4.出会い

ある日の夕暮れどきであったが、私はブランデンブルク門の西にある獣苑公園を散歩して、ウンテル・デン・リンデン通りを過ぎて、私が住むモンビシュウ街の下宿に帰ろうとしてクロステル街の古い教会の前を通りかかった。

私は大通りを照らす街灯の光の海を渡り、この狭く薄暗い街角に入っていった。町通りからは、上階の手すりに干してあるシーツ、肌着などをまだ取り込んでないアパート、頬ひげを長く伸ばしたユダヤ教徒の老人が戸口にたたずむ居酒屋、一方の階段が上階に向かって延びていて、もう一方の階段は地下の穴倉のような鍛冶屋の家に通じている貸家などがみえ、その向かいにはコの字型に引っ込んで建てられた約三百年前の遺跡があった。私はその趣きに惚れ込んでしまって、見かけるたびにしばしば佇んでしまっていた。


いま、ここを通り過ぎようとしているとき、閉ざされた教会の門に寄りかかって、声を押し殺して泣くひとりの少女を見かけた。年は十六、七くらいだろう。スカーフからこぼれた髪は薄いこがね色で、身に着けていた服はさっぱりとしている。私の足音に驚いてふり返った顔の美しさといったら、私に詩人のような表現力がないので形容することができない。青く清らかで何かを問いたげな愁いを含んだ瞳が、朝露のような涙を溜めた長いまつ毛におおわれていた。なんということだろう。その瞳に一瞥されただけで、かたく用心していたはずの私のこころは奥底までのぞき込まれてしまった。


彼女は推し量りようもないほど深い嘆きの中にいて、周囲を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いていた。私は臆病さよりも憐憫の情が勝ってしまい、思いがけずそばによって、

「どうして泣いているのですか。この地に係累のいない外国人のほうがかえって力を貸しやすいこともありましょう」

と話しかけた。我ながら大胆な行動をしたものだと呆れてしまう。


彼女は驚いて珍妙な東洋人の私の顔を見ていたが、私の実直な思いを表情から読み取ってくれたのだろう、

「あなたはよい人にみえます。彼のようにむごくはないでしょう。私の母のようにも」

しばし涙を抑えて、こう言うと、また泉から湧くように滔々と涙を溢れてさせ、涙は彼女の美しい頬へ流れ落ちた。

しばし経ったころ、

「どうか私を助けていただけませんでしょうか。私が卑しい女になってしまわないように。母は彼らの言葉に従わなければならないといって、私を叩きます。父は亡くなってしまいました。明日にはお葬式をしなければならないのに、家には一銭の貯えもありません」

となんとか話すと、あとはすすり泣くだけだった。私の眼はうつむいた少女の震えるうなじに注がれていた。


私は、

「あなたの家までお送りいたしましょう。まずは落ち着いて、どうか泣くのをおやめください。ここは人も通る場所なので」

と促した。話しているうちに、彼女は無意識に私に肩を寄せてしまったが、ふと頭をもたげると、そこではじめて私に寄りかかってしまったことに気付いたのか、恥じ入って私のそばから飛びのいた。


人に見られるのは憚れるのか早足に歩く少女の後についていき、教会の筋向いの門に入ると、ところどころ欠けた石階段があった。これを昇って四階に行くと、腰を折ってようやく入れるほどの小さな扉があった。彼女は錆びた針金の先を捻じ曲げて、手をかけて戸を強く引くと、中からしゃがれた老母の声がして「誰だい」と問いかけた。

「エリスよ。今帰ってきたの」と答え切らないうちに戸が乱暴に開くと、白髪交じりで、悪い顔には見えないが、貧困の苦労をしわに刻み付けた面持ちの老母が、古いウールの服を着て、汚れた靴を履いて立っていた。エリスが私に会釈して部屋に入るや否や、老母は待ちきれない様子で、勢いよく音を立てて戸を閉めた。


私はしばし唖然として立っていたが、ふとランプの光が映す戸口を見ると「エルンスト・ワイゲルト」と漆で書いてあり、下に仕立物師と添え書きがあった。これが亡くなったという少女の父の名前であろう。中では言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、戸が再び開いた。さきほどの老母が慇懃に、自分が無礼に振る舞ったことを詫びて、私を中に迎え入れた。


扉の中は台所で、右手には低い窓に真っ白に洗った麻布を掛けていて、左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。正面の一室の戸は半分開いており、中には白い布で覆ったベッドがあった。そこに横たわる人は亡くなった父親であろう。


老母はかまどのそばにある戸を開いて私を案内した。この場所はいわゆるマンサルドという屋根裏部屋で、部屋は街に面していて天井も張られていない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めにかかった梁のポスターが貼ってある下の、立てば頭をぶつけてしまうような場所にベッドがあった。中央の机には美しいテーブルクロスをかけて、上には書物一、二冊と写真帳が並んで置いてあり、花瓶にはここには似つかわしくない高価な花束が活けられていた。

その傍らに少女が恥ずかしそうに立っていた。


彼女は大変美しかった。乳白色の顔はランプの灯に照らされて薄紅色を帯びていた。手足はか細くもすこやかで、貧家の女性には見えなかった。

老母と部屋で話した後だからだろうか。少女は少しなまった言葉で言った。

「どうかあたしを許してください。節操なくあなたをこっちまで連れてきたこと。あなたはきっといい人でしょうから、あたしを憎むことはないと思っています。

明日にはお父さんの葬儀が迫っていますが、頼みにしていたシャームベルヒ、

—――あっ、失礼しました。あなたは彼のことを知りませんよね。

彼はヴィクトリア座という劇場の座長です。私は彼に雇われてから、もう二年も経つので、父の葬儀をきっと金銭的に助けてくれるだろうと思っていたのです。だけれども私がつらく困窮していることにつけ込んで、私の体目当てに身勝手な言いがかりをつけてくるとは思ってもみませんでした。

どうか私をお助けいただけませんか。お金は少ない給料ではありますが、例え、私が困窮したとしても、その一部からお返しいたします。これもだめなら母の言葉の通り、私は卑しい身分に堕ちなければいけません」

彼女は涙ぐんで身を震わせた。彼女が見上げて私を見つめる瞳は、人に嫌とは言わせないコケティッシュさを備えていた。彼女はこの瞳の魔力を理解してやっているのだろうか。それとも自分では分かっていないのだろうか。


ポケットには二、三マルクの銀貨はあったけれども、それでは足りなさそうだったので、私は時計を外して机の上に置いた。

「これを質に入れて急場のしのぎとしてください。質屋の使いにはモンビシュウ街の三番地に住む太田のところに来れば、質料を払うと伝えてください」

少女は驚いて感動した様子を見せて、別れ際に差し出した私の手に彼女が唇をあてて挨拶をすると、はらはらと落ちる熱い涙が手の甲にそそがれた。

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