8.発覚

私が大臣の一行と共にベルリンに帰ってきたのは、ちょうど新年の朝だった。駅で一行に別れを告げて辻馬車をつかまえ、家を伝えて馬車を走らせる。ここでは今も大みそかの夜は眠らずに元旦に眠るという習慣があったので、家々は静かだった。寒さは強く、路上の雪は、とがった氷片となって、晴れた陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。

馬車はクロステル街を曲がって、家の入口に駐車した。このとき窓を開く音がしたが、馬車からは何も見えなかった。

御者にカバンを持たせて階段を上ろうとしたとき、エリスが階段を駆け下りてきた。彼女が声をあげて私のうなじを抱きしめると、それを見た御者は呆れた顔でたくわえた髭を動かして何かを言っているようだったが、私には聞こえなかった。

「よくお帰りになられました。帰っていらっしゃらなければ私は死んでいましたわ」


私のこころはこのときまでは決心が定まらず、故郷への念と功名心は時として愛情をも超えるのだと考えていたが、ただこの一瞬で思いあぐねていた悩みは吹き飛び、私は彼女を抱きしめた。彼女の頭は私の肩に寄りかかり、喜びの涙がはらはらと肩の上に落ちた。

「カバンは何階にもっていけばいいんですか」

と銅鑼が鳴ったような大声で叫んだ御者は、さっさと階段を昇って上のほうに立っていた。


戸の外で出迎えたエリスの母に「御者への心付けとしてください」と銀貨を渡して、私は手を取って引っ張るエリスに伴われて、急いで部屋に入った。部屋を一瞥して私は驚いた。机の上には白い木綿やレースがうず高く積みあがっていた。


エリスはにっこりと笑いながら、これらを指さして「私の気持ち、お分かりになりますよね」と言いながら、木綿の生地をひとつ取り上げてみせると、それはおむつだった。

「私が楽しみにしていること、想像してみてください。産まれてくる子はあなたに似て黒い瞳なのでしょうね。このあなたの瞳。あぁ、ずっと夢でしか見ることができなかったあなたの黒い瞳。産まれてきたときにはあなたの正式な子供として祝福してください。まさかあなたのお名前を名乗らせないなんてことはありませんよね」

と言うと、彼女は頭を下げた。

「幼いと笑われるかもしれませんが、産まれてくる子供に教会で洗礼を受けさせる日のことを思うと、今からでもうれしくなってきます」

と言って見上げた目には涙で満ちていた。


二、三日の間は大臣も旅の疲れがあるだろうからと、わざわざこちらから訪問することはなく、家に籠っていたが、ある日の夕暮れに使いが来て大臣に招かれた。行ってみると、丁寧に歓待されてロシア行きの労を慰めていただいたのち、大臣は

「私と共に日本へ帰る気はないか。君がどれくらい学問に通じているかは私の分かるところではないが、君は語学だけでも世間で十分に通用する人材だ。ドイツに長く滞在していたようなので、色々なしがらみもあるかもしれないと相沢君に尋ねたのだが、そのようなことないと聞いたから安心したよ」

とおっしゃった。

その様子はとても辞退することができるものではなかった。どうしようかと逡巡したが、さすがに「相沢に伝えたことは虚偽です」とは言えず、もしこの提案にすがらなければ、二度と日本に帰ることなく、名誉を挽回する機会も失い、私の身はこの広漠としたヨーロッパの都市の人の海を彷徨い、永遠に忘れ去られるだろうというという思いが全身を駆け巡った。

ああ、なんということだろう。私はエリスへの愛を貫き通すことができず、「謹んでお受けいたします」などと答えてしまった。


いくら厚顔無恥な私とはいえ、帰ってエリスに何と言えばいいのだ。ホテルを出ていくときの私の錯乱ぶりは言いようがない。私は道がどちらに向かっているのか分からず、消沈して歩くので、行きかう馬車と何度もぶつかりそうになって、御者から怒鳴りつけられては驚いて身をそらした。

しばらくして、ふと周りをみれば、獣苑公園の横に来ていた。倒れるように道端のベンチに腰を下ろし、灼けるように熱さとハンマーで殴られたように痛みを抱えた頭をベンチの背に持たれかけ、死んだように座り込んだ。どれだけ時間が経っただろうか。厳しい寒さに骨の髄まで凍えを感じて目が醒めたときは、すでに夜になって雪が強く降り、帽子のつばや外套の肩には三センチほど雪が積もっていた。


時刻は十一時を過ぎようとしていた。モハビット・カルル街通りの鉄道馬車の軌道も雪に埋まり、ブランデンブルゲル門の近くのガス燈が寂しく光っていた。立ち上がろうとしたが、足が凍えていて立ち上がれない。両手でさすってようやく歩けるようになったが、足の動きは緩慢で、クロステル街まで来たときには十二時を回っていた。ここまでどうやって道を歩いてきたのか分からない。一月上旬の夜であったので、ウンテル・デン・リンデン通りの居酒屋や喫茶店にはまだ人が出入りして賑やかだったはずだが、全く覚えていない。

私の脳内では、ただただ自分が許されない罪人であるということの悔恨で溢れていた。


四階の屋根裏部屋では、エリスはまだ寝ずに待っているのだろう、目を凝らしてみると、暗い空の向こう、ランプの灯がひとつ星のように煌めいているのが見えたが、降りしきる白鷺の羽根のような雪片によって遮られては現れて、風に弄ばれているかのようだった。

家の前までくると急に疲れを覚えて、体の節々の痛みにこらえきれず、這うように階段を昇った。台所を過ぎて部屋の扉を開けて入ると、机の横に座っておむつを縫っていたエリスはふり返って「あっ」と叫んだ。

「どうしたのですか。そのお姿は―――、」


驚くのも無理はない。蒼然として死人のような顔色をして、帽子はどこで失くしたのか、髪はぼさぼさに乱れ、何度か道で躓いて倒れたので衣服には泥まじりの雪で汚れ、ところどころが破れていた。

私は答えようとするが、声が出ず、ひざがしきりに震えに立っていられなくなって、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に昏倒してしまった。


* * *


意識が戻ったのは数週間後だった。

高熱でうわごとを言い続けている私をエリスが必死に看病していたところに、ある日、相沢が訪ねてきて、私が相沢に隠していることの一切を彼は知ることとなった。相沢は大臣には病気のことだけ報告して、うまく取り繕ってくれた。


私が意識を戻したとき、ベッドの横にいたエリスをみて、その変わり果てた姿に仰天した。彼女はこの数週間のうちにひどく痩せて、血走った目がくぼみ、頬は落ちて灰色になっていた。相沢の助けで日々の家計に窮することはなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺してしまっていたのだ。


後から聞いたところでは、彼女は相沢に会った際に、私が相沢にした約束を聞き、またあの日に大臣に帰国を承諾したことを知ったとのことだ。彼女は突然椅子から立ち上がって、顔を土気色にして、

「私の豊太郎さまは、ここまで私を欺いていらっしゃったのか!」

と叫び、その場に倒れた。

相沢は母を呼んで一緒に彼女を介抱してベッドに寝かしたが、しばらくして彼女は目を醒ますと、焦点のあわない目で、周りの人を気に掛ける様子もみせず、私の名前を呼んでひどく罵り、髪をむしり、シーツを噛んだりしたかと思えば、急に正気に戻ってなにかを探し求めた。母が様々なものを取って与えてみても、ことごとく投げ捨ててしまっていたが、机の上のおむつを与えると、これを広げて顔に押しあてて涙を流して泣いた。


これ以降、エリスが騒ぐことはなかったが、彼女の精神はもぬけの殻となってしまい、その虚ろな様子はまるで赤子のようだった。医者に診せると、過剰な心労が急に起こったことでパラノイアという精神病を発症してしまい、治療の見込みはないと言う。ダルドルフの精神病院に入院させようとするが泣き叫んで言うことを聞かず、その後はあのおむつを一つ肌身離さずにもって、取り出しては見て、見てはすすり泣くばかりであった。

エリスは私が臥せるベッドから離れることはなかったが私を気にかける様子はみせず、ただ時折、思い出したように「薬を、薬を」というだけであった。


私は病気が完治すると、生ける屍となったエリスを幾度となく抱いて、彼女の肩に何千もの涙を落とした。

大臣に随行して帰国するときに、相沢と相談しエリスの母につつましく生活するのに足る程の費用を渡し、あわれにもこころを病んでしまった彼女の胎内に残る子供が産まれたのちのことを頼んだ。


相沢健吉のような良い友はこの世で二人と得ることはできない。しかしそうであったとしても、私の脳裏の片隅に彼を憎むこころが今もまだ残っている。


(明治二十三年一月)

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