第3話

 地雷原の真ん中をコンパス頼りに進んでいくと、地面の感触が僅かに変わる。

 凍土の上に積もった雪を踏みしめていたのが、コンクリートの上に積もった雪に変わったのだ。

 僕は疲労と緊張で倒れそうになりながら、トランシーバーをポケットから取出し、スイッチをオンにする。

 チャンネルはこのままで良かった筈。

 あとは、小さな声で呼びかけるだけだ。



「……こちら、シエラ・ズールー・オスカー。一一三七の北北東にいる。撃つな」



 唇を出来るだけ動かさないように言ったのにもかかわらず、僕の口からは白い吐息が煙草の紫煙のように吹き出す。

 地雷原を突破してきた敵兵がいたら、僕は今の吐息の所為で見つかって撃ち殺されていたかもしれない。

 こんな時にはいったいどうすれば吐息は白くならないのだろうかと僕がぼけっと考えていると、トランシーバーが電波を受信して声を紡ぎ出した。

 ざりざりという雑音が混じってはいるが、それは幼さを残した女性の声で、こんな極寒の戦場には、どう転んだって似つかわしくない。



『こちらチャーリー・パパ。シエラ・ズールー・オスカー、北北東、了解。警戒を解きますので、早く戻って来てください』

「了解、チャーリー・パパ。シエラ・ズールー・オスカー、アウト」



 ドジで眼鏡でおまけにチビのカルラ・ハーパニエミだったなと、僕は声の主が銃の安全装置の存在すら知らなかったのを思い出して、少しげんなりしつつ足を動かす。

 身長が153㎝で、今回の国防実習にも落ちそうになっていた都会っ子。座学の成績が良いけど、体育ではいつも最下位な優等生。ウージーを持つのもやっとなやわな女の子。

 そんな優等生が勇気を持って、古臭いと不人気な国防実習を選んでみれば、僕たちと一緒に実戦に参加することになったのだからお笑いだ。

 僕はサーミ人猟師の家系に生まれ、銃の扱いと実技が得意だったからこの実習に参加した。友人の巨漢、レオン・アンティカイネンだってその口だ。だからこの戦闘では、僕ら実技組は即戦力としてこき使われている。猟銃と突撃銃は全然勝手が違くて困っているのに、僕らには不平不満を言う暇なんてなかった。

 不人気な国防実習に参加したのは、僕を含めてたったの六人。

 施設に駐留していた予備役兵と、教官のヴィルヘルム・グスタフ・ニスカヴァーラ大佐を含めて、やっと十三人になる。十三人じゃ小隊にもならない。精々が分隊クラスだ。しかも使う武器は使い古されたガリルやウージーの初期購入分あたりで、消費期限が切れかかっている古い弾薬とかばかり、装甲車とか戦車なんて一両もない。

 


「……こんなんで、どうするつもりなんだよ」



 誰が見たって絶望的な状況に、思わず僕は走りながら愚痴を零す。

 足に纏わりつく雪は僕の足並みを遅くする。服の下では汗がだんだんと氷水みたいになってきて、体温が冷えて関節や筋肉が固くなっていく。

 それでも心臓だけは確かに動いているのだから、不思議なものだ。

 心臓から体中に巡る血液だけは熱湯のように熱くて、頭はぼんやりと、手足は針で突かれてるみたいに痛む。

 足だけでもお湯に浸からせて、ゆっくり休憩を取りたいと思いながら、僕は針葉樹林帯を抜け、うっすらと雪を纏った第一一三七訓練施設の第二ヘリポートに辿り着いた。

 心臓は破裂寸前で、手足ががくがく震えている。服の下は汗でびっしょり濡れていて、顔なんか汗か鼻水か、それとも涙か分からないけど、とりあえずぐしょぐしょになっていた。

 両手でガリルを抱えながら、僕は呼吸を整えるために少し歩く。

 本当は手を膝について休みたかったけど、そうすると身体が凍り付いて二度と動けなくなるかもしれないから、意地でも動いてないといけない。



『こちらブラヴォー・シエラ。シエラ・ズールー・オスカーを視認。追跡者は無し』



 トランシーバーがまた声を紡ぎ出す。今度はハスキーボイス。でも、声の細さからして男ではない。

 去年の始め、自己紹介の時むっつりとした不機嫌顔で、地元の山岳地帯で狩猟をしていると言った、山岳サーミのシニ・ケトラだろう。

 学校でも浮いた存在で、黒髪黒目という容姿に名前と性格の三つを引っ掻けて、時折『黒のシニカル』とか呼ばれたりしている。

 射撃の成績は全国大会にも入れるくらいの腕前で、ここじゃ彼女は狙撃手見習いとして狙撃手用に改造されたモシン・ナガンを扱っている。十発装填の箱型弾倉に強固なマウント、それと西側製の照準器。いつ製造されたのかは分からないくらいだが、ケトラが扱っているナガンでその頃から健在なのはきっと機関部くらいなものだろう。はっきり言ってナガンだった狙撃銃と言った方が実態に合ってる。

 シニ・ケトラだってそんなもんだ。僕らの中で一番軍隊が似合ってる。女の子だった狙撃兵、といった方がいいんだ。



「シエラ・ズールー・オスカー了解。もうすぐ着くから、出迎えの準備をしておいてほしいな」

『……それは私じゃなくて、ハーパニエミに言うべきじゃないかしら?』



 嘘でもいいからしておくよとは言ってくれないんだな、と思いながら、僕は降雪の中、ぼんやりと浮かび上がってきた第一一三七訓練施設第二格納庫に向け、最後の駆け足を始める。

 トランシーバーからはもう何も聞こえてこない。黒のシニカルは返答など期待していなかったんだろう。

 こんな時だからこそ下らない会話をしたかった僕は、ケトラのような狙撃銃を抱えた少女は、僕よりもずっと戦争に向いていそうだと思った。


―――


 僕らが拠点である第一一三七訓練施設はもともと、隣国フィンランドと大国ソヴィエトが激突した冬戦争の飛び火を恐れたスコルツ陸軍が、急遽建設した仮設要塞だった。

 数か所のトーチカと地雷原によって構築された防御陣地が城壁となり、鬱蒼と茂る針葉樹林は空からの爆撃と偵察を妨げ、気温の上がる夏を除いて凍りつく地面は、攻め込む側が塹壕を掘る際、スコップの刃先を頑なに拒む。

 しかし、冬戦争がフィンランドの敗北で終わると、仮設要塞は意味を無くし、小規模な部隊の駐屯する訓練施設として使われ始める。

 それが終わりを迎えたのは、フィンランドとスコルツが手を結んでソヴィエトに侵攻し、そして逆侵攻を防いだ継続戦争でだ。

 正規軍の他に、亡命したコサックや白ロシアの敗残兵などが義勇兵として参加した際、彼らに与えられたのが、イナリ湖に程近いこの仮設要塞だったのだ。

 仮設要塞はその際に『第一義勇兵駐屯地』と名前を変え、継続戦争の最前線を戦い抜き、戦後には小規模な増設工事が行われ、国防実習のための訓練施設として登録された。



 そう、スコルツ王国が他の国と違い、時には特異とまで評される―――国防実習。



 国民皆兵を国是とするイスラエルやスイスでも、高校の選択科目で陸軍の戦闘実習訓練が冬季休暇中に行われるなんてことはない。

 しかし、アメリカとソヴィエトの間で続く冷戦の最前線に位置するスコルツ王国は、国民総数が少なく、予備役を動員したとしてもソヴィエト軍の梯団突撃による縦深攻撃を防ぐことができない。

 そのため高等教育を受けた十六歳以上の国民に対して、志願制の実習訓練を行っている。これに参加すれば一八歳の徴兵を回避できるが、かわりに一六歳から予備役登録され訓練課程への参加が義務付けられる。当然、その間の学業は休学となり、仕事も休職ということになる。

 その補填がないわけではない。学生ならば単位が与えられ、社会人ならば日給と税金の一部免除などが施されるが、国防実習中に戦時へ移行した場合、実習中の国民は軍に徴集され、兵士として行動しなければならない。

 誰もが予想だにしなかったことだけに、僕らは今でもこれが戦争なんだと実感できずにいる。

 これはまだ、国防実習の実技テストか何かなんじゃないかと思っているのだ。



「ひゃぁー……やっぱ冷え込みやがるな。俺の感覚じゃ氷点下二十度以下だったぜ」



 だから、男子更衣室で真っ白な偽装服を脱いで真新しい訓練生用の衣服に着替えている時でさえ、そんな軽口が飛び交う。

 もっとも、軽口を飛ばしているのが国防実習参加者で一番大きくて筋肉のついた、体力自慢でお喋りなレオン・アンティカイネンだからというのもあるのだが。



「こんなところに武器持って旅行にくるなんて、レツィアの野郎はなに考えてんだか分かんねえな」

「そういうレオも、こんな寒くて足場の悪いとこで重さ十四キロもあるカールグスタフを背負ってるじゃないか。どっちもどっちだよ」



 フェルトで作られた分厚いコートを羽織りながら、僕はいつまでたっても上半身裸のまま着替えをしようとしないレオンに、ちょっと非難混じりの口調で言った。

 例のチビでドジで眼鏡でツインテールのハーパニエミにさらっと口頭で報告をして、僕がこの更衣室に入った時から、レオンはずっと喋りっ放しで上半身裸のままなのだ。

 しかし単純馬鹿が人間の皮を被ったような男が、僕みたいなひょろひょろな少年の細かな非難に気付くはずもない。金色に鈍く光るツンツン頭を手で掻き上げると、レオンはにやりと笑う。



「お前だって四キロのガリルを持ってるだろ」

「レオのより十キロも軽い」

「たかが十キロだ。同じようなもんだ」



 そのたかが十キロに、一発一キロ以上もする砲弾を数発持って歩いているのだから、合計で軽く十七キロくらいになるんじゃないのか、と僕はツッコミを入れるべきか悩む。

 でもいつまで続くか分からないボケとツッコミの応酬じゃ、泥沼化するのは見えきってる。

 しかたなく、僕は使い古されたキャンバスの軍用バッグを肩に担いで、わざとらしく溜息を吐く。



「それよりも、さっさと着替えてくれよ。シャワールームが使えるのは午後六時半まで。それから先は女子が使うって決まってるの、忘れたのかよ」

「おっと。忘れちゃいないぜ。ただまあ、俺はお前みたいにぶかぶかに着込む必要がないから、その分だけ口を動かしてたんだ。パトロール中はおしゃべりできないからな」



 お前も喋れる時に喋っておけよと、余計な心配をしながらレオンがシャツと上着だけ着てバッグを片手に引っ掴む。

 室内とは言え、第二格納庫の男子更衣室の暖房は利きが悪いので、気温は五度を上回ることがない。

 それなのに防寒着すら着ようとしない友人に呆れながら、僕はドアを開ける。



「しかし、お前も少しは悪知恵働かせた方が良いぞ。ユーリ」



 シャワールームに向う途中、レオンが言う。

 僕はバッグの中の石鹸や剃刀が盗まれていないかを確認する振りをしながら、適当に相槌を打った。



「ああ、そうかもね」

「そうだそうだ。少し遅れて行けば、女子のヌードが拝めるかもしれなかったんだからな。裸だぞ、は・だ・か」



 僕は即座に女体を拝むためにいろいろと犠牲にするものが多すぎるだろうと言い返しそうになる。

 けれど思わず、僕の脳内では扉を開けた瞬間、ハーパニエミとケトラが服を脱いで一糸纏わぬ姿になっているところを想像してしまっていた。

 ハーパニエミの背は小さいが、胸の膨らみで言ったらケトラよりはある。一方でケトラといったらあのスレンダーな体つき。どちらも女の子らしい柔らかさがあるんだろうなと、僕はちょっとドキっとした。



「……まあ、そうかもね」



 完全否定することもできず、僕はボソリとレオンに言う。

 レオンだって僕だって、まだ高校二年生の十六歳。健全な男子高校生なのだ。

 そんな言い訳染みた説明が、僕の胸の中で空しく響いた。

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