第5話 波乱の幕開け
誰もいない静まり返った廊下を、彼女は足早に歩いていた。
「……」
入学式典の会場を後にしてからというもの、シャーロット・フェルーエン侯爵令嬢の心は何故か搔き乱されていた。
そんな気持ちに引きずられるように、彼女の足は重くなる一方だった。
……本当は、少し立ち止まってしまいたかった。けれど、侯爵令嬢として、そんな惨めな姿を晒す訳にはいかなかった。
それが、今まで自分を王妃候補として扱ってくれたアルバートへの、誠意でもあるからだ。
シャーロットはどうにか足を動かすと、研究室の中へと身を滑り込ませた。
「失礼します、エヴァンズ先生」
「待っていましたよ、シャーロット」
落ち着きのある成人男性の声が、研究室の奥から響いてきた。声の主は、しばらく戸棚をガサゴソと探るような音をさせてから、シャーロットの前に姿を現した。
シャーロットを出迎えたのは、腰ほどまで伸びた黒髪を一つに束ねた、人並外れた美貌の男性であった。
優しい眼差しの中に、世を憂いているような気配が潜んでいるのが、不思議な魅力を生み出している。それでいて、少し幼げな印象を抱かせる顔立ちをしているので、そのアンバランスな感じが、更に彼を魅力的に見せていた。
しかし、そんな印象を覆すように、彼は興奮した様子で
「丁度、新しい薬の調合を思いついて――、」
そう口にしかけて、言葉を止めた。彼は咳払いをすると、
「……いえ、その話の前に。どうぞ、座ってください。……少しお茶でもどうですか。僕も丁度、喉が渇いたと思ったところなんです」
と、シャーロットに座るよう促した。
そのまま、奥に引っ込んでいった彼は
「あれ、ポットがないな……」
だとか
「カップはどこにしまったんだったかな……」
などと不安になるようにことを呟きながら、ドタバタと作業し始めた。
……十数分して、彼はティーセットを持ってシャーロットの前に戻ってきた。先程の生き生きとしていた表情とは打って変わって、少し疲れたような様子で
「いやあ、お茶を入れるなんて久しぶりなものだから、時間がかかってしまって……」
そう言いながら、彼はシャーロットの前の席に腰を下ろした。
「いいえ、お気遣いいただきありがとうございます」
シャーロットは差し出されたカップを手に取ると、カップに注がれたお茶に口をつけた。
湯気と共に立ち上る、胸の奥がスッとする爽やかな香り。口に含むと、レモンのような口当たりの良い味が広がった。
飲み下したお茶が、喉を潤していく時。それを追いかけるように、すっきりとした後味が口腔内を満たしていく。
涼やかな味わいでありながら、それが過剰にならないよう適切に調節されている。
最も驚くべき点は、このお茶がたった今、調合されて出来上がったものであるということだろうか。
即興での調合でありながら、素晴らしい完成度のお茶。その技術の高さに、流石のシャーロットも舌を巻いた。
「流石、エヴァンズ先生。【目覚めのミント】を使って、ここまで口当たり良く仕上げるなんて……」
そう口にしたシャーロットは、目の前の人物への尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
……シャーロットの目の前にいる男性。【エヴァンズ教授】と呼ばれた男性こそ、シャーロットが学院進学を希望した理由となった人物だった。
カイン・エヴァンズ。ソルヴェーヌ王国で植物や薬草について学ぶ者の中で、彼の名を知らぬ者はいないほどの有名人である。
【薬草学の権威】とも呼ばれ、国内で学ばれている薬の大半は、彼が調合によって生み出したものであった。
数々の功績から、王室付きの学者となることを打診されたこともあるという。しかし、カインはそれを
『僕はどうも、外に出て、自由にやるのが一番肌に合っているようなので』
という理由で断ったのだそうだ。
しかし、学会参加などへのしがらみから、いずれかの研究機関に所属することが必要になってしまった。
そんな時、エシュニット学院から名誉教授として招聘された、という訳である。
……とはいえ、カインが学院で教鞭をとったことは一度もなかった。何故なら、そもそも学院にいることが少ないからである。
研究のために各地を渡り歩いており、学院に戻ってくるのは数年に一回あるかないか、という程度。たまに戻ってきても、学会での発表や論文の提出を終えたら、すぐに学院を出ていく始末。
仮にも学院教授でありながら、彼が学院にいるのを見た人物の方が少ないほどだ。
……なので、シャーロットが彼に師事するに至ったのは、奇跡としか言いようがない出来事であった。
シャーロットからの賛辞の言葉に、カインはクスっと笑みを漏らす。
「言い過ぎですよ、シャーロット。貴女だって、これくらいはお手の物でしょう?」
「私もお茶の調合はしますけれども、先生の腕前には及びませんわ。雑味を感じさせずにここまで調和させるには、相当の技量が必要ですもの」
心に思ったままを素直に述べれば、
「そう謙遜する必要もないと思いますがね。……それが分かるというだけで、貴女がいかに優れているかが分かるというものですから」
と、勿体ないほどの言葉を貰ってしまった。シャーロットが恐縮していると
「……そうだ、お父様とお母様は、お変わりありませんか?」
そうカインが問いかけてきた。シャーロットはすかさず
「ええ、お陰様で。父と母からも、先生にどうぞよろしく、と……」
と返した。
「それはよかった。以前研究の拠点としてお邪魔させていただいてからというもの、色々と面倒を見てもらったものでして。お恥ずかしながら、そのお返しも出来ていないものですから……」
シャーロットはそれに、とんでもない、と返しながら、両親から聞いていた話を思い出していた。
――十年程前、カインがフェルーエン侯爵家に逗留し、研究をしていた期間があったらしい。
数か月ほどの間の話なのだが、侯爵家の一室を間借りして、近くの森林の植生などを調査していたのだという。
当時、七歳のシャーロットは、母からもらった薬草の学術書を手に、カインに片っ端から疑問をぶつけていったらしい。
彼は幼いシャーロットを邪険に扱わず、一から丁寧に説明してくれたのだとか。
……ここまで全て伝聞調なのは、この記憶がシャーロット自身にないからである。
【薬草学の権威】から、直接指導をしてもらった。そんな話を両親から聞かされた時、幼い頃の自分を本当に羨ましいと思ったものだった。
そんなこともあって、学院で彼に直接師事してもらえると決まった時は、両親に感謝したものだった。
そう、それが、始まりだった。今日という日が来る、その始まりの――
そんな風に物思いに耽っていると、
「……シャーロット、大丈夫ですか。少し、顔色がよくありませんが」
と、カインから心配の声がかかった。どうやら、ぼうっとし過ぎてしまっていたらしい。お茶やカインとの会話で少しは気紛れしていたが、やはり、先程のことが尾を引いているらしい。
「……」
先程起こった出来事。それを、正直に話すべきか、少し迷った。けれど、
「何かあったのでしょう? ……アルバート殿下のこと、ですよね?」
ピタリと言い当てたカインに、シャーロットは意表を突かれて
「どうしてそれを……」
思わず彼の言葉を肯定してしまっていた。
「貴女がそういう表情をする時は、いつもそうですから」
眉を下げて
「そ、それほど分かりやすい表情をしています?」
と問うと、彼は頷いた。それから、シャーロットは観念したように
「…………先生には隠し立てできませんね」
先程入学式典で起こった全てを話したのであった。
「――王妃候補を辞退するとお話した時、殿下が、……泣きそうな顔をしていたのです」
そう口にするシャーロットの言葉に、カインは神妙な様子で続きを促す。
「それで、少し心が揺れてしまっていて。本当にこれで正しかったのか。それが、分からなくなってしまいそうで……」
あれ以上、アルバートに自分を擁護させる訳にも。糾弾の場に立たせる訳にもいかなかった。
それに、ずっと前から、自分が王妃候補としての立場に相応しくないとは分かっていた。アルバートだって、それは分かっていたはずだ。
妖精の加護がない自分が、王妃として国民に認められる。そんな都合のいいことはないのだ、と。
全ては、自分が身を引けば済むこと。そう思っていた。
けれど、アルバートにあんな表情をさせてしまったことが、どうにも気がかりでならなかった。
いつまでもくよくよしている自分も嫌で、それでいて、どうしようもない気持ちが込み上げてくるのを止められない。
吐き出すように、カインにありのままを述べていた。
そんなシャーロットの言葉を受け止めてから、カインはようやく口を開いた。
「シャーロット、貴女は強い女性です。自分で判断を下し、適切と思った行動をとれる。それは立派なことです」
ゆっくりと、慎重に。カインは言葉を選んでいく。
「妖精の加護がないために、出来ることは、全て自分でやろうと努力してきたが故なのでしょうが……」
そこで言葉を切って、彼は少し悩み込んだ。それから、こう続けた。
「貴女は、一人で抱え込み過ぎてしまうことがあるみたいですから……。もっと、自分以外の誰かを頼ってもいいと、僕は考えているんです」
慣れない励ましの言葉を、どうにか口にしている。それでも、心に思ったままをぶつけたシャーロットに、彼も最大限の誠意をもって返していく。
「……シャーロット。貴女は一人ではないのです。貴女の思いやりや、優しさ。それを必ず誰かが覚えていて、知っているのです。そして、必ず力になってくれるはずです」
彼はそのまま、最後にこう繋いだ。
「何が言いたいかというと、殿下も貴女が優しさ故に下した判断を理解している、ということです。…………ですから、どうしてこう判断したのか、何故そうしたのかを、貴女の口から説明して差し上げるのが良いと思いますよ」
その言葉は、自然とシャーロットを勇気づけていた。不器用で、お世辞にも上手とは言えない。けれど、シャーロットを励まそうという思いの籠った言葉。
それに勇気づけられるような気持ちがして、シャーロットは顔を上げた。
「ありがとうございます、エヴァンズ先生」
上手くできるかは分からない。でも、今度アルバートに会った時、きちんと話せるように。そんな願いを込めて。シャーロットはカインにはにかんで見せた。
「今日はこのまま、休みますか? それとも……」
ティーセットを片付けながらそう問いかけて来たカインに、シャーロットは
「先生がよろしければ、入学前にいただいた課題の件でお話を――」
そう口にして、持ってきた鞄をシャーロットが開けようとした瞬間。
「きゃあああああああッ!」
「うわあぁあああぁ!」
至る所から大勢の悲鳴が聞こえてきたかと思うと、校舎全体がギシリ、と軋む音が響いたのであった。
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