいことか。さらに彼女はこれから、それを自力で
「セルマさま、悪魔を追い祓ってくださったこと、心よりお礼申し上げます。……でも、もう、わたくしは――」
「悲観してはダメよ」
生きていたくない。そんなことを言い出しそうな彼女に、私は
「殿下が、あなたをここに導いたのです。彼がナミヤの信徒になっていなければ、あなたはここに来なかったし、悪魔祓いもできないまま理想とは真逆の女性として最期を迎えていたでしょう。これは女神の
「そ、そう……なのでしょうか?」
――テオとしては、「何もしていない、勝手なことを言うな」というところだろうけど。
エヴェリーナさまがキョトンとして、不思議そうに私とテオを交互に見ている。チラッとテオを確認してから、私は彼女に微笑みかけた。
「ハーパニエミ卿のことは、わたくしも存じ上げています。ナミヤ教徒ではないのに、貧しき者に使ってくれと毎年
テオは私の背後に立って、沈黙したまま
「テオフィルス殿下……ありがとうございます。わたくし、
再度振り返ったら、困り果てているテオと容易に目が合った。私はウィンクを返す。
このウィンクは「話を合わせてね」であり、「好きなように答えたら?」でもある。過去を水に流してもいいし、女性恐怖症に
エヴェリーナさまはもう大丈夫だろう。表情も明るくなったし、私が支えになってあげられる。
だからテオがどんな言葉をかけようが、私は心配していなかった。
「……あー、その、気にするな。俺も酷い言葉をぶつけてしまったこと、謝罪する」
結局のところテオは積年の恨みをグッと
彼女ほど
「人はいつでも変われるものです。今の
ね、と侍女に話を振ると、彼女も頰を上気させて頷いた。
「三年間の空白を埋めるのは、簡単なことではありません。でも、あなたならきっとできる。エヴェリーナさまに、女神のご加護があらんことを」
「ありがとう。セルマさまにも女神のご加護があらんことを」
エヴェリーナさまは何度も私に礼を言い、晴れやかな笑顔で帰っていった。
「――悪魔は恐怖をもたらす存在……」
「どうしたの?」
神殿の前庭でエヴェリーナさまの馬車を見送った後、廊下を歩きながらテオが呟いた。
「少女は体が動かなくなることが怖かった。商人は客の信用を失うことが怖かった。エヴェリーナ嬢は父上に恥をかかせることが怖かった……のか」
「テオ? だから何を――」
「悪魔は人間に取り憑き、その者が最も恐怖に感じることをするのではないだろうか? それで、絶望する人間を見て
彼の考察に私はハッとさせられた。
根の国の住人は人間と女神を
神話を振り返ってみても、テオの仮説は当たっている気がしてならない。もしそうなら、悪魔に取り憑かれた父が真っ先に母を殺した理由もわかる。
――父が最も恐れたのは、母と私を失うこと。父は家族を愛していた……。
「そうだとしたら悪魔ってほんと、悪趣味ね」
言ってすぐ、私は唇を
「だが、それだけ大きな恐怖に
私のことを
「人はみんな、自分のことを理解してほしいと思ってる。その願いを
私が大きいことを言ったからか、テオがフンッと鼻で笑った。
「世界中の人間全てを見てきたみたいに言うな」
それは確かにそうだけど、私はなんだか気分がよかった。
「テオもそうよ」
横を歩くテオに告げると、わざわざ彼は足を止めてまで
「テオは新しいものが苦手な一方で、信じやすく
知らんけど、という
「――そうか、セルマは聖女なんだな」
「今更言うこと?」
振り返るとすぐ、彼の
「セルマがいい。俺は君に理解してほしい」
――ん?
意味がわからなくて一瞬固まる。その間に、テオの
「俺がセルマの一番の理解者になる。だから、セルマも俺の一番の理解者になってくれ」
目力。姿勢。声。表情。どこをどう観察しても、私をからかっているようには見えない。
――んんん? どういうこと? なんか……愛の告白のように聞こえるんですけど?
そんなわけない。あのテオが私を好きになるわけが。そもそも、私への好感度は
「………………あ、そう」
私は流すことにした。
その結果が、
祝福の接吻が私からではなくテオから情熱的に授けられるようになった異常事態を、説明できる人はいませんか……?
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