7.ロシア

ひと月ばかりが過ぎて、ある日大臣は突然私に向かって「私は明日の朝、ロシアに向かって出発する。一緒に来てくれないか」と尋ねてきた。

私はほかの業務に忙しくしている相沢と、この数日間会っていなかったので、この質問は不意であり、私を驚かせた。しかし私はすぐに「はい。お従いいたします」と回答した。


あぁ、私の恥をここに表明しよう。この回答は即断即決した訳ではない。私は、私が信頼して頼みにしている人から急な要請をされたとき、その依頼が容易なものかをよく考えもせずに、咄嗟に引き受けてしまうことがあった。そして引き受けてしまった後に依頼を実行することが難しいと気がついても、安請け合いで返事をしたことを隠して、耐え忍んでなんとか依頼を実行するということがしばしばあった。


この日は翻訳の代金に旅費も追加して頂戴して、持ち帰った翻訳の代金はエリスに預けた。これでロシアから帰ってくるまでの家計の支えにはなるだろう。

彼女は医者に見てもらって、やはり妊娠であったと言った。貧血ぎみであったため、何か月も気づかなかったのだろう。座長からは休む期間があまりに長いので解雇すると言い放たれたとのことだった。まだひと月しか休んでいないのに、このように厳しいのは何の理由があるのだろう。

ロシアへの旅立ちのことについてはエリスは不安な様子を見せなかった。偽りのない私のこころを厚く信じているからだろう。


鉄道で向かえば遠くもない旅なので、準備も大したことはない。身長にあわせて借りた黒い礼服と新しく買い求めたゴタで出版されたロシア宮廷の貴族家系図や儀礼マナー集、二、三冊の辞書などを小さなカバンに入れただけだ。

さすがに妊娠して情緒不安定なことが多い時期だったので、エリスが駅まで見送りに来てしまうと、私が出ていって後に残ることを改めてつらく感じるかもしれないし、まして駅で泣いてしまったら、私も後ろ髪を引かれる思いをしてしまうので、翌朝早くエリスを母の知り合いのところに預けた。私は旅の服装を整えて戸を閉めて、鍵は入口に住む靴屋の主人に預けて出発した。


ロシアに到着してからは何を話せばよいだろうか。私の通訳者としての任務はあっという間に周囲から評判となり、通訳のためにロシア宮廷の貴族たちの中をあちこちに連れ回された。

大臣の一行に同伴してペテルブルグにいた間に私を囲むのは、パリ絶頂のころの豪華絢爛をそのまま氷雪の中に移したかのような宮殿の装飾、わざわざ蜜蝋で作られたろうそくが数えきれないほど灯る中で、軍服に掛かるいくつもの勲章や肩章の金糸が反射する光、技巧を尽くした彫刻が飾られた壁つき暖炉の火の勢いに外の寒さも忘れてしまった宮廷女官が使う扇の揺らめきなどであった。この一行の中でフランス語をもっとも流暢に話せるのは私だったので、主人と主賓との間を取りもって通訳することの多くは私が行った。


この間、私はエリスのことを忘れたことはなかった、いや、彼女は毎日私に手紙をよこしたので、忘れることはできなかった。

“あなたが旅立っていった日は、いつもとは違ってひとりランプの灯りをみていることが余りにつらく、知り合いのもとで夜になるまでおしゃべりをして、疲れたころに家に帰ってすぐに寝ました。次の朝、目覚めたとき、やはりひとり家に残っていることは夢ではないだろうかと思いました。起き上がったときの寂しさは、家計が苦しくその日の食事が用意できなかったときでさえも感じたことはありませんでした。”

彼女から届いた最初の手紙のあらましだ。


またしばらく経ってからの手紙には強く思いつめた文章が並ぶようになった。その手紙は「苦しいです」という言葉ではじまっていた。

“苦しいです。今や私はあなたへの愛情の深さを知ってしまいました。あなたは故郷に頼れる家族もいないとおっしゃっていたので、この地で生計を立てるのによい方法があれば、ここに留まってくださるでしょう。また私の愛をもって繋ぎとめればこの地に留まるでしょう。それもかなわず日本にお帰りになられるとするならば、母とともに日本にいくことに全く躊躇いはありませんが、どれほどの旅費がかかるかと思うとその費用を用立てすることは困難です。


どんなことをやってでも、この地に残って、あなたがご活躍されて認められる日を待とうとずっと思っていましたが、しばしの旅とおっしゃってご出発されてからこの二十日あまり、離別の思いは日に日に増していくばかりです。袂を分かつことのつらさはその一瞬だけだと思っていたのは誤りでした。私が妊娠してますます体調の変化が目立ってくるようになってきていますので、どんなことがあっても、どうか私をお捨てにならないでください。


母とはいつも言い争っています。しかし母は、私が今やあなたへの揺るがない思いがあることを知り、折れてしまいました。私が日本に行くときは、母はステッチンに渡った農家の中に遠い親戚がいるので、そこに身を寄せようと言っています。お送りいただいた手紙に書かれていた通り、大臣からあなたが重用されていらっしゃるというのであれば、私の渡航費用はどうにかなるかと思います。

今はただひたすら、あなたがベルリンからお帰りになる日を待っているのみです"


あぁ。私はこの手紙をみてはじめて自分が置かれている立場がはっきりと分かった。

恥ずべきは私の愚鈍さである。私は今まで自分の進退だけでなく、たとえ他人の進退であっても決断できる人間であることを誇りとしていた。しかしこの決断は順調なときだけしかできず、逆境では全くできなかった。私がまわりの人との関係をはっきりとさせようとすると、誇りにしていた私の決心の鏡は途端に曇ってしまう。大臣の私への信頼はすでに厚い。しかし私の近視眼的な思考は、今まで、ただ自分の通訳の職責を尽くすことだけを考えていた。この仕事を通じて将来の望みに繋げようとは、神でさえ全く思い至らない、まして自分では考えたこともないことであった。

しかし今ここに至ってそのことに気づいて、私は落ち着くことはできなかった。以前に相沢から大臣の信頼を得よ、と勧められたころは、大臣の信用を得るなんて、屋根の上の鳥を捕まえるくらい難しいことであった。ところが、今になれば大臣からの信頼を着々と得ている感触があるだけでなく、相沢がこのごろの言葉の端に「日本に帰った後もこのように一緒に仕事ができると良いのだが…」などと言っていたのは、大臣がそうしようとおっしゃっていたのを、友人とは言え公式なことだから私に明言できないため、ぼかして伝えていたように感じる。今更ながら考えると、私が軽率にも彼に会った際に「エリスとの関係を絶とう」といったのを、すぐに大臣に伝えたのかもしれない。


私は愚かだ。ドイツに来たはじめのころ、自分が何者であるかが分かったと感じて、機械のような人間にはならないと誓ったが、どうやら足を縛られて放たれた鳥がしばらく羽を動かして自由を得たと勘違いしていたようだ。足に結ばれた糸をほどく方法などない。

過去にこの糸で私を操っていたのは長官だったが、今この糸は、なんということだろう、天方大臣の手中にある。

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