2.洋行

私は幼いころから厳しい家庭の躾をうけてきたおかげで、父親は早くに亡くしてしまったが、学業がすさんでおろそかになることなく、旧藩の学校にいたときも、東京にでて高等学校に通ったときも、大学法学部に入学後も、太田豊太郎という名前は常に首席のところに名前があった。父を亡くし一人っ子の私だけが頼りの母にとっては、それだけがこころの慰めであった。

十九歳で学士の称号を受けたが、それは大学設立以来の名誉だといわれた。中央官庁に就職して、故郷にいた母を東京に迎え、楽しい日々を送ること三年余りが経った。

長官から目をかけてもらっていたので、洋行して担当部署の業務を取り調べよとの大命を受けた。いまこそ名をあげ、家を興そうとする気持ちで勇み立ち、五十歳を超える母と別れることもそこまで悲しいとは思わず、はるばる故郷を離れてベルリンの都市に来た。


私はぼんやりとした功名心と勉学に励む自制心を持ちあわせて、このヨーロッパの大都市ベルリンの真ん中に立った。

しかしこの街の麗しさよ。私の目を射すほどの煌めく光はどこからやってくるのか。私のこころを迷わせんばかりのとりどりの色彩は何と鮮やかなことか。

大通りのウンテル・デン・リンデンは、訳せば「菩提樹の下」となり、菩提樹の下といえば仏陀が瞑想で悟りを得た場所だから、静謐な場所だろうと思っていたが、真っ直ぐな大通りに来て、石畳の道の両辺を連れ立って歩く士官や女を見てれば何ときらびやかなことか。胸を張って肩をいからせた士官は、まだヴィルヘルム一世が宮殿の窓のそばから街を一望されていた頃であったから、さまざまな色で飾り付けた礼装を身に着けており、うら若い乙女はパリ風の化粧をしている。どれもこれも驚かないものはない。

アスファルトの車道を音も立てず走るたくさんの馬車、雲にそびえた楼閣が立ち並ぶ切れ間から見える、晴れた空の下で夕立のような音をたてて滴る噴水、遠くを眺めればブランデンブルク門の向こう、街路樹の青々とした枝が折り重なった中から、中空に浮かびでてくる凱旋塔の神女の像・・・。数多くの景観が目と鼻の先に集まっているので、初めてここに来た人が全部をじっくりと見物する時間はないと聞いていたのにも納得だった。

されど私は胸中に、たとえどこに遊学しようとも関係のない物事に心動かされまい、という誓いを立てていたので、つねに私に襲いかかる外からの刺激を遮ることができた。


ドイツ連邦の盟主、プロシアの官庁に赴き、私が玄関の呼び鈴を鳴らして謁見を願い、正式な紹介状を取り出して東洋の日本からやってきたことを伝えると、プロシアの役人はみな快く私を迎え入れて、大使館の手続きが無事に済めば、どんなことでもお教えしましょうと約束してくれた。

うれしかったのは日本で学んだドイツ語、フランス語が十分通用したことだ。彼らに初対面で話しかけるといつも、いつどこでこのように語学を習得したのですか、と聞いてくる。


さて、官庁の仕事の間に暇ができれば、事前に公式に許可を取っていたので、ドイツの大学に入って政治を学ぼうと、入学手続きを行った。一、二か月と過ごすうちに、公式の打ち合わせも済んで担当業務である調査もだんだんと捗るようになってきたので、急ぎの報告書は作成して送ってしまって、そうでないものは写しを作って手元に留めて何冊かのファイルを作成した。

大学のほうは幼いころから考えていたような政治家になるためのコースなぞあるわけもなく、どれにしようかと迷いながらも、二つ、三つの法律研究家の講義に出席しようと決めて、謝金を納めて聴講した。

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