5.エリスへの愛

あぁ、なんという因果だろうか。この恩に対するお礼をしようとして、私の下宿にエリスがやってきた。少女は、私が右にショーペンハウアーの著書を、左にシラーの著書を置いて一日中じっと座って読書する窓の下に一輪の美しい花を咲かせた。

このときをきっかけに、私と少女との交流はだんだんと増えていった。日本からの留学生の間にも知られるようになると、彼らは早合点して、私が色欲におぼれて踊り子たちを女漁りしているのだとみなしていた。私たちふたりの間柄はまだ純潔な間柄であったのにもかかわらずだ。


名前を言うのは憚りがあるのでここでは出さないが、留学生の中には噂話が好きな人がいて、私がしばしば芝居小屋を出入りして、踊り子と交際しているということを長官の耳に入れるものがいた。それでなくても私が当初望まれた学業とは違う方向に進んでいることを知って、よい思いをしていなかった長官は、ついに私への辞令を大使館に伝えて、私を免官として解雇した。

大使がこの辞令を伝えるときに私に言うには、「もしすぐに帰国するなら旅費を支給するけれど、もしまだここにいようと思うのであれば公的資金は一切支給しない」とのことであった。


私は決断までに一週間の猶予をお願いして、どうしようかと思い悩んでいるところに、私の生涯で最も悲しみに暮れることとなる二通の手紙を受け取ることになった。この二通はほとんど同時に送られてきたもので、一通は母の自筆の手紙、一通はとある親族から母の死を、私がまたとなく慕う母の死を報じた手紙であった。

母の手紙のなかの言葉をここに書き写そうとすると、こらえきれず涙が溢れてきて筆をとることができなくなるから、ここには書かない。


私とエリスの交際はこのときまで、はたから見るよりもずっと潔白で清らかなものだった。

彼女は父が貧しかったがために十分な教育を受けることができず、十五歳の時に舞踊の師匠の稽古についてこれを身につけ、一通りのことができるようになった後は、ヴィクトリア劇場に出演するようになって、今では劇団の次席女優の地位を占めるまでになった。

しかし、詩人ハックレンデルが「現代の奴隷」と言うように、彼女たち舞姫の身分は儚いものであった。安い給料で劇団と契約し、昼間は稽古、夜は舞台と休む暇なくはたらき、劇場の楽屋でドーランを塗って美しい衣装を纏えば、舞台の上でこそ華やかだが、ひとたび劇場を出れば、独り身であっても衣食が足らないほどの厳しい給料であった。まして親兄弟を養う人たちにとっては、さらにつらいものがあった。

そのような事情があったため、彼女の仲間たちの中には卑しい限りではあるが娼婦に堕ちてしまうものも少なくないという。エリスが今までそうなるのを逃れられたのは、おとなしい性格だったことと、剛毅な父が守ってくれていたからであった。


彼女は小さい頃から本を読むことがずっと好きだったけれども、手に入れることができたのは卑しい行商が営む貸本屋の小説のみだった。けれども私と知り合うようになってからは、私が貸した本を読んで学び、だんだんと教養を身につけ、言葉の訛りもなくなって、すぐに私へ渡す手紙の誤りも少なくなった。

そんなわけで、私たちのふたりの間柄ははじめ師弟の関係であった。


* * *


私の突然の免職の報を聞いたとき、彼女は顔を青ざめさせた。私はエリスとの付き合いが原因であることを隠した一方で、彼女は私に向かって「母にはあなたの免職を秘密にしておいてください」と言った。これは母親が、私が奨学金を失ったことを知って、私を彼女から遠ざけようとするのを恐れていたからであった。


詳しくここには書かないけれども、彼女を愛する気持ちが急激に高まって、ついには離れがたい仲になったのはこのときだった。

人生における一大事が目の前に横たわり、今まさに生きるか死ぬかの決断の時であったのに、エリスへの愛に奔ったことを、訝しんだり、また、非難する人はいるだろう。

しかし、私がエリスを愛する思いははじめて出会ったときよりもずっと深くなっていたし、なにより、私の運命を哀れみ、別れの悲しみに沈み伏せている顔に後れ毛がひとすじかかっている、その美しく、いとおしい姿に、絶望に打ちひしがれて普通でなかった私のこころは射抜かれてしまい、その魅力に憑りかれた一瞬のうちに彼女を抱き寄せてしまったこと、いったいどうやって避けることができただろうか。


大使に約束した一週間の期限が近づいて私は決断に迫られた。このまま日本に帰れば、学問も修めることができずに汚名を負った私の名誉が挽回される見込みはない。それならばといってドイツに留まったとしても生計をたてる手だてがない。


このとき私を助けてくれたのは、今回の船旅に同行しているひとりでもある相沢謙吉であった。そのとき彼は東京にいて、すでに天方大臣の秘書官であったが、私の免職という官報が出たのを見て、とある新聞社の編集長を説得し、私を社の通信員として、ベルリンにとどまって政治や学芸のことなどを報告するように取り計らってくれた。

新聞社からの報酬は取るに足りない金額だったが、下宿先をかえて、昼食をとる店をかえれば、どうにか暮らしは成り立ちそうであった。このように思案するうちに、私のことを心配して、助け舟を出してくれたのがエリスであった。彼女はどうやったのか母を説得して、私は彼女たち親子の家に下宿することとなった。私とエリスは自然と、あるかないかの収入を合わせて苦しい中にも楽しい日々を送るようになった。


朝は喫茶店で食事をとり終わると、彼女は稽古にいき、稽古のない日は家に戻り、私はケーニッヒ街の、間口が狭いが奥行きが長い休憩所に赴いて、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと取材材料を集めた。開いた引き戸から光をとったこの空間には、定職をもたない若者、小金を貸して遊び暮らす老人、取引所の仕事の合間にさぼってひと休みしている商人などがいて、私は彼らと肘を並べて、冷たい石机の上で忙しく筆を走らせた。ウエイトレスがもってくる一杯のコーヒーが冷めるのも顧みず、細長い板を挿し込まれた新聞が幾種も掛かっているスタンドの壁へ何度も往復している日本人をみて、彼らは何をしているのかと思ったことだろう。また、一時近くになると稽古があった日には帰りに立ち寄って、私と共に店を出ていく、掌の上でも踊れそうな身軽な少女を、怪しそうに見送る人がいたのも致し方ないことだろう。


私の学問はすさんでしまった。

屋根裏の一灯のランプが微かに燃えて、劇場から帰ったエリスが椅子に座って編み物などをしているそばの机で、私は新聞の原稿ばかり書いていた。

法令条文の枯葉のように古くさい文章を紙上にかき寄せていた昔とは違って、今は活発な政界の変動、文学美術に関わる新しい事象の批評などを、あれこれと結びあわせて力の及ぶ限り、評論家ベルネよりかはむしろ詩人ハイネの文章術の心構えをもってさまざま作成した。多くの記事を書いていた最中には、立て続けにヴィルヘルム一世とフレデリック三世の崩御があり、その後の新帝の即位、ビスマルク宰相の進退については特に詳細な報告を行った。そのせいもあって、このごろは思った以上に忙しく、大した量もない蔵書を紐解いて昔の学業をやり直す時間もなく、大学の籍はまだ残っていたが、聴講費を収めることが難しかったので一つだけに絞っていた講義さえも聴きに行くことは稀になってしまった。


私の学問はすさんでしまった。

しかし、私は学問とは別に一種の見識を高めた。それは何かといえばジャーナリズムの見識である。このジャーナリズムがもっとも発達したところは、ヨーロッパ諸国の間でもドイツではないだろうか。数百種もの新聞、雑誌に散見される議論は大変高尚なものが多く、私は通信員になった日から、かつて大学に足繁く通っていたころに養った知識を動員して、読んではまた読み、写してはまた写すことを繰り返すうちに、今まで別々のことに思われていた知識が、自然と総括的に結びつくようになって、同郷の留学生たちのほとんどは夢にも思わないような境地に至った。彼らの中には、ドイツの新聞の社説でさえもよく読めないものがいるというのだから。

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