3.本心と本性

このようにして三年ばかりが夢のように過ぎてしまったが、時が経つと抑えようとしても抑えきれないのが人の本心というものだ。

私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人から神童だとほめられる嬉しさに慢心することなく学び、長官が良い部下を持ったと私を称賛する嬉しさにもたゆむことなく仕事に励んだときまでずっと、ただ受動的で機械のような人物となってしまった自分に気が付いてこなかった。

だが、今二十五歳となって、すでに長いあいだ自由なドイツの大学の気風を肌で感じてきたためであろうか、何となく心中穏やかでなくなり、こころの奥深くに潜んでいた本当の自我がだんだんと表に現れてきて、昨日までの自分が本当の自分ではないような葛藤を感じていた。私は自分が今まで思っていたような、今の世で雄飛して政治家になるのもふさわしくなく、また法典に依って罪を裁く法曹家になるのもふさわしくないと感じるようになった。


私はひそかに、母は私を生きた辞書のような博識にしようしていて、長官は私を生きた法律のような官吏にしようとしている、と感じるようになっていた。辞書になるのならばまだ耐えられるが、法律になるのは耐えられない。

いままでは些細な法律の問題にも極めて丁寧に返事を書いた私が、このころより長官に送付する文書には、単に法律の細目にこだわるべきではないと論じて、いったん法の精神を得てしまえば、複雑に絡まったようにみえることも、すべて竹を割るかのようにすっぱりと解決できるはずだ、などと公言するようになった。また、大学では法律学の講義をよそに、歴史文学に関心を寄せるようになり、だんだんとその醍醐味を理解する境地にまでに至った。


長官はもともと意のままに操れる機械をつくろうとしていた。しかし、今や、独立心を抱き、何考えているのか分からなくなった部下を長官は苦々しく思ったはずだ。わたしの当時の公費留学の地位は危なくなってきた。


* * *


これだけでは公費留学の地位を覆すまでにはならないのだが、そのころベルリンの留学生のなかで中心的なグループと私との間でいざこざがあって、彼らは私に敵意をもつだけではなく、ついには事実を曲げて上官に告げ口するまでに至ってしまった。


ここまで関係性がこじれてしまったのにも理由があった。


彼らは私が一緒にビールで杯を交わしもせず、ビリヤードのキューをとって交友を深めもしないことを、私の融通の利かなさと欲望に対する自制心によるものだとみなし、一方で嘲笑し、一方で妬んだりした。

しかし私は自分自身をそのようにさせている自分の本性に気が付いていなかったのだ。この本性は私自身さえ気が付かなかったので、他人には知る由もない。正直に言おう。私のこころはあのネムノキの葉のように人に触れると縮んで避けようとする臆病さと、処女のような繊細さで出来ていた。

幼いころから目上の人の言いつけを守り、勉学の道に励んだことも、官吏の道に進んだことも、強い信念があって、そうしていた訳ではない。すべては自分を偽って、周囲までをも欺いて、人に敷かれたレールの上をただ真っ直ぐに辿ってきただけだ。他の誘惑にこころ奪われなかったのは、誘惑の力に打ち勝つ意志があったからではなく、ただ誘惑に飛び込んでみる勇気がなくて、誘惑を前に手足を縛られたように佇んでいたからだ。

日本を発つ前にも、自分が国のために役に立つ人物であることを疑わず、また自分は困難によく耐える人物だろうことも深く信じていた。今考えれば、そんなことは一時の勘違いだった。船が横浜を離れるまで、あっぱれな豪傑だと信じて疑わなかった自分が、こらえきれない涙にハンカチを濡らしたのは我ながらおかしなことだと思っていたが、これこそが自分の本性だったのだろう。

この本性は生まれながらのものであろうか。それとも早くに父を亡くして女手ひとつで育てられたことによるのだろうか。


彼らがこのか弱く不憫な私の本性を嘲るのは全く以てその通りだと思う。しかし妬むのは筋違いというものだろう。


濃い化粧をして、派手な色の衣装をまとって喫茶店に座って客を引く娼婦をみても、そこに行って彼女たちと遊ぼうとする勇気はなく、高い帽子を被り眼鏡をかけた、プロシア貴族のような発音で話す男娼をみかけても、そこに行って彼らと遊ぼうとする勇気はない。

このように誘惑に飛び込む勇気がないのに、活動的な同郷の人々と交際しようとしないのも致しかたないだろう。彼らとの交際を疎んじてしまったがために、彼らはただ私を嘲り、私を妬むのみならず、私に敵意を持つこととなった。これが、私が冤罪を着せられて、暫くのうちに多くの艱難辛苦がその身が振りかかる遠因となった。

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