6.懐妊
明治二十一年の冬が来た。街の表通りの歩道にこそ砂を撒いて、鋤を入れて凍結の備えをしていたが、クロステル街の辺りは道路の凹凸は見えるけれど路上は一面凍りつき、朝に戸を開けると飢えて凍えたスズメが落ちて死んでいたりしてかわいそうであった。
部屋を暖めて、かまどに火を熾しても、壁の石を通り抜け、衣服の綿の上から突き刺してくるような北ヨーロッパの寒さは、なまじのことでは耐えがたいものがあった。
エリスは二、三日前の夜、舞台の上で卒倒したらしく、人に介抱されて帰ってきたが、それ以降、気分が悪いと言って休み、食べ物を口にするたびに吐いてしまっていた。それが悪阻ではないか、とはじめに気がついたのは彼女の母であった。
今でさえおぼつかない私の将来なのに、もし本当にエリスが懐妊したとしたらどうすれば良いだろう。
今朝は日曜だったので家にいたけれども、心は穏やかではなかった。エリスは床に臥せるほどではなかったけれども小さいストーブの近くに持ってきた椅子に座り込んで言葉少なげであった。このとき戸口に人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母が、郵便の書状を持ってきて私に渡した。見れば見覚えのある相沢からの文章で、郵便切手はプロシアのもので消印にはベルリンとあった。
訝しつつも開いて読むと、
“急なことであらかじめ知らせることができなかったが、昨日夜にベルリンにいらっしゃった天方大臣の付き添いで私もここに来た。大臣があなたとお会いしたいとおっしゃるので、できるだけ早く来てほしい。あなたの名誉を回復するチャンスは今この時をおいてない。急ぎのため用事のみ伝えるまで”
と書いてあった。
詠み終わって呆然としている私の顔を見てエリスは言った。
「故郷からの手紙でしょうか。悪い手紙ではないでしょうね」
彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙だと思っていたのだろう。
「いや、心配は不要だよ。あなたも名前を知っている相沢が、大臣と共にこちらに来たというので、私を呼んでいるのだ。急いで来てほしいと言っているので、今からでも行こうかと思う」
大臣に面会するかもしれないと思えばだろう、エリスは病をおして起き上がり、一番白いワイシャツを選び、丁寧にしまっていた二列ボタンのフロックコートを出して着せて、ネクタイも私のために結んでくれた。かわいい一人っ子を送り出す母親であっても、ここまで心をこめて丁寧にすることはない。
「これで見苦しいとは誰も言えないでしょう。私の鏡のほうを向いてください。どうしてそのように面白くなさそうな顔をしていらっしゃるのでしょうか。私も一緒に行きたいくらいです。」
そう言いながら、エリスは改めて私の服装を少し手直しして、
「いやだわ。このように衣服をあらためて立派な装いをされているのを見ると、なんとなく私の豊太郎さまには見えません」
と呟いた。また少し考えこんで、
「大臣にお会いするということは、もしかして立派な身分にでも取り立てられる日が来るのでしょうか。もし、高貴な身分になったとしても私を見捨てないでくださいね。私の調子が優れないのが、母の言うような懐妊ではなかったとしてもですよ」
と懇願した。
「何、高貴な身分だって」
私は微笑んで、
「政治や社会などで出世しようなんて望みを捨ててから、もう何年経っただろう。大臣と別に会いたいわけではない。ただ久しく会っていない友人に会いに行くだけさ」
と言った。
エリスの母が呼んだ一等の辻馬車が、輪下の雪を軋ませながら家の窓の下まできた。
私は手袋をはめ、少し汚れた外套は手を通さずに背中にかけて、帽子を手にとり、エリスに口づけして階段を降りた。彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせながら、私が乗る辻馬車を見送った。
* * *
私が辻馬車を降りたのはカイゼルホーフ・ホテルの入口だった。門番に秘書官相沢の部屋の番号を尋ね、久しく踏むことがなかった大理石でできた階段を昇ると、中央の柱にビロードで覆われたソファーが据え付けられ正面に鏡を置いたロビーに入った。
外套をここで脱ぎ、廊下をわたって部屋の前まで来たが私は少し躊躇した。同じ大学にいたころ、私が品性方向であったことを褒め称えた相沢が今日はどんな面持ちで出迎えるのだろうか―――。
しかし、いざ部屋に入って相まみえると、相沢は姿かたちこそ昔に比べれば恰幅よく、たくましくなっていたが、変わらない快活な性格で、私のありさまにもそこまで意に介していないように見えた。久しぶりの再会だが、お互いの近況を詳細に話す暇もなく、彼に連れられて大臣に謁見すると、依頼されたのはドイツ語にて綴られた文書の急を要する翻訳であった。
私が文書を受領して大臣の部屋を出たとき、相沢は後からついてきて、昼食を共にしようといった。
昼食では、彼は多くの質問をして私は多くの返答をした。彼の人生はおおむね平穏なものであったので大した話はなかったのに対して、問いただしたくなる波乱な運命を歩んだのは私のほうだった。
私が胸の奥にしまった記憶を思い出して語った不遇な遍歴を聞いて、彼は驚いたが、どうして私を責めようとはせず、かえって私を貶めたほかの留学生たちの凡庸さを罵った。
しかし、私がしゃべり終わったとき、彼は表情をあらためて私を諫めた。
「この一連のことはもともと生まれながらに持っている弱い性根から出てしまったことであるだろうから、今更に何か咎めたとしても意味がないだろう。とは言え、学識があり、才能もあるものがいつまでもひとりの乙女にうつつを抜かして、目的もなく生活をするべきではない。
今は天方大臣も、ただドイツ語に堪能だからという理由で君を呼んだに過ぎない。大臣は君の免官の理由を知っているがゆえに、私も強いて大臣に君を推薦して登用してもらおうとは働きかけない。大臣が私のことを、道理を曲げてまで人をかばう人間だと思ってしまっては、君に得することもなく、自分が損もするだけになってしまうからだ。
人を推薦するためには、まずその能力を示すのが一番だ。この能力を示して大臣の信用を得なさい。
また、この少女の関係は、たとえ彼女が本当に君を好きであっても、また深い関係にあったとしても、ちゃんとした人となりや素性を知った恋ではなく、男女の慣習という一種のゆきずりの情から生まれた交際だ。意を決してこの関係を絶て」
と概ねこのようなことを彼から言われた。
相沢が私に示した前途の方針は、大船原で舵を失った船人がはるか先に山を見出したかのような一縷の望みであった。しかし、この山はいまだ濃い霧の中にあって、いつ行き着くのかも、いや、果たして行き着くことができるのかも、こころの中で私は満足に確信することはできなかった。
貧しき中にも楽しきは今の生活。捨てがたきはエリスへの愛情。私の脆弱なこころではどちらを取るか決断する方法はなかったが、しばらくは友人の言葉に従ってみようと考え、エリスとの縁を絶つことを約束した。私は、守るべきものを失わないよう、自分と敵対する者にこそ抵抗もするが、友に対してはノーとは言わないのが常であった。
別れてホテルを出ると風が顔を打った。二重のガラス窓でしっかりと防寒対策されて、大きな暖炉に火を焚いたホテルの食堂から出たので、薄いコートの上から突き刺す午後四時の寒さは殊更に耐えがたく鳥肌が立った。それとともに、私はこころの中にもう一つの寒さを覚えた。
翻訳は一晩でやり遂げた。
カイゼルホーフ・ホテルへ通うことは、これ以降だんだんと頻繁になっていって、はじめは大臣から掛けられる言葉も用件のみであったが、しばらく経つと、近頃の日本であったことなどを取り上げて私に意見をたずね、折に触れては他人の失敗談などをあげて笑い話とした。
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